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純粋理性批判(Q8)
純粋理性批判(Q8) 「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」という問題設定をカントがした意味というか意図について教えてください。 「すべての出来事には原因がある」はアプリオリな総合判断だが、この文は、主語から述語が導き出される根拠があるわけではない(総合判断)にも拘わらず、アプリオリな(普遍的)判断に結果としてなっている。 その要因としてカテゴリー分類に基づく悟性というものの存在が想定されざるを得ない。 このような意図と考えてみたのですが、どうも理解力に乏しくてよくわかりません。
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回答ではなく、疑問ですが。 その「意図と考えてみた」ということの中に、「悟性というものの存在が想定されざるを得ない」という表現があります。が、「悟性」はカントにとって、「想定されざるを得ない」存在でしょうか。前提なのではないですか。カテゴリーは悟性の働きの分類ということではないのですか。 ですから、「意図」と、結果として先天的綜合判断になっているという見解は問題がずれてはいないかと思うのです。 先天的綜合判断の意図は、結局「純粋理性批判」そのものの意図になるのではないでしょうか。ですから、このカテに多く居られるカントを研究された方々は、このご質問にさてどうしたものか、と思われたのではないか、と忖度します。 で、専門家のズバッとした解答が出る前に、素人の意見ですが、 前批判期にカントが大陸合理論であったということを思うべきではないか。形而上学的問題では基本は「分析判断」ではないですか。論理的必然性と普遍性がイコールだったのですね。ところが批判期のカントは、判断とは基底的に綜合判断である、と考えるようになっていたのですね。その上で、ヒュームと違って普遍性を疑わないカントは、ニュートン物理を支える自然観の諸命題を純粋命題であると考えているのですね。その間にはいろいろな問題があったのでしょうが、それは専門家にお任せして(例のアンチノミー云々なんかですが)。 先天的綜合判断が可能であるのは、カントにとっては前提であって、しなければならないのは、「いかにして」というところですね。それがヒュームに対する回答でもあり、近代哲学の出発点にもなる、キーとなる点ではないでしょうか。 「すべての出来事には原因がある」という我々の思考が、対象に妥当するのは何故か?それを解くためにカントは悪戦苦闘した!解けたとは言えないが、近代哲学の出発点になる地平は開いた、と見做されているのですね。 昔の勉強を思い出しながら書こうとしましたが、一寸及第点は無理ですね。お粗末様でした。
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- heartmind
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私にも本当に複雑で理解困難なのですが、 ざっくりと、 もともとはやっぱり純粋理性の限界を示してそっから先に 期待したいしたかったんじゃないかと。なので、そうなるとどうしても 基本部分はアプリオリに定義しておかないとつじつま合わないからって 感じじゃないかと。 なので、質問者様の考え方は良い線いっていると思いますけど。
お礼
ご回答ありがとうございます。 安心させてくださりありがとうございました。
- miko-desi
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「いかにしてアプリオリな総合判断は可能か」 当たり前にして信じ切れていたものは普遍的なものか? 例えば晩御飯のおかずを考えたり買いに行くのは、 お腹がすいてきて食べる人がいると予見しているから。 誰が絶対お腹がすくとも、 ここで食事するとも先のことに絶対はないのに。 その導きはどこから来るのか? そう信じることが出来るのは何故か? 悟性は「疑いつつも採用する」で つまり信じてはいないけれども、最善の選択にしただけで 裏切られたところで別段驚きません。ってことです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 買物がアプリオリな行動だとするとスーパーの戦略が現代人に深く浸透しているのかもしれませんね。^^; 味のあるご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >先天的綜合判断が可能であるのは、カントにとっては前提であって、しなければならないのは、「いかにして」というところですね。 :なぜそれを前提として論を展開しようとしたのか、という初歩的なことがわからなかったので質問したのですが、お陰さまで少しわかるようになりました。 教えていただいたことを頭に置きながら、カテゴリーの項に読み進んでいきたいと思います。