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武士と公務員の違いと武士の公務員化について
- 江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思いますが、明治初期の公務員とは大きく異なります。
- 武士は世襲であり、試験選抜ではないため、明治初期の公務員の感覚とは異なると思われます。
- 徳川家を含む有力武家が知行を放棄したことは不思議な出来事であり、武士のアイデンティティの変化を理解する必要があります。
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徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。 明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側の諸藩が佐幕派の藩に進軍したりしており、多くの佐幕藩は新政府側に降伏しています。さらに新暦の明治二年1869年の6月27日に箱館戦争で榎本武揚らが降伏するまで、東北地方を中心に戊辰戦争は続くわけです。西日本を中心に降伏した藩は多かったわけですが、全国規模での内戦に新政府はともかくも勝利したわけで、その勢威は全国を圧していたと考えられます。また、版籍奉還・廃藩置県に至る過程では、維新に功績のあったものに対しては賞典禄を支給し、さらに大名・士族には石高・俸禄に変わり家禄を減額しつつも中央政府支給に改めて、俸禄制度(賞典禄・家禄を合わせて秩禄という)を維持しています。そのような優遇策のもと薩長土からの御親兵の武力を背景にクーデター的に廃藩置県を断行し、藩を廃止し、版籍奉還後に知藩事になっていた旧藩主を罷免し東京移住を命じ、旧藩士も藩の解体とともに失職することになるわけです。とても返上というような状況ではなかったと思います。しかし、華族となった大名とともに士族は失職はしても収入である秩禄はある状態ですので、この段階では大きな反乱には結びつきません。これは、前記したように幕末多くの藩で財政的に行き詰まり、さらに幕末・維新の動乱の戦費等の出費で各藩の財政は危機的状況に追い込まれ、廃藩置県以前に廃藩を申し出る藩主がでたり、財政危機の中、藩札をはじめ債務を政府が肩代わりすることから歓迎する藩も多くあったような状況がありました。そのように考えると封建制度は限界にあったのかもしれません。また、フランス革命などを見ても旧勢力が全面的に反革命に走り、内戦に至るほど革命政府に反することは稀です。戊辰戦争という旧勢力との内戦の勝利が実質的に廃藩置県を招来したのではないでしょうか。 なお、士族の反乱は、戊辰戦争に官軍として加わった士族の中に新政府の中でその主張が反映されず、武士の特権や俸禄が処分されることに対して不平を抱くことが多く、明治6年の征韓論はこのような勢力を背景としたものでした。征韓論で敗れた勢力はその後二つの流れを持ちますが、一つが板垣退助らの自由民権運動への流れ。二つ目が武力蜂起の流れです。明治7年の佐賀の乱は例外ですが、敬神党(神風連)の乱から西南戦争に至る士族の反乱・内戦は全て明治9年の廃刀令と秩禄処分後に勃発しており、それだけ俸禄の廃止は大きいことだったと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E5%8F%8D%E4%B9%B1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1 明治期の公務員についてですが、そもそもこの時期に公務員という用語が適切であるかは議論のあるところだとは思います。明治から戦前までは「天皇の官吏」、戦後は「公務員」とする方が違いがはっきりするように思います。官尊民卑などの言葉に代表されます。この件に関してはwikiの官僚制の中の辻清明の説が端的に言い表していると思います。 大日本帝国憲法(明治憲法)はその中で 第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル と規定しています。これは官制大権と呼ばれ、「天皇の官吏」の裏付けとなる条文ですが、憲法の成立以前から状況としては同じで、将軍の座に天皇が代わってすわり、支配・被支配の関係は変わりませんでした。将軍と臣下の関係の親疎が御目見・御目見以下で分けられるように、天皇と官吏の親疎も、親任官・勅任官・奏任官(以上が高等官)・判任官の区別が存在しました。 国民との関係も江戸期からの流れを引き継ぎ、為政者として上から目線でした。権力の最下部機関である巡査が「おい、こら」と国民に対したことにその一端が現れています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%90%8F http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A%E5%88%B6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%BB%E5%AE%98 以上、長くなり、期待通りの回答にはならなかったと思いますが、参考まで。
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- fumkum
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前提がちょっと違うような感じがしますので、そのことから初めて本題に。長くなって一回では回答できないので2回に分け、wikiが中心ですが根拠も合わせて明示します。 先祖代々一所懸命であるはずの武士」ですが、3つの事柄から武士は土地から切り離されていきます。 一つ目は大規模な移動です。武士の居住地からの移動は鎌倉時代からありました。例えば奥州征服後、北条氏との政争に敗れて、蒙古襲来に備えて等多くあったわけです。その後も南北朝の争乱等による移動もあったのですが、豊臣・徳川の全国統一政権ができると例外(島津・宗・南部など)を除いて、ほとんどの大名が領地の移動を経験します。徳川家も秀吉により本拠地の三河等から関東へ移動させられています。大名の鉢植えとも言われる移動(領地替え・転封)により大名は本来の領地との結びつきを奪われていきます。 二つ目が武士の城下町への集住です。江戸時代はこれも薩摩・伊達などの例外を除き、武士は城下に住むことが義務とされ、農村に武士はいませんでした。このことにより武士と農村の密接な結びつきが絶たれていきます。 三つ目が地方召上と呼ばれる政策です。大名(徳川将軍家を含む)などに使える武士の知行には地方知行と蔵米知行の二通りがあり、地方知行は所領(知行地)を与えられ、領民を支配し、年貢を徴税する知行方式です。これに対して蔵米知行は知行地を持たず、大名の直轄地(蔵入地)からの年貢を俸禄として現物支給(一部金銭支給もあった)される知行方式です。大名が領内一円支配を進め、権力基盤の強化や、財政基盤の強化のために地方知行から蔵米知行へと移行することが多く、17世紀後半には多くの藩で地方知行方式は見られなくなり、武士はいよいよ土地から切り離され、俸禄を受け取るサラリーマン化していきます。武士が一所懸命の時代は、実際に土地・農民を支配し、同時に農業経営者としての面も持ち合わせた時代を中心に成立した概念ですが、全ての武士が原則城下町に集住し、領地との密接な結びつきを絶たれ、さらに多くの武士が蔵米知行に移行することにより領地すら取り上げられ、サラリーマン化します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%9B%B4 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%B1%B3 次に思想面を見ていくと、藩校という教育制度がほとんどの藩で設置されます。幕府でも遅れて昌平坂学問所を設置します。これらの藩校は文武両道のもと、儒学(後には洋学・国学なども取り入れられる)を中心に文が、剣道・馬術などの武の教育が行われ、藩の官僚として、また指導者としての人材の育成と武士の教育(Wikiは藩政改革の人材育成と記述)を目指すもので、武断政治から文治政治への転換期に藩校が設置され始めたことは象徴的で、人治から法治へ、戦士から官僚への転換が行われていくことになります。徳川将軍の施政方針でもある武家諸法度について、德川綱吉はそれまでの「文武弓馬之道、専可相嗜事(寛文令)」から、天和令で「文武忠孝を励し可正礼儀事」とし、儒学に基づく文治政治への転換をはかり、これが受け継がれ、各藩にも影響を与えます。修身斉家治国平天下・経世済民・愛民などの考え方も儒学の中に含まれ、儒学を中心に武士の思想的背景となっていきます。また、藩校だけでなく独自に学ぶものも多く、武士階級出身の文化人なども多く輩出するのみでなく、大坂奉行所元与力の大塩平八郎(陽明学者でもある)の乱に見られるように、貧民救済を掲げて反乱を起こすまでに為政者としての自覚が広く、かつ中・下級武士にまで広まっていることがうかがえます。 藩校は時代が下るに従い、儒学だけでなく、洋学・国学なども取り入れられ、年齢や学力による学級制も取り入れる藩校も多く存在しました。 幕末近くになると多くの藩で中・下級藩士で有能な人材を登用して財政の再建と反権力の強化を目指す藩政改革が行われ、薩長土肥などのように藩政改革に成功した藩が雄藩として幕末の政局に大きな影響を及ぼしただけでなく、明治維新の中心勢力になっていきます。さらに藩政改革の一環として藩営専売制(多くの藩で実施)や藩営工場を設立するなどの藩も出現しますが、これらの活動を支えたのも有能な藩官僚としての人材でした。これについては土井利忠の藩政改革を参考に。なお、多くの藩では藩政改革、特に財政改革に成功せず、赤字財政で藩運営がにっちもさっちもいかないことが廃藩置県に影響します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E6%A0%A1 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E4%B8%96%E6%B8%88%E6%B0%91 土井利忠の藩政改革 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E5%BF%A0 幕府のことを公儀と呼ぶことがあることはご存じだと思いますが、実は大公儀との呼び方もあります。これは、各藩を公儀と呼ぶことに対して、公儀の公儀との意味で用いられています。つまり、中央政権である幕府だけでなく各藩も公権力を持つ存在であることを端的に表しています。上杉鷹山の「伝国の辞」には藩のことを「国家」とし、人民は国家に属し、領主は人民のためにあるのであって、人民を領主の勝手にしてはならないとしています。この考え方は現代にも通じ、当時の儒学の考え方の延長線上にあるもので、程度の違いがあっても、江戸時代の後半の武士の考え方の一端でもありました。現代の公務員にも通ずる考え方だと思います。 「伝国の辞」 1、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候 1、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候 1、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%84%80 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%B7%B9%E5%B1%B1 http://www.bestsuppli-kan.com/160/ 次に武士の試験制度ですが、これは江戸時代の武士社会でも存在しました。全面的にということはないのですが、幕府でいえば、寛政の改革の中に学問吟味があり、昌平坂学問所の学問吟味のことで、1792年に第1回の試験がありましたが成績は発表されず、1794年の第2回目の時に、御目見以上の首席が有名な遠山金四郎の父親の遠山景晋、御目見以下の首席は太田蜀山人(直次郎)。遠山は目付を経て長崎奉行・勘定奉行を歴任。太田は勘定所の下級官吏の支配勘定になっています。学問吟味は「慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われた(wiki)」たされ、実質的には採用試験の色彩を帯びていました。学問吟味以外にも年少者を対象とした素読吟味。勘定所系統の算勘吟味などもあったようです。諸藩では藩校が学力による学級制を取り入れる藩があるなど、優秀な人材は藩校の成績で登用したようですが、ある面で藩校の毎日が試験ともいえると思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9(学問吟味) http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20070120/oota
お礼
ご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。 出典明記ありがとございます。
補足
根こそぎひっくり返されるとは思ってもいませんでした。確かに、そういう期待はありませんでした(笑)感心しております。引用元の提示もありがとうございます。 どうもこれは、★「武断政治から文治政治」が、封建時代の致命傷になっていた事を実感しないといけませんね。単に戦争がなかった時代だから文治主義という暗記では副作用を知らない状態と同じに思いました。 武士にケチを付けたくはないがいわゆる戦士や武者とは程遠い理知的な支配階級になっていたのでしょうね。思うほど好戦的ではなかったかもしれません。話せば分かる幕末武士が少なくなかったというか。 精神論者ではない理性的な戦争家が一番日本の舵取りに相応しいのかも知れません。それが政治家のはずなのですが。今度は明治近代化で役人を強くしすぎた後遺症で、世界に劣る政治に成り下がっているような。文官であれ武官であれ朝廷の役人(国家公務員)では国の判断を誤るでしょう。というか徴税以外に成功していませんね(笑)日本の役人は、世界一の文治主義者でしょうから。 武士社会の終焉は、江戸時代の武家の怠けが理想的な形で良い方向に作用したということでしょうかね。 徳川家の財政もよくなかったのでしょうか。財産を賭して戦う、あるいは城に火をかけるのが、武家のような気もしますが。将軍家を含め各大名のトップが武人でなくなっていたのでしょうかね。 fumkumさんのとしては、明治維新は、ほぼ(私利私欲的な近代的力学で)必然的な説明の付く、化け学反応のエネルギー的にも無茶のない、順当な流れなのでしょうか。
- fujic-1990
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1番回答者です。 > 「天皇の土地」という武士の認識は、・・・ 日本が「天皇の土地」という認識は、ごく上流の、源平藤橘という「氏」を誇るような階級は持っていたでしょうが、それ以外の武士は持っていなかったと思います。 上級武士が「源平藤橘」という出自を誇ることは先祖を誇ることであり、すなわち、先祖と天皇家のつながりの深さを誇ることです。 天皇がただの「人」であれば、天皇と深いつながりがあるからと言って、それがどうしたという話になりますから、「天皇は偉いのだ」ということにしないといけません。 天皇は非常に尊いのだ。ゆえに、天皇と深いつながりをもつ我が家も尊いのだ、ということでないと、論理的に破綻します。 一見好き勝手やったみたいな戦国時代にあっても、戦国大名は上洛しようとしましたし、信長でさえ、天皇の仲介で矛を収めたりしています。 あまり氏素性のハッキリしない者でさえ「山城守」などと、本来天皇からもらうハズの守名乗りを有り難がって、でも手に入らないので僭称していたほどですから、「日本の本当の持ち主は天皇」という自覚はあったものと思います。 しかし、そういうものからも外れたような下級武士が、そういう自覚をもったのは、自分たちが仕えていた大名が、徳川に逆らうための理論武装として、「日本の本当の持ち主は天皇。徳川ではない」と言いだして、家臣たちを教育した結果だったろうと思います。 これは小説だったかノンフィクションか忘れましたが、幕末の藩校・私塾でそういう日本史を知って目からウロコが落ちたような、生まれ変わったような感慨を得たと述懐した幕末の志士もいたはずです。 いわんや、農民がそのような自覚をもっていたとは思えません。 農民は、家康の言葉をかりれば、「生かさず殺さず」です。今の某国と同様、意図的に無知にさせられた形跡さえ感じられます。 ただ、「山の民」と言われるような人々は、天皇家や天皇家の権能を代行する貴族から自由に山から山へ移動する権利などなどを認められていたとかいう話であり、彼らはそれを誇りにしていたらしいので、そのような自覚を持っていた、かもしれません。 後醍醐天皇ら南朝を保護したのは、そういう山の民だったという話もあります。 どこまで史実かわかりませんが、私も熊野の地へ行ってみて、ありそうな話だと思いました。
お礼
ご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。 天皇の存在(皇統)は日本国内の平和さの為に何かと都合が良かったのですね。 今後とも宜しくお願いします。
補足
No.6までのご回答者の皆さんありがとうございます。これほどご教授いただけるとは思ってもいませんでした。自分の勉強量ならびに歴史センスの不足を反省しております。No.6まで参考になったボタンを押させて頂きます。 fujic-1990さん再びありがとうございます。今回のように”考える歴史”は面白いですねえ。 清和源氏ですからね。学習者が清和(天皇)を省いて単に「源氏」と述べる横着をしているから天皇家への崇拝を忘れてしまうのでしょうね。他の回答にある鎌倉武士と武士との区別の無さも横着が元ですね。学び方の勉強にもなりましたよ。知識は丸暗記してでも簡略しない方が価値があるようですね。 >『「山城守」などと、本来天皇からもらうハズの守名乗りを有り難がって、でも手に入らないので僭称していたほどですから、』 これも鋭いというか、回答者さんは賢いですね。なるほど、乱世であっても、あくまでも朝廷の形式を模していたのですよね(笑)それではどうやっても易姓革命にさえならないのですね。日本国皇帝が現在完了進行形で、どの時代も天皇家ほど正当性がはっきりしている人物もいないわけで。日本では、公務員も悪党も、天皇やお上の権威を利用しているんですね(笑)天皇なんか知るか引きずり下ろせと考えるのは近代以降の社会主義者ぐらいですからね。愛国的民主国家において、ゆかり発言などなさることのないよう、天皇はもっと外交・政治からお離れになられるべきだと私は思っていますがそれでも無き物にしてしまえなどと結論しません。 >『徳川に逆らうための理論武装として、「日本の本当の持ち主は天皇。徳川ではない」と言いだして、家臣たちを教育した結果』 なるほど、一部の神道系思想ではそうだったと思いますが、全国的にはどうなんでしょう。幕臣もそういう思想に感化されていたのでしょうか。 現代人の心理にもつながる勉強法が一番勉強になります。なんで多数派の庶民が支配され続けてきたか、日本の秩序の正体とは何かを肌で感じてきました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
本郷 和人さんが武士の公僕化というか、統治者としての責任感の醸成のようなことを書いています。 http://www.nhk.or.jp/sakanobori/cast/index.html さかのぼり日本史で 磯田さんも似たような視点ですね。 本郷さん = 小和田さん = 磯田さん (鎌倉室町) 戦国 江戸 という感じでやったのですが、小和田さんの歴史観がちょっと違ったなぁという感じだった。 本郷さんと磯田さんは武家の責任感の醸成という意味で、似たような史観だった。 鎌倉時代的な発想の一所懸命を直接江戸時代の武士につなげるのは、少し無理があるかなと。 近世武家(江戸時代の武士)への変身は 1 信長→秀吉→家康 個別家臣団の大膨張と士農分離による鉢植え化 例えば西欧史でハプスブルグ家が拡大したとか言いながら、戦国末期の信長、秀吉、家康の家臣団の大膨張の速度にはかないません。 江戸初期に、自分の父祖の地を統治していたのは、島津家くらいなもの。毛利家にしても、祖父の元就が1555-1557に攻略した防長二州ですから、先祖代々一所懸命とは言えない。 2 保科正之→綱吉 1665年寛文武家諸法度 殉死の禁止 この辺のステップを踏んだのかと 1で、一所懸命をする一所との紐帯が無くなった。代わりに強まるのが、主君への個人的紐帯。 殉死自体が、戦国時代にはなくて、江戸時代になってから生まれています。 2で大名個人への忠誠から、大名家という組織への忠誠へと移行 この辺で、公機関への奉仕という意味で、武士の公務員化が成立するのではないかと 閑話休題 21世紀でも http://mimizun.com/log/2ch/news2/1103780336/ こんなことをしようとしてところがあるらしい orz
お礼
ご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。 地方自治は自己責任ということで。問題は霞ヶ関ですね。外国には何も出来ない癖に、日本中を支配しています。あしき支那文化(律令制)のような感じです。 今後とも宜しくお願いします。
補足
いつもありがとうございます。 ご指摘のように鎌倉武士と分けなければなりませんね。つい一緒くたにして武士を語ってしまいますね。歴史教育でも普段の用例でもそこを注意されるべきですね。お優しいご指導ありがとうございます。 公僕化した武士は何武士と言うべきなんでしょう。やはり武士と単独いえば武人であり一所懸命に落ち着いてもいいように思うので公僕化した武士の方に熟語を用意すべきでしょう。そういう言葉がない事がこの問題の真相を物語っているようにも感じます。 小生はテレビ見ないんですよ。だから内容が分かりません。 >「2で大名個人への忠誠から、大名家という組織への忠誠へと移行」 譜代というやつですね。兵農分離後の足軽が譜代化(笑) 家康も駿府ですからね(笑)人質だった時の地です。かなり個人主義的ですよね。
- phj
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日本以外の国も含めて、封建主義的な制度では、武家と庶民(士農工商)や王族・貴族・庶民のように階級(階層)が分かれていました。 なぜ分かれていたかというと「政治分配のスキル・行政運営のスキル・戦略戦術のスキル(外交と戦争)」の継承に莫大なコストがかかったからです。 市民が等しく教育を受けられるようになったのは近代以降であり、それは産業革命以降、教育(日本で言えば読み書きそろばん程度)を受けた労働者のほうが利益を上げられるようになったからです。しかし、教育には初等教育だけでも6年程度(小学校卒業程度)生まれたときから見れば12年程度は学業だけでご飯をたべさせなければならないので、近代以前の農本主義の時代の庶民にはそんな経済的余裕はなかったのです。 したがって読み書きそろばんに始まり、高等数学を使った行政や経済政策の立案運営、戦略や戦術を学び戦争や外交に生かす訓練と学習、法学や天文学などは一部の特権階級の「家」が代々担うことになっており、「家」に出来の悪い嫡子しかいない場合は、養子をもらって「家業」と「家系」を切り離して運営するということも普通に行われました。 日本に戻ってこの事情を当てはめたとき、都(京都)に居る荘園領主から荘園管理を任せれた武士階級は自分たちで努力しつつ、政治的経済的運営スキルを高めてきました。これらの蓄積があって初めて王家(天皇)に対立することができたのです。 今年の大河ドラマは平清盛ですが、清盛が軍事的な後ろ盾と経済的な実力をもって朝廷に政治的にも君臨できたのは、このようなスキルの充実があったからです。 その後、平家は敗れますが次に源氏が登場し鎌倉幕府が成立します。つまりこの時点で「家」として戦争をするだけではなく、行政が得意な家系が行政を担い、財政が得意な家系が財政を担い、戦争の得意な家系が戦略と戦術を担う、という役割分担が出来ていたのです。 このときに行政的な役割を担っている「家」の意識はすでに「公」=自分の仕える主家だけでなく、自分の所属する領主領地(後の幕府や藩)の領民の生活の安定、というものがあったと思います。 これはいい意味だけでなく、領民が農地を耕し経済を回すことで組織としての領主領地の実力自体があがるわけですから、実際としてかなり領民の生活の安定ということには気を配ったと見ていいと思います。 ですので、徳川幕府が大政奉還した際に、幕府の大蔵部門や行政部門を明治政府に引き継ぐことで、比較的スムーズに権力移譲が完成したのです。 徳川幕府は開闢時の頃は、行政運営などを主業務とする「家」であっても戦争に借り出されることがあったでしょうが、戦争もなく300年以上平和に国家運営をしてきた間、「公」の意識がより強くなり、明治維新後近代化する際に「日本的な民主主義」の基礎となったことは事実なのです。 また幕府内の各家系だけでなく、各藩における家系も公的意識が強くなり、廃藩置県のときにスムーズに権力移行できる基礎が出来ていたといえます。 また廃藩置県について、なぜスムーズに移行できたのかは江戸時代に「公」の意識が確立されたという点ともうひとつ日本的な事情があります。 それは「日本の封建領主は統治権はもっていたが、土地の所有権は有していなかった」ということです。 他国の封建領主というのは大地主であり領地は(原則として)その領主の所有物であり、だからこそ統治権があって税金を課したり法律を適用させたりできる、というのが普通です。 ところが日本では、土地の権利は日本を統一した天皇家(大和朝廷)のものであり、律令で公地公民を具体化した法的な権限があり、永代開墾私財の法により土地を開墾した部分は個人の所有だったのです。 鎌倉幕府以降の「幕府による日本統治権の法理」は天皇の勅許による軍政(征夷大将軍とは軍事指揮権を与えたにすぎず、軍事上「必要ならば」政府を作ってもいいよ、ということ)だったので、鎌倉幕府が制定した法律である「御成敗式目」にも「この法律は武家と武家の統治する領民に限る」と書いてあります。つまり律令で定めた天皇や公家とその領地は依然同様に律令(と公家法)が適用され、御成敗式目はあくまでも鎌倉幕府に参加する武家領主の場所に限る、ということだったのです。江戸時代に成立した「武家諸法度」もこの御成敗式目の法理を遵守しているため、日本の法律には律令と武家法が同時に生きており、土地の所有権そのものは律令で保証された上で、税金(年貢)などは武家法に則って領地支配者である武家が強制力をもって納税させることができる、とされていたのです。 ものすごく簡単に言うと、GHQが占領していた敗戦期の日本みたいなもので、元々国の政府である大和朝廷(日本国の国会など)に対して武家政権が征夷大将軍として支配した場所は勝手に出来る(GHQはポツダム宣言とサンフランシスコ講和条約により日本を占領)というのが分かりやすいかと思います。 いずれにしても、大政奉還も廃藩置県も「もともと日本国は天皇のものでありますので、政治権力も含めてお返しします」というのが法理から見ての真相であり、だからこそ領民としては「今までは領主様に収めていたのを、今度は政府??というものに収めればいいんだろ」程度の認識でしたし、領主である大名はむしろ華族に列された上に、知行(支配者として政治を行う義務)がなくなったことを喜んだといわれていますので、他国にくらべればハードルは低かったといえます。 しかし、そうはいっても一部の行政専門家である武士階級を除いて200万人にも上る武士階級が大量に解雇されてしまったり、藩に融資していたお金が突然債務不履行になった商人には破産したものも多く、混乱も大きかったですし、それが西南戦争に代表される士族反乱につながっていきました。 しかし、他国の歴史(たとえばフランス革命やイギリスのマグナカルタ、インド独立と階級制度の未解決)と比べた場合、著しく異なってすばやく急激に近代化に成功しており、それは幕藩体制時に生まれた「公」の意識と二重制度だった統治制度に由来してるといえます。 これを踏まえて江戸時代-明治時代-現代と見たときに、江戸時代と明治時代はシンパシーがあるのではないでしょうか。それはつまり「領主に忠誠を誓いつつ、領主のために領民に対して公平な政治を行う」という意味で、江戸時代は藩主と幕府、明治時代は天皇ということになります。 それに対して現代の国民主権国家としての公務員はかなり別物という気がします。もちろん「公」という意識は江戸時代や明治時代よりももっと拡大し、領民から公民そして市民(英語で言うシチズンシップ)に変化しているものの、公務員が市民の代表であり奉仕者である、という意識はなかなか実感できないからです。 たしかに霞ヶ関で日夜激務を行っている官僚などは「公」というものを意識していると思いますが、同時天下り官僚やどこかの市役所職員のように私腹を肥やすことに腐心している人々もたくさん居ます。 その点で、主人が明確に見えていた江戸時代や天皇元首時代(明治時代)と現代は少し意識に差があると思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。 行政権そのものが利権なのですね。 今後とも宜しくお願いします。
補足
回答者さんのお話は歴史学の神髄ですね。たいへん為になりました。なかなかここまでコンパクトに教えてもらえる事はないと思います。まったく世間の学者・教育者は何を語っているというのでしょう。回答欄の文字数いっぱい埋めても薄い本にもなりません。それなのに非常に重要な歴史センスがつまっています。 カタカナ用語は馬鹿が使うものだと思っているのですがあえて使うとテクノクラートの誕生についてですよね。 基礎教育の面でハンディがあったのですね。それに比べると今の左翼がしている、教育の格差とかなんとかは努力の足りない馬鹿が言い掛かりつけているだけの議論で責任転嫁ですね。 お話はぜんぶ感心したのですが、たとえば中世以前に遡った行政能力を議論してくれたお蔭で統治に対する現実的なイメージを得ることができました。素晴らしい説明だと思いました。そんな風に教えてもらえたらみんな歴史に賢くなりますよ。ありがとうございます。 封建時代以前は、まさに文字通りに専門家というのは家だったのですね(笑) 大名家はもちろん、徳川将軍家でさえ、地主ではないという立場に回帰できるのが、やはり不思議です。たぶんそこを学習していくと日本史がよく分かるようになりそうな気がします。律令体制の趣旨を武士が遵守していたというのが不思議です。良く言えば日本人の律儀さ、悪く言えば主体性の無さなのでしょうか。 説明のためとは思いますが、GHQのたとえは少し強引なところがありますよね。征夷大将軍の親方は天皇ですが、GHQの親方は大統領と米国民です。 ★その法理に従わないのがふつうの国の歴史だと思うのですよ(もちろん戊辰戦争はあったのですがね)。ふつう私利私欲で政治学は論理構成されていますが、ラスト侍の行動は、ふつうの科学とは逆説的になるような感じです。やはり日本特殊論になるのでしょうか。明治維新のような奇蹟は日本人でなければ無理だったような気がしてきました。 >「公務員が市民の代表であり奉仕者である、という意識はなかなか実感できないからです。」 暗示的ですね。時代劇を模した政府批判は結構しっくりしているというオチではさすがに現代人として不甲斐ないです。なんで現代文明を謳歌してろくに日本史も知らないだろう公務員どもが自然に江戸時代の支配階級になっちゃうんですか(笑)ふざけていますよ。マンガですよ。 >『たしかに霞ヶ関で日夜激務を行っている官僚などは「公」というものを意識していると思いますが、』 「たしかに」意識しているだけの意識と、重んじているという意識とは違う意識ですよね。個人の天下り以外に我が身として考えている範囲は、役人の「公」は、せいぜい省益までです。国益を考えていませんでしょ。考えていると言う事は反日にでも言えます。口先は中身が伴う必要がありません。口や自己欺瞞とは裏腹に本音はどうでもいいのです。行動にならないとはそういう事です。田母神の時も尖閣の時もそうでしょ。せいぜい省益です。省庁は予算欲しさに、あるいは世間の注目を浴びて他の悪巧みが明るみにならないように、さっさと厄介者を排除して日常業務の私利私欲をコソコソ継続しているとも言えます。 >「その点で、主人が明確に見えていた江戸時代や天皇元首時代(明治時代)と現代は少し意識に差があると思います。」 そうだと思います。国民というのものが分からない役人なのです。はっきり言うと、国民を見下している国民が公務員試験の勉強をしているのです。貧乏だから自衛隊というのが多いと思いますが、そうは言っても自衛隊員には少なからず志の高い例外がいるでしょうが、それ以外の場合はもれなく、公の精神が強くて公務員を目指すのではありません。終身雇用を国が保証している特権階級ということから何から何まであるのですから、自分は一般国民でいるのはイヤだという発想が公務員になる動機のすべてです。その結果です。 義務教育制度や国立大学制度が野心家に悪用されているとも言えますね。そこらへんの根性が、すべて自前の自己責任である武家とはまるで違うのです。 回答者さんの観点は、幕藩体制と明治新政府との間には、忠誠心という武家の信条による連続性があるということですね。 そんな武家だけにギクシャクシャクした(笑い話みたいな)事例はご存知ありませんかね。そういうのからイメージしやすくなるのですが。 重厚な回答を頂きましてありがとうございました。たいへん勉強になりました。今後ともよろしくご指導下さい。
- fujic-1990
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中小・零細の武士にとっては、例えば、越後国溝口家(新発田藩)家中において働いて、家名を上げようとしてきた武士が、日本国において出世し家名をあげようとすることにしただけで、大きな心理的葛藤があったとは思えません。 零細武士(多数派)は、「一所懸命」の領地などもたず、俸禄で生活していましたから、それが給金になっても別段苦しまなかったのではなかろうかと思いますよ。 殿様、とくに外様と言われた大名たちは、それまでさんざん「日本の国は天皇のもの、人民は天皇のもの」と言って徳川家に逆らってきたわけですから、天皇が「返せ」と言ったら「いやだ」とは言えない理屈です。 因果応報、自業自得。 実は、徳川家臣も「日本は、土地も人民も天皇のもの」という感覚があって、フランスが幕府を軍事支援するから開国しろと言ったとき、徳川家家臣にも反対が多くて簡単にはOKできない。が、天皇の勅許を申請していて、もうすぐおりるので開国すると言いました。 びっくりした大使が「なんで?」と聞いた時、「日本は土地も人民も天皇のものだから、天皇がOKと言えば反対する者がいなくなる」と説明したのでフランス大使がビックリしたという話ですから。 だから、徳川家臣も天皇に「返せ」と言われると従うしかない。もともと負けた側ですから、領地は取られて当たり前ですから諦めもつく。 さらに、それぞれが相応の爵位や国債をもらったり、藩知事の職に就いたので、家名も残り、生活もほとんど変わらなかったのではないか、と思います。 で、江戸時代の武士と明治初期の公務員は感覚的な違いはない、と考えています。 すなわち、「俺は武士だ」「何某の子孫だ」「家名を千年先まで残す」という感覚、自尊心そのままに、それまでの主君から、天皇に仕え変えただけだろうと思います。 ところが、第二次世界大戦後、政府は「家」制度を破壊しました。 長子相続も、家の存続も、爆破。 それぞれが、自分と配偶者と子供のことしか考えない。よくても、そこに「親」がプラスされるだけ、となりました。 ずっと続いてきたしこれからも続かせなければならない「家」、という感覚がないから、家の歴史も関係ない、こんなことしては先祖に合わせる顔がなくなるなんて恥じる感覚はないし、自分の行動の結果、自分の子孫が恥をかくとかの感覚もない。 自分と家族しか目に入らない、そういう感覚の人が公務員になっているのだから、行動は必然的に、「旅の恥は掻き捨て」状態になります。 今の自分が良ければそれで良い、という話になります。先祖のことも、子孫のことも知ったこっちゃない、となる。 現在の政治、公務員制度は、「家」制度を破壊した結果の必然的現象であろうと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。大変勉強になりました。 今後とも宜しくお願いします。
補足
No.3の方まで、ご回答ありがとうございます。質問して良かったです。非常に勉強になります。歴史を学ぶ重要性を再認識しております。賢者が学ぶという歴史が重要であればあるほどリスクのある義務教育などに任せずに、個人が歴史を学びあうべきだと思います。皆さんのご解説内容に感動しております。よく味わってからゆっくりお礼等していきますのでよろしくお願いします。 fujic-1990さん、ありがとうございます。非常に分かりやすく、面白い語り口で、倫理的内容も加味されていらっしゃるので、感服しています。倫理面についてのご解説は印象的な言葉ばかりです。旅の恥は掻き捨てのサラリーマン感覚で公務員をしているのならば……実際、公務員は旅行者以下の倫理観ですね。日本の主権者はその意味で愚民です。誇るべき家のない愚民たちは、ふつうなら暴動・暗殺になってもいいような、これほど問題のある公務員どもをあくまでも肯定して、長い物に巻かれる事で自分を正当化する家畜民文化がありますね。その悪しき集団主義が世襲されています。 武家の生活の実質的な面はご解説のような感じだと思いますが、大儀名分などと言いますように、形式であれ、大義名分は武士にとって無視できない最重事項だったはずです。私は右翼思想を好まないのですが、やはりミカドの権威のお蔭でしょうか?結果論として、天皇家を存続させていたのが、見事に役立ちましたね。日本の史の肝でしょうね。 ミカドの権威がなくても、武士は主人や知行を交換したでしょうか。関ヶ原以来、親も爺さんも、その前も、代々、A家に仕えてきたB家が、明日からCさんの下で働けという事態ですからね。そんなに簡単な思いではなかったように想像するのですが、他に合理的理由がないとすれば、日本人のというのは個人的整合性を一瞬で総入れ替えできる特殊な文化を持った民族だからというオチなのでしょうか。敗戦からの経済的成功も評価できますが、明治維新は、別格ですね。右翼を好まない私ですが、世界史に奇蹟があるのならば、明治維新こそ、世界史の奇蹟ですね。そのくらい不思議だから質問した次第です。 公務員の倫理についての説はなるほど思う反面、GHQと家制度に責任転嫁して済まされない事だと思います。なぜなら少なくとも公務員試験を通る人は読み書きできる頭があるのですから各自、倫理について反省するのは可能なはずです。自虐史観で謝罪などしなくていいから、公務員の倫理について謝罪教育すべきですよ。自虐史観は責任転嫁して自己肯定に悪用されていると思います。GHQにやられた被害者という被害者史観も同様に思います。歴史のないアメリカ人だって公務員の倫理や正義はあるわけです。むしろアメリカの方が厳しいですよね(笑) 知行地(国土)が(百姓のものでもなく)「天皇の土地」という武士の認識は、右翼的思想を完全に抜いてみても、本当に公平にみて、武家にとって常識的なものだったのでしょうか。私が気が付かなかった観点です。百姓もそうでしょうか。 お気づきの事がある方はご教示ください。No.3までの皆さん、ご回答ありがとうございます。
お礼
皆さん、ご回答ありがとうございました。 すべての回答者さんの回答が大変勉強になりました。質問者として幸せな事です。 今後とも宜しくお願い申し上げます。
補足
非常に勉強させられました。重厚なご回答ありがとうございます。よく咀嚼したいと思います。 その巡査は薩摩の下級藩士の可能性もありますね(笑) >『すんなりと知行を放棄したわけではありません』 強烈なご指摘です。 天皇の神聖とかではなく、単純に天皇の存在が、内戦と内戦処理を多民族国家や異民族間の争いや宗教戦争のような妥協のない世界史とは別次元の日本史にしているような気がしてきました。 皆様のご回答を参考に勉強しております。 お気づきの事があればまたよろしくお願い申し上げます。