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坂本龍馬の描いた日本の政治体制は?
志半ばで倒れた坂本龍馬。彼が開国派であり、海外に目を向けていたのは明らかですが、あるべき日本の政治体制をどう考えていたと思いますか?例で4つあげてみました。ご意見を伺わせてくださいな。 (1)実際に起こった維新後の明治政府に近い形。 (2)雄藩連合。 (3)(2)だが、徳川をリーダー的な位置に据える。(もちろん幕府時よりは権力を削減させる) (4)鎖国政策を続ける徳川幕府はけしからんが、万が一開国へ向かうのならば幕府存続もあり。
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彼は飛び抜けて行動力と人間的魅力が溢れた人物ですけど、我々が想像するほど思想的には完成されていなかったと思います。良くいえば柔軟、悪くいえば無定見だと。だから、勝海舟を斬るつもりでやってきてあっさり説得されちゃうのでしょう。 実際、彼がやったことといえば亀山社中を作って武器商人をしたことです。しかも、他人のフンドシを存分に活用するしたたかさです。大政奉還や薩長同盟の成立などに尽力しつつさらに成果を収めていますが、双方とも龍馬自身の思想によるものではありませんでした。薩長同盟の成立なんて天下国家を考えての行動というよりこれで一発儲けてやろうという下心も見え隠れします。 それに、彼自身は決して学があるインテリではありません。典型的な「迷わず行けよ。行けばわかるさ」タイプです。だから魅力があるんですよね。頭が良くてもクドクドと理屈っぽい学者タイプより、直情径行の熱血漢タイプが人を惹きつけるものです。 彼自身は、今でいうなら政界にも太いパイプを持つベンチャー企業の若手社長というところだったのではないでしょうか。あのまま生きていたら坂本財閥の創業者みたいになっていたのではないかと思いますが、しかし天寿を全うすればずいぶんと生臭いことをしたはずで、ここまでの人気者にはならなかったのでしょう。 志半ばで倒れたことが彼の存在を伝説にしました。 だから、答えとしては「そこまで具体的なことは考えてなかったんじゃないか」です。少なくとも彼は「政治家」ではなかったと思います。「商人」で「外交官」だったと思うので、外国との条約や外交関係で活躍したかもしれないですね。
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- indians
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(2)か(3)で迷うところです。龍馬の構想では徳川慶喜は新政府の内大臣とされていましたから、佐幕派にも納得できる政体であったろうとは思います。徳川家を現オーストリアのハプスブルク家(昔は皇帝、今は国会議員)のような位置に置くつもりだったと考えたら良いかもしれません。 まとめると、徳川家には他の諸侯と同じ、一大名としての権限しか与えないが、旧将軍家としての名誉は最大限尊重する…というところかと思います。 ちなみに、(4)に関してですが、徳川幕府は大老井伊直弼によってすでに鎖国をやめ、開国をしていました。井伊とは政敵同士であった徳川慶喜も、井伊の死によって政界に復帰した後はやはり開国派に回っています。幕末においては鎖国・攘夷を良しとしたのは幕府ではなくむしろ龍馬の味方であった長州藩の志士たちの方です。
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回答ありがとうございました。龍馬自身は常に身元に不穏なものを感じて武器を携行していたようですが、思想的には暴力要素はほとんどなかったという理解でよろしいでしょうか? ちなみに幕末史を調べていると、思想がたくさん出てきて本当に混乱します。(入門書的な本を読んでも錯綜していてわかりにくいですね)同じ藩内でもバラバラですし、一個人も最初から一貫して変わらない主張をしている人はほとんどいないように思えます。それほど時代が混乱していたということでしょうか?
- ?橋 昌也(@fudousin)
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薩長連合ころまでの彼は、アメリカ型かもしかするとフランス革命時の共和制のようなものを考えていたような節があります。相当に過激ですね^^; しかし、明らかに大政奉還の策を考えてからは(3)であったようです。大政奉還の知らせを聞いた龍馬は「慶喜公よくぞ決断いたされた」と喜んだと言われています。 小御所会議での山内容堂の論陣が絵を書いた龍馬の考え方とほぼ同じと見て間違いないでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。龍馬を描いた本(私の読んだ範囲内ですが)で判断する限り、徳川に対しては必ずしも排斥しなければならない存在であるとは考えていなかったように思えますね。慶喜が開けた人であったのも一つの理由かも。
お礼
丁寧な回答ありがとうございました。私も同感です。龍馬の偉大さを否定するつもりはないですが、日本人に圧倒的な人気を誇る龍馬の人物像は少し誇大的というか、歪曲されているように思います。彼の行動は個人的な思惑が一番にあって、それが満たされない現状を打破したいがためかなと。人間的といえば本当に人間的ですね。彼には権力志向はなかったでしょうし、厳密に政治体制を検討はしていなかったと思いますから、雄藩連合とか、似たような合議制を漠然と考えていたのではと思います。