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先天的総合判断は可能か?
- カントは「純粋理性批判」で先天的総合判断の可能性を問いました。
- 三角形の内角の和が2直角という例を上げ、先天的総合判断が可能だと主張しました。
- しかし、三角形の内角の和が2直角は経験を要せず数学の規則から導かれるため、必ずしも先天的総合判断とは言えません。
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koosakaさん こんばんは。 お久しぶりです。 回答というより、koosakaさんのカント解釈をお聞きしたいく思い、回答します。 私は、カントの3大批判は、かじっただけの素人であることはご了承ください。 私が学んだところでは、カントは、感覚と結びついている意識を「empirish (経験的)」として、少しも経験的でないものを「純粋」としたとのことです。 カントにとって、純粋思惟とは「統覚(Apperzeption)」に他ならず、私が私で「ある」ことです。 すなわち、「ある」ということと「同一性」ということを、カントは強調したものと思われます。 そして、経験とは、「現れる」、すなわち現象であり、「ある」ことではなく、「あり方(ありさま)」で、その都度違います。 ここで、話は飛びますが、カントは純粋理性批判の中で明記しているように、ニュートン力学を取り入れています。 ニュートン力学における時間とは、無限大に流れゆく時間であり、この考え方をカントは、アプリオリにあるとされる「感性」に取り入れました。 しかし、「もし、自然における一切の時間が停止したらどうなるか?」ということを、 ニュートン力学と、現代の物理学の観点から、述べると、 ニュートン力学では、自然の残骸、すなわち廃棄された蒸気機関車のように死んで冷たくなった世界が残るのみ。でも、なにかしら「ある」。 現代の物理学では、全く何も残らない。 とのこと。 では、カントの「ある(純粋思惟)」とは?アプリオリに「ある」? 現在、私はカント哲学自体が形而上学哲学のように思え、カントの哲学の出発点が疑問です。koosakaさんの力で形而下へ引き下げてくださると幸いです。
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- amenhotep2000
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koosakaさん こんばんは。 締め切りまじかと思いますが、博識なkoosakaさんの御見解をいただきたく回答します。 現在、哲学カテゴリのトップでは、現代哲学では、意識は存在しないという議論が白熱していますが、あえてカントの時代に戻ってみたいと思います。 先のNo.7において私は、現代物理学の立場を含めて回答しましたが、光の速度まで考えると現代物理学が必要ですが、人間が経験する範囲内におけては、一切の運動はニュートン力学で説明がつくとのことで、カント哲学を再考することも無駄ではないと思っております。 先の回答で、私は純粋思惟を「ある」として、koosakaさんは、それは「形式」としましたが、今回は私はこれを「意識」という言葉にしたいと思ってます。カントは純粋理性批判の中でも、意識という言葉を使ってます。 そして「意識を意識する」という反省を考えてみようと思います。 これは、言葉を変えると、「思う我が思われる我に現れる」、「私が私に現れる」と言えるのではないかと思います。 「ある」と「現れる」は違います。 「ある」は同一性(統覚)を伴いますが、「現れる」は同一性という繰り返しでなく、その都度違うものです。 ところでカントは先人のヴォルフらが唱えた、構想力 (Einbildungskraft)という考えを取り入れています。 構想力は「形を描く力」とも訳せるそうで、「ある」ではなく「現れる」に関わり、感性に属します。 そこで、「三角形の内角の和が2直角」という命題は、アプリオリの直観形式における、構想力により、先天的総合判断できるのではないかと考えた次第です。 ちなみにカントは純粋理性批判第1版と2版とで構想力の定義を変えたそうです。 話は飛びますが、フッサールはカントの悟性を含めて直観としたそうですが、意識における知覚、想起、想像の作用である「実的内在」と実的内在から構成された意識内での対象を「構成的内在」として、「実的内在」をノエシス、「構成的内在」をノエマとしたそうですが、「実的内在」を「ある」、「構成的内在」を「現れる」と解釈するのはおかしいでしょうか? まだ、読み込みが浅く、あいまいで、koosakaさんから見れば支離滅裂かもしれませんが、現代から過去にタイムスリップして、意識という概念はあるという立場において、koosakaさんの御意見をいただければ幸いです。
補足
スミマセン、あなたをstmimさんと間違って、最初の方の質問、「人間の精神・意識を物質で説明できないか?」という質問の回答として、返信してしまいました。 自分で質問し置きながら、すっかり忘れていました。 で、詳しいことはそちらをお読みください。 あなたが「あえてカントの時代に戻ってみたい」と仰いましたが、私は反対にカントの時代に戻りたくないので、現在、アメリカのネオ・プラグマティズムの本を読んでいるということを、そこで申し上げております。 したがって、あなたの質問にここでお答えすることは差し控えさせていただきます。 あしからず。 この通信をお読みになったら、ぜひ、stmimさんの質問に対する私の補足回答をお読みになってみてください。
- sunabo
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no5の解答は、質問者様の言う総合判断と、カントの言う総合判断の2つあると考えています。質問者様の言う総合判断はかぎ括弧のついた総合の意味が不明です。 前提を下記3つとする。 1-1質問者様の言う総合判断は知性と経験を「総合」することである。 1-2数学は基本的に言って、トートロジーである。 1-3トートロジーだということは、新しい知見を付け加えない。 数学の例。 9999991は素数か? 9999991は2で割り切れない。 : 全部調べるのは無理だ。 参考URL参照。素数一覧(~1000万) これを信じよう。一覧に9999991が載っている。 9999991は素数である。 9999991は素数であることは経験的に知られる。 9999991は素数である。という判断は、前提1-1を経験という点で当てはめて、 質問者様の言う総合判断である。 いったん分かってしまえば、9999991は素数である。という知識は経験によらないので、先天的です。知ることは経験によったが、知った知識は経験によらない。判断を、知ること、知った知識の2通りに使い、質問者様の言う総合判断の「総合」を辞書に載ってる意味と見て、新しく付け加えるという条件が無く、経験という点で当てはめ、no.5の回答は数学の例で先天的総合判断は可能としています。 前提1-1をカントの言う総合判断に置き換える。 前提を下記3つとする。 2-1カントの言う総合判断は主語の概念にあらかじめ述語が含まれていなくて、新たに付加するものである。 1-2数学は基本的に言って、トートロジーである。 1-3トートロジーだということは、新しい知見を付け加えない。 数学の例。 9999991は素数である。 9999991は素数であることは経験的に知られる。 9999991は素数である。という判断は、前提2-1と1-2と1-3により、カントの言う総合判断ではない。 三角形の内角の和は2直角である。と、ある数は素数である。の例の違いは、 三角形の内角の和の場合は、 どんな三角形の内角の和でも、余弦定理で計算するとか、3つの頂点それぞれに互いに平行な直線を引いて錯角で2直角を示すことができます。どんな三角形でも同じ手間で分かります。 ある数の場合は 大きな数ほど、たくさんのためし割をしなければ、素数だと分かりません。大きな数が素数だと分かることは、頭の中で何とかすることがほとんど現実的でなくて、計算機の計算結果を経験するのがものすごく現実的です。 数学以外の先天的総合判断の例を挙げられると良いのですが、いい例は思いつきませんでした。ボツ例を下記に2つ。参考までに。 遠くのものは小さく見える。 光路長の計算と幾何で、経験しなくても分かる。でも、計算と幾何は、数学だから、トートロジーで、新しい知見を付け加えないので、総合判断じゃなくなっちゃう。 あの人は高嶺の花だ。 経験によるような、よらないような、主語にあらかじめ述語が含まれるような、含まれないようなよく分からん感じです。隠喩です。
- sunabo
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no.4の回答では、経験判断を、経験のみの判断だと考えています。 no.4の補足にて質問者様は知性と経験の「総合」が総合判断でそれを経験判断と呼びます。 わたしは、経験判断が何か分からなくなりました。 わたしは、総合判断が何か分からなくなりました。 確かなのは、no.4の回答で総合判断≠経験判断としたのは誤りです。 失礼いたしました。 クリプキの名指しと必然性に知識を借ります。 https://www.amazon.co.jp/%E5%90%8D%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%A8%E5%BF%85%E7%84%B6%E6%80%A7%E2%80%95%E6%A7%98%E7%9B%B8%E3%81%AE%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6%E3%81%A8%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C-%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB-%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%97%E3%82%AD/dp/4782800223 名指しと必然性から引用している、参考URLから孫引用します。 --------孫引用します------------ 「「アプリオリに知られうる」は「アプリオリに知られねばならない」を意味しはしないのである。」40 たとえば、ある数が素数であることは、アプリオリに知りうることである。しかし、そのことを計算機をつかって知るとき、「我々が、もしこの数が素数だと信じるならば、物理学法則やその機械の構造などの知識にもとづいて、それを信じるのである」つまり、経験的な証拠に基づいて知るのである(Cf.40)。 --------孫引用終わります------------ 数学の例を挙げます。 ある数が素数であることは、先天的です。 ある数が素数であることは、経験的な証拠に基づいて知ります。(孫引用より) もし仮に、ある数が素数であることが、先天的経験判断であり、 もし仮に、総合判断が経験判断であり、かつ、逆が言えるならば、経験判断は総合判断です。 とすると、ある数が素数であることは、先天的総合判断です。 先天的総合判断は可能です。
補足
先天的総合判断は、数学では可能だが、それ以外では不可能ということですか? カントの言う通りですネ? カントは数学しか先天的総合判断の例を挙げていませんでしたから。 で、改めてお尋ねしますが、数学が先天的総合判断だとして、いったい何と何を「総合」するのでしょうか? 「ある数が素数であることは、先天的です」と言いますが、先天的、ア・プリオリとは、経験を要しない、という意味です。 認識論上の区別、先天的・後天的。 そしてある数が素数であることは、数学の規則・定義から言えることであって、認識によって知られるわけではない。 たとえば数学の「数」は、リンゴを1個、2個と数えることに起源があるわけではない。 だから、経験的な証拠に基づいて知られるものではない。 よって、ある数が素数であることは、先天的総合判断ではない。 先天的総合判断は、不可能です。
- sunabo
- ベストアンサー率35% (24/67)
先天的総合判断について。 たしかに、数学はトートロジーで新しい知見を付け加えない。感じがします。 でも、no.3の回答で特定の三角形の内角の和が2直角だと計算したとき、付け加えた感じがしました。もっと、数学はすごいぞ付け加えるぞとアッピールしたいですが、数学力が足りません。 結局、反論が無いです。 以下は憶測です。 基本的に対する例外についてはたとえばno.1の回答の1行目である下記の事柄だと思われます。 三角形の内角の和が2直角ということが間違っている事を知っている。(絶対時空はわかりません。) たしかに、ある数学の規則では、三角形の内角の和は2直角より大きいらしいです。 大きいとすると、三角形の内角の和が2直角は判断ではないってことなので、 三角形の内角の和が2直角という判断が、先天的総合判断ではないことになります。 結局、三角形の内角の和が2直角という判断が 先天的総合判断であるか、、でないか、どちらともいえないのどれとも分からない感じです。 ものすごく高まった数学力の人は、どちらともいえないときっぱり言うかもしれません。 質問の趣旨、先天的総合判断についてから外れます。 総合判断=経験判断という主張に反論します。 経験判断について。 庭に桜の木がある。辞書に書いてない。庭を見る。経験を必要とする判断です。経験判断です。 にわ【庭】の意味 - goo国語辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/168667/meaning/m0u/ 1 屋敷内で、ある広さをもって空けてある地面。草木を植えたり、泉水や築山を設けたりする。「―の手入れ」「―を造る」「―をいじる」 経験判断と概念 桜の木が付加されるのは、見て、経験した庭です。庭の概念(=辞書の庭)には付加されません。ならば、庭の概念には何も付加されないのかというと、ちがいます。庭の概念は変わってきています。たぶん、たくさんの人が、たくさんの経験した庭に、桜の木を見ると、庭の概念にも桜の木が付加されるだろう。 仮に、ある時点で庭の概念に桜の木が付加されたとします。 にわ【庭】の意味 - ウソの国語辞書 1 屋敷内で、ある広さをもって空けてある地面。桜の木がある。草木を植えたり、泉水や築山を設けたりする。「―の手入れ」「―を造る」「―をいじる。 庭に桜の木がある。辞書に書いてある。経験を必要としない判断です。経験判断ではない。 庭に桜の木があるという判断が、ある仮定した条件で、ある時点以降は経験判断ではなくなります。 概念に付加される ある時点で庭の概念に桜の木が付加されたとしました。でも、古今未来東西南北上下すべての庭を経験することはできません。経験して無い庭があります。だから、庭の概念に桜の木が付加されることは経験判断ではありません。主語の概念にあらかじめ述語が含まれていなくて、新たに付加するものが総合判断です。庭の概念に桜の木が付加されることは総合判断です。 総合判断≠経験判断です。 でも、庭の概念に桜の木が付加される事は、経験による部分もありますので、先天的総合判断ではありません。結局、下記を主張します。 判断┳経験判断━の経験の桜の木 ┗総合判断┳庭の概念の桜の木 ┗先天的総合判断?━三角形の内角は2直角? 経験判断:主語の概念にあらかじめ述語が含まれていなくて、経験のみにより、新たに付加するもの 総合判断:主語の概念にあらかじめ述語が含まれていなくて、新たに付加するもの 先天的総合判断:よくわからなくなった。
補足
忙しい中、長文で再び、ご回答をいただき恐れ入ります。 長々と書いてきて、最後に「先天的総合判断:よく分からなくなった」という結論を読んで、ずっこけました(笑)。 カントは、数学しか、先天的総合判断の例を挙げていないんです。 分析判断という時の、「分析」とは、主語にあらかじめ含まれているものを分析して、外に展開するという意味。 それに対して総合判断という時の、「総合」とは、知性と経験を「総合」するということ。 一方、分析判断は先天的です。 先天的とは、経験を必要としない、主語が与えられていれば、それが分かるというもの。 だから先天的分析判断という言い方はしません。 それだと、二重の言い方になりますから。 先天的とは経験を要しない、分析判断も経験を要しない、という意味ですから。 問題は先天的総合判断です。 先天的とは、繰返しますが、経験を必要としないという意味、それに反し、総合判断は、知性と経験を総合することですから経験を必要とします。 よって、先天的総合判断という言い方は、矛盾した言い方です。 カントは前述のように先天的総合判断の例として、数学しか上げていません。 だけど、数学は経験を必要としません。 だからカントが先天的総合判断の例として数学を上げたことは、おかしいです。 数学が総合判断だとしたら、いったい何と何を「総合」するのか? だから、私はこのOKウェイブで「先天的総合判断は果たして可能か?」という質問をしました。 それに対して、あなたは総合判断は経験判断ではない、と言います。 では、お尋ねしますが、もし、総合判断が経験判断ではないというのでしたら、「総合」とはいったい何と何を「総合」するのですか? 「総合」するためには、一つではダメで、二つ以上必要です。 だから私は「総合」とは、知性と経験の「総合」ではないかと、解釈しました。 したがって総合判断とは、経験判断ではないか、と。 あなたは、それを違うと言います。 では、改めてお聞きしますが、「総合」とは、何と何を「総合」するのでしょうか? あなたのご見解をお聞かせください。 なお、「庭に桜の木がある」というのは、私が総合判断の例として挙げたもので、もちろん、そんなことはカントは言っていません。 数学の例しか挙げていませんから。 だから「庭に桜の木がある」でなくても何だっていいです。 たとえば「道にパイロンが置いてある」「ピアノの上に猫がいる」「車の中にサルがいた」・・・・・ その場合、主語の「道」や「ピアノ」や「車」の概念に、先天的に「パイロン」「猫」「サル」が含まれていますか? 見なければ分からないでしょ? そう言うためには、経験が必要です。 だから総合判断は、経験判断です。 違いますか?
- sunabo
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問いは2つ。 1.「三角形の内角の和が2直角」という判断は、先天的総合判断なのか? 2.先天的総合判断は形容矛盾か? せんてんてき【先天的】の意味 - goo国語辞書 http://dictionary.goo.ne.jp/jn/127017/meaning/m0u/ 1 生まれつきであるさま。「―な体質」⇔後天的。 2 ⇒アプリオリ カント以後の近代認識論では、経験に依存せず、それに先立っていることをさす。 三角形は、生まれつき、内角の和が2直角です。 三角形は、経験に依存せず、経験に先立って、内角の和が2直角です。 三角形は、先天的に内角の和が2直角です。 三角形は3つの直線に囲まれた図形です。 たとえば、線分BC=3、線分CA=4,線分AB=6で囲まれた図形の内角を計算します。 余弦定理より∠A=26.3843352385°、∠B=36.3360650741° ∠C=117.2796371353°、です。 内角の和は26.3843352385°+36.3360650741°+117.2796371353°=180.0000374479°です。 2直角です。計算したら、2直角だと分かりました。 上記の例ではある一つの三角形に対し、計算により、内角の和が2直角だと付加しています。同様にいちばんはじめの人が、すべての三角形に対し、幾何学的に操作して、内角の和が2直角だということを新たに付加しました。三角形の内角の和が2直角だということは総合判断です。 新たに付加した後で、付加したことが先天的だとわかります。 結局、三角形の内角の和が2直角という判断は、先天的総合判断です。 新たに付加することがすべて、先天的なことかというとそうではないです。 新たに付加した後で、先天的ではないとわかることもある。例えば、質問者様の言う桜の木です。 先天的には先とあるけれど、新たに付加した後に先天的と分かります。 答えも2つ。 1.「三角形の内角の和が2直角」という判断は、先天的総合判断です。 2.先天的総合判断は形容矛盾ではないです。
補足
ありがとうございます。 あなたの回答はカントの言っていることと同じです。 「三角形の内角の和は2直角」なのは、先天的総合判断である。 なぜなら、三角形の概念にはそれが2直角なのは、含まれていないから。 しかし、私が申し上げているのは、「三角形の内角の和は2直角」なのは、経験を必要としない、直観で確かめる必要がない、ただ、数学の規則から演繹的に導き出せる、ということです。 というのも、総合判断とは、経験判断だからです。 それを目で見て、確かめて、その新しい知見を判断に付加して、拡張するものだからです。 ところが「三角形の内角の和が2直角」というのは、経験を必要としない判断です。 ただ数学の規則から、演繹すれば、導き出せる。 そして数学は基本的に言って、トートロジーです。 トートロジーだということは、新しい知見を付け加えない、ということ。 拡張判断でもないし、経験判断でもありません。 カントの先天的総合判断という言い方は形容矛盾です。 先天的と総合判断は、つまり経験判断は矛盾した言い方だからです。 先天的とは、経験を要しない、ということ。 ところが総合判断は経験を要します。 「庭に桜の木がある」という判断は、「庭」の概念に「桜の木」が先天的に含まれているわけではありません。 庭を見て、それを経験し、判断せざるを得ません。 経験せずして、何も見ずに、「庭に桜の木がある」ということは言えません。 私の考えでは、カントは「先天的総合判断はいかにして可能か?」と言いましたが、結局、それは見果てぬ夢に終わった、と思っております。 ちょうどデカルトが普遍数学の夢を抱き、それが夢で終わり、また、ライプニッツが、普遍学の夢を追い、それがしょせん夢で終わった如くに。
- kurinal
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koosaka様、こんばんは。 「内角の和が2直角」なのが三角形、ということは、 ハートマークは三角形ではない、ということですか。
補足
「内角の和が2直角」というのは、直角三角形の話です。 ハート・マークは直角三角形ではないので、論外です。 そんなことよりもカントの先天的総合判断について、あなたのご見解をお聞かせください。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「三角形の内角の和が2直角」<我々は既に それが間違っている事を知っています(子供 の算数ならOK)。 その例の最たるものが、絶対時空です。 時間の流れや空間の隔たりは、観察者個々の 状態によって変化すると、相対性理論により 明らかにされました。 さらに量子論(特にコペンハーゲン解釈の 人間原理)において、その相対的時空に存在 するものも相対化=不確定的本質を持つ事 (認識される事で存在的有限性は生じる=認識 の“外なる実体”は無い)が指摘されています。 物理学の世界では、相対性理論以前の考えを 「古典的」と呼んでポンコツ扱いしています。 「それ以前」のニュートン力学の域を出ない カントも、もはや歴史研究の対象でしかありません。
補足
あなたはいつも哲学の問題を物理学で説明していますが、これは哲学の問題ですので、哲学の回答をお願いします。 そもそもカントの「純粋理性批判」を読んでおられますか? 私の質問は分析判断と総合判断の問題で、「三角形の内角の和が2直角」というのは、それを論じるための一例であり、参考までに過ぎません。 カント自身も、その一例として挙げているにすぎません。
補足
ありがとうございます。 あなたの回答に対して若干コメントさせていただきます。 まずカントは感覚と結びついている意識、つまり感覚器官を介して外的刺激を受容し、それを私の知性で、総合することを経験的認識と言っていて、一方、外的刺激を必要とせず、自己触発と私の表象だけあれば認識できるというのを超越論的認識と言って、二つに分けていることです。 そしてカントの言う「コペルニクス的転回」とは、経験的認識から超越論的認識に「転回」することを意味しました。 それに対し、あなたは「少しも経験的でないものを純粋としたとのことです」 ・・・・・と、仰っていますが、それは超越論的認識というものではないですか? 純粋統覚という意味の「純粋」、あるいは「純粋理性批判」の「純粋」ですか? その場合の「純粋」とは、「形式」という意味で、実質がない、という意味だと思います。 「純粋思惟」という場合も、そうですネ? 内容のない、「形式」としての思惟が、「純粋思惟」。 確かに私が私である、という同一性も、同語反復、トートロジーだから、中身が何もない「形式」です。 実質的に何も言っていない。 「すなわち、あるということと同一性をカントは強調したものと思われます」 ・・・・・と言いますが、そんなことを強調したからと言って、何にもならないでしょう。 だって、そんなことは当たり前なんだから。 たとえば、富士山は富士山である、と言ったからと言って、そんなことは当たり前で、何も言ったことにはならない。 カントが、そんな当たり前のことを強調したとして、どうなるんですか? 「経験とは現れる、すなわち現象であり、あることではなく、ありさまで、そのつど違います」 ・・・・・カントは経験的認識にとって、物とその現われという区別はないが、超越知論的認識にとってすべては現象で、物そのものは知ることができない、と言いました。 だから超越論的認識にとって、認識は私の表象である、と。 外的世界とその刺激を必要としない、と。 確かにカントの時間・空間論はニュートンによって作られた絶対時間・絶対空間の概念を引き継いでいます。 時間には二通りあり、一つはニュートンの作った数学的な直線的な、因果関係としての時間と、聖アウグスティヌスの様相しての時間、つまり「過去・現在・未来」の時間があるとしたら、ニュートンの数学的な因果関係としての時間概念を下敷きに時間というものを考えています。 ただし、ニュートンが時間は人間とは独立に客観的にあると言ったのに対し、カントの場合、時間はあくまで観念としてであって、私の「内」にあるもの、内官の「形式」としての時間でしたが。 ニュートンにとって時間は人間とは独立に客観的に存在するものですから、「無限大に流れて行くものです」。 しかし、カントは時間が始まりがあるか、ないかを論じると二律背反に陥ると言っていますから、「無限大に流れて行く」かには懐疑的であり、それを認識に当たって、一応「形式」としては存在するものと認めました。 そしてニュートンの時間は人間とは独立に存在するものでしたので、「自然の時間が一切停止したらどうなるか?」ということはカントは想定していなかったと思います。 そして私は現代物理学を良く知りませんので、あとのことは分かりません。 「カントの、ある(純粋思惟)とは? ア・プリオリにある?」 ・・・・・何を仰っているのか、私にはちょっと分かりませんが、「純粋」とはすでに申し上げましたが、実質のない「形式」という意味なら、ア・プリオリにあると思います。 そしてカントは「純粋理性批判」を、来るべき形而上学の準備、あるいは基礎づけて考えていましたので、カント哲学が形而上学的に思えるというのも、当然です。 そのカントの出発点が疑問ですか? でも、そのカントの準備、基礎づけがあったればこそ、それを受けてフィヒテ・シェリング・ヘーゲルとドイツ観念論が続いたのです。