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キリスト史観は終えられてあたらしい世界へと。
- イエス・キリストはモーセやアブラハムより先にいた。
- ヨハネ福音はキリスト・イエスについて語り、マタイ福音はイエスの言葉だけを語っている。
- キリスト史観はメシアを待望する歴史であり、キリスト・イエスの正体は死後に初めて分かった。
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Bragelonneさん おはようございます。 朝活中です。限界ぎりぎりで修行に励んでいます。 下記に添付する、横山大観が面白い絵を描いているのを知ったので、bragelonneさんの考察のお礼をお願いします。 https://www.google.co.jp/search?q=%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%A4%A7%E8%A6%B3%E3%80%80%E8%BF%B7%E5%85%90&biw=1366&bih=651&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiSu-jp07rQAhULjLwKHUwZDroQsAQIKA#imgrc=bEiWSzC2a6egEM%3A 題名は「迷児」。明治とかけているのと思われます。 背景にいるのは左から、孔子、釈迦、キリスト、老子です。 真ん中にいる子供は日本です。 海外の文化を取り入れて融合することに長けた日本を良く表した絵と思います。 しかし、明治時代から、真ん中にいる、子供は、どのくらい大人に成長したと思いますか? すでに、背景の育ての親はすべて、日本は捨てていると思われます。 Bragelonne哲学が、まだ迷っている迷児(現代日本)の育ての親になるつもりですか? 横山大観は下記のような言葉を言っています。 「富士の名画というものは昔からあまりない。 それは形ばかりうつすからだ。 富士を描くと言うことは、 富士にうつる自分の心を描くことだ。 心とは、ひっきょう人格にほかならぬ。 それはまた気品であり、気魄である。 富士を描くということは、つまり己を描くことである。 己が貧しければ、そこに描かれた富士も貧しい。 富士を描くには理想をもって描かなければならぬ。 私の富士もけっして名画とは思わぬが、 しかし、描くかぎり、 全身全霊をうちこんで描いている。 富士の美しさは季節も時間もえらばぬ。 春夏秋冬、朝昼晩、富士はその時々で姿を変えるが、いついかなる時でも美しい。 いわば無窮の姿だからだ。 私の芸術もその無窮を追う。」 私は、まだまだ修行がたりませんが、bragelonneさんの富士山である、bragelonne 哲学の力量において、お礼をお願いいたします。
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- akiye2
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Q資料を基とする共観福音書とヨハネ福音書は別ものです。 これを同様と捉えると混乱になるだけです。 ヨハネの黙示録でも分かるように、ヨハネはイエスや神に対する考えが独特です。 聖書の一部を取り出せば、どんな宗教も作り出せます。 旧約聖書と新約聖書全体を見る事で神が分かる。 イエスキリストは神ではなく、人以外の何者でもない。 神の愛を説いたに過ぎない。 処刑後二百年過ぎて十字架神話ができた。 イエスが十字架上で死んだという歴史的事実はない。
お礼
ご回答をありがとうございます。 考えるところを述べてまいります。 ★ イエスが十字架上で死んだという歴史的事実はない。 ☆ 史実かどうかをあらそうつもりはありません。 ☆☆ 4. ・・・すべては表現の問題であるというようなかたちでここでは扱います。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たと見るひとつの主題です。 ★ 十字架神話 ☆ であっても そのような表現の歴史があれば取り上げる。という姿勢です。 ★ 共観福音書とヨハネ福音書は別ものです。 ☆ ヨハネのほうを除外するわけではないとすれば 史実を問うよりは表現の歴史として扱います。 それでも: ★ 混乱になる ☆ ということでしたら もう仕方がありません。この質問の趣旨をみとめる場合にのみ問いが有効です。 ★ ヨハネの黙示録 ☆ は さすがに別とします。必ず解釈が必要であり しかもさだまった解釈は成し得ていないのですから。 ★ ヨハネはイエスや神に対する考えが独特です。 / 旧約聖書と新約聖書全体を見る事で神が分かる。 ☆ ヨハネにあっても次の聖句では モーセのときの《青銅の蛇》の話が イエスに当てはめられています。 ▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~ そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 民数記(21:6-9)で モーセが旗竿の先にかかげた青銅の蛇の話を承け継いでいます。 必ずしも《独特》ではありません。 ★ イエスキリストは神ではなく、人以外の何者でもない。 ☆ ですから 自分が神の子でありみづからも神であると大嘘をついたと見ています。 ☆☆ 8. 生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。口では言っていたが 《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。この問題です。 かんたんですが このように見ますと: ★ 混乱になる ☆ ことはまぬかれるものと思っています。
- ferass
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祖先が子孫に 子孫が祖先になるのは 理解すれば当たり前のこと・・
お礼
ええっ? 血筋は つながっていますよ。 でも 現在が過去よりふるくなり 過去が現在よりあたらしくなる? のですか? ご回答をありがとうございます。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 朝活中です。 ☆ りっぱだと思います。特にわたしは 高校生の頃から朝派でしたから。いえ その後は出来ていませんが その思いは強く それを実行している人には 頭が下がります。 さて なんですか。大観ですか。 なんでこんな自己宣伝をしなければならないのか? 画家なら 描いたもので勝負ですよ。評論家みたいなことは 言いっこなし。特に自画自賛になるような場合は。 と思います。 いつもわるいですね。わたしにいぢわる心があることも大いに手伝っていますが それにしてもいつもあなたには苦言を呈しますね。 きょうは ひとつ助言をしてみます。 ★ 限界ぎりぎりで修行に励んでいます。 ☆ もちろん以前から 修行の話は聞いていますし そのことに何の反対もありません。これも りっぱなことです。 と同時に なぜわたしが苦言を呈することが多いのかと考えてみますと それは この《修行の身》だという現実と思いが 影響しているのかも分かりません。 どういうことか? 修行はするのです。修行は修行として目いっぱいやります。 しかも その反面で自己表現は――という意味は このように回答を寄せるときの文章はということですが―― 誇張して言えば 目いっぱい 気取って書くのがよい。のです。あんがい そうなのです。 ウソでも 胸を張って文章を書いてみる。 つまり くれぐれも重ねて述べますが 修行をしているという現実を変えることはいっさいしません。 地道な努力とそしてその基礎の上におこなう自己表現は 常識に反して けっきょく《偉そうに》書くのがあんがいよいのです。 こういった助言です。 そのツテで言えば わざと極論するなら 大観 何するものぞ! といった視点を持ち その姿勢をも文章に表わしてよい。こう考えます。 さらに同じくその延長線上には 孔子・老子が どうした? とか あるいは ゴータマ・ブッダだって? あのペテン師か? でいいんです。 イエスは 大嘘つきです。キリストは 想定じょう神ですから それとして扱いますが。 ほかの人間が 日本を捨てたかどうかは知りませんが キリスト・イエスが 捨てるわけがありません。 わが神 わが神 なにゆえわれを見捨てたましや。 は 必ず転調するわけですから。 キリストは そうではないでしょうが わたしは 韓国人を見捨てています。せいぜい おまえたちは気ちがひだと言ってやるのが 慈悲だというものです。 まぁ 全体として いまの――いまのままの――あめんほてぷさんが 人に好かれるということでしょう。 わたしのような法螺吹きは 嫌われます。 まぁ 一面としては 嫌われてなんぼという今の日本の現実の状態があるとも言えるのでしょう。 この両面を捉えて しかるべきあなたの道を さらに問い求めてあゆんで行って欲しい。 では。