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江戸時代の敵討ち

wikipedia「敵討ち」の文に 仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、⋯⋯「江戸幕府によって法制化される」 に至ってその形式が完成された。 とありますが、敵討ちを正当化した江戸時代の法典というのは何でしょうか。 私的制裁権としての「無礼打ち」や「妻敵討」は、江戸時代の刑法である「公事方御定書」の中にその定義がありますが、敵討ちはどうも違うようです。 HP上にも関連記事は沢山見つかりますが、その根拠を示した文章を見つけることができないでいます。

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noname#252332
noname#252332
回答No.1

 公事方御定書に書いてあるとのことでござる。 http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/akaho_gishi.htm 『これが国家・社会が関与したのは江戸時代の公事方御定書制定以後からであるとされる。公刑主義が導入されたのである。ただ、それまでと異なるのは、幕府が関与したことと復讐(仇討)の概念を明確にしたことである。公事方御定書(寛保2年〔1742年―徳川吉宗時代〕)の附録に「内緒にて仇を討つことは処罰する」とあり、領主の許可を得れば処罰を免れることになっていた。さらに実際の運用では、事前の許可を得ずに仇を討ってもその後の吟味で仇討と判明すれば処罰を免れた。これは武士町民を問わなかった。したがって、町民などにも刑の減免が認められていた(同上百箇条〔公事方御定書 下巻〕第72条、第74条)。これは戦国大名の分国法での仇討を整文化したものとされるが、見出すことができかった。慣習法を成文化したのではなかろうか。  公事方御定書制定以前は、それまでの仇討法(仇討慣習法)が成立していたのであって、仇討には届出・許可が必要なかったのである。さらに、仇討の意義は広義に採らえられていた。例えば、妻が密通した場合に夫が密夫および妻を殺害するのも仇討と認められていたし、子・弟など目下の者を殺された場合も仇討が認められていた。  このように仇討を規制したのは、それ以前の「浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷事件(「松の廊下事件」)」後の仇討に関する混乱を収めるためだったと考えられよう。  公事方御定書では、仇討は目上の者を殺された場合に限って許されることになった。これは儒教の影響によるものである。』

kahe
質問者

補足

ご配慮誠にかたじけのうござる。 ただ残念ながらご紹介いただいたHPの文章は間違っているようです。 御定書72、74は、敵討ちに関する文章とは読めません。