• 締切済み

平氏勝利後の武家社会

もし源平合戦で伊勢平氏が勝っていたら鎌倉幕府などは存在せず、室町も江戸もない。武家の棟梁は当然ながら征夷大将軍などではなく、土地に縛られた重農主義的な武士は現れなかったのではないでしょうか?清盛が目指した日宋貿易と通貨経済による重商主義政策が推し進められ、武士は経済感覚に富んだ存在となってたのではないでしょうか?

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.2

「歴史にIFはない」というのには、「そういうIFが起きることは状況からして起こりえないよ」という意味も含みます。 例えば「東日本大震災のとき、国が思い切って産業振興のために予算を投じたらどうなったでしょうか?」と聞いても、当時のあの状況でそういうことが可能だったかどうかというと、それは不可能でしたよね。 「源平合戦で平氏が勝っていたら」というIFも「起こりえないIF」だったと思います。 そもそも当時は東国武士の間に大きな不満があったわけです。そこに「頼朝」という担ぐのに絶好の人物が現れたから東国武士はひとつになれて鎌倉幕府成立までに進んでいけました。仮に頼朝という人がいなかったとしても、相応の人物が登場すれば同じようなことになったと思うので、平氏が滅亡して鎌倉幕府が成立したというのは歴史的に「いつかはそうなる必然の流れだった」といえるでしょうね。 また貨幣経済が日本全国にいきわたるのは戦国時代くらいになってからです。つまり平清盛の時代から数百年後です。当時の人々にとって「お金(貨幣)」というのは、今の一般的な人にとってのビットコインみたいなものです。「なんかよく分からん、うさんくさいもの」です。それまで現物でやりとりしてたのが代わりにお金を介することになるといっても、そのお金そのものが信用されていませんから「そんな訳の分からないものじゃなくて、現物に交換してくれ」となるのです。まだ地方の人たちにとっては貨幣という概念がしっくりこないんですよ。現代日本人の多くにビットコインがしっくりこないようにね。 貨幣が価値観の中心になるにはそれだけ商売となにより「契約」が重視される必要があります。ユダヤ人が古代社会において商人として信用されたのは、彼らが「契約は必ず守る民族」だったからです。 でも武士の世界ってのは気に食わないとぶっ殺すヤ○ザな世界でしょ。鎌倉時代の合戦なんて、実際は武装した武士は数十人しかいなかったりする(人数合わせのお供が大勢いるけれど、命をかけては戦わない)ので、合戦というより「ヤ○ザのカチコミ」といったほうが近いです。 そんな人たちに「契約はこうなってますから、契約を守ってください」なんていったって「うるせー!」と文字通りに一刀両断されますから、そんな武装した連中に対して「契約がどうのこうの」といっても通じないですよ。

  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (415/1290)
回答No.1

歴史にタラレバは無いを横に置いて。 平安末期~鎌倉初期に重商主義には無理があります。 ・持統天皇から街道が始まりましたがまだまだ未整備で盗賊・山賊  が横行していて治安も未整備で商品を安心して運べる状況には  なかった。 ・通貨の製造技術が未熟で全国で流通させる程の量が無かった。  室町時代の日野富子は明王朝で使用されなくなった銅銭を輸入  して流通させ財をなしました。 鎌倉時代は流通が活発になる基盤が整っていなかったのです。 征夷大将軍は公家から武家に権力を移譲させる為の源頼朝の知恵 なのです。 400年続いている公家政治の牙城を崩すのは容易な事では ありません、征夷大将軍は臨時職なので、たいした事は出来ない と朝廷は踏んで頼朝の求めに応じて任官させたと推測してます。 征夷大将軍は臨時職なれど権限は大きく、多賀城の鎮守府将軍、 近辺の受領や国司が指揮下に入るのです。 国防の為と称して配下の豪族達を受領や国司に任命したのです。 朝廷が気付いた頃には体制が整い、軍事力を得た頼朝の前には 傍観するだけだったのです。 中国王朝は易姓革命と称して前王朝の一族は皆殺しにしますが、 頼朝はそれをしなかったのです。 1000年前のローマ帝国でも同じような事をした人物がいます。 ガリア討伐で、軍隊の最高権力の独裁官(臨時職)を得た、 ガイウス・ユリウス・カエサル(英名:ジュリアス・シーザー) です。 ガリア討伐後、メコン川で軍隊を解散して単独でローマに帰京 する取り決めを破って、「賽は投げられた」の歴史上有名な 言葉を発して、ローマの都を征したのです。 武家は経済感覚が疎い訳ではありません、家臣や郎党を抱えるには お金が必要です、金鉱探しを手始めに、あの手この手で産業や商業 を盛んにしようとしてます、室町時代になって、産業や商業が 盛んに成り自立した領国経営をする戦国大名に発展したのです。 子孫造りと蹴鞠と和歌読みに明け暮れた公家は荘園を削り取られ 衰退していったのです。 平忠盛・清盛親子が朝廷に風穴を開け、武家政権の誕生の礎に なったのは大きい事と思います。

関連するQ&A