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某私立の中二です。日本史です。よろしくお願いします。

明後日日本史の試験なのですが、分からない問題があり困っていす。 分かる問題のみでよいので教えてください。 よろしくお願いいたします。 1. 後三年の役で、源義家の戦いは、朝廷に「義戦」ではなく。単なく「私闘」とみなされたのか。その理由はなぜなのか。 2. 保元・平治の乱は、日本の政治風土にどのような影響を与えたか。ただし(朝廷,内紛)という語句を使う事。 3. 平氏政権が人々の支持を失った理由はなぜか?ただし(銭,国司)という語句を使う事。 4. 源頼朝軍が、富士川の戦いに勝利した後に、すぐに上洛しなかった理由はなぜか。 5. 承久の乱以降、朝廷の国政上における位置は、歴史的にどのように変化したのか。 6. 鎌倉幕府の作った御成敗式目で、従来の律令と違い、女性に対して財産管理権、財産相続権を認めている理由は何か。 以上をそれぞれ40字以内ほどでお願します。よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

結構偏った出題のように思うなぁ。という意味で、回答ではなく、アドバイス。 1:義家の権威・権力がこれ以上大きくなるのを恐れたためという説とか、朝廷自体が、地方の動きに対して、公権力として介入するのを避けるようになったとか、義家の「奥羽利権」獲得が見え見えだったとか言われております。 2:朝廷の内紛が最終的な武力によって決せられるようになり、武士の発言力が増えた。なんていう回答を求められているんでしょうが、その見方は、このあとで、鎌倉幕府が成立した(もっと言うと、承久の変で鎌倉幕府が全国政権になった)という、あとから見ての視点である。当時の為政者の意識では、やっぱり武士は「さぶらう」人々だった。なんていう本がでてます。義経の登場―王権論の視座から という本。 3:軍事政権と考えると、単純に言えば、西日本が飢饉で兵力の調整ができず、戦闘に負けた。ということだと私は思っています。 まぁ実入りのいい国司職を平氏に取られた既存貴族は嫌ったでしょうね。 4:東日本が完全に頼朝の配下ではなかった事でしょうね。甲斐源氏は、頼朝並列と思っていたようですし、常陸の佐竹氏も同様でした。 5:鎌倉幕府の直接監視下に入ったって事かな。 6:御成敗式目の特徴は、「道理」に基づいた武士階層の慣習法を成文化したという側面があり、武士階層においては、女性の財産管理権・相続権が当たり前だったってことでしょうか。

yuta0802
質問者

お礼

ありがとうございました!! おかげさまで無事にテストを終わることができました

その他の回答 (1)

  • dereku
  • ベストアンサー率22% (66/294)
回答No.1

答を言ったのではアナタのためになりません。ヒントを言いましょう。 1、後三年の役の前に前九年の役がありました。若い義家は父・頼義に付いて出陣しましたが苦戦をしいられました。 4、富士川の戦いは平家本体ではありませんでした。それに戦いといっても刃を交わした訳でなく水鳥の羽音に驚いて逃げたのですから戦いの内に入りません。 全部でなくて申し訳ありませんが他は授業で使う資料に載っているはずです。

yuta0802
質問者

お礼

ありがとうございました。 参考にもう少し調べてみます。。

yuta0802
質問者

補足

ありがとうございます。 ただ、散々テキストを読んだのですが答えが無く困っています ちなみに50問のうちこの6問が分かりませんでした。 学校のみんなも分からず困っています。 ありがとうございました。 僕自身も探しますので他の方もよろしくお願い致します(汗

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