- ベストアンサー
大政奉還後の江戸城について
大政奉還の後、江戸城は無血開城されて、東京大空襲で消失するまでのあいだ江戸城は現存していたようですが、現在現存している城のように内部を一般公開していたのでしょうか? また、現在の江戸城跡には松の廊下跡や大奥跡を示す石碑が建てられているようですが、これらは“だいたいこの辺りにあったと推測される場所”に建てられているのでしょうか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
江戸城の本丸御殿は幕末期焼失することが多かったようで、1844(弘化元年)、1859(安政6年)、1863(文久3年)に罹災し、この最後の火災から再建されることはなかったようです。後5年で幕府は無くなってしまいましたしね。 その時にも残った西丸御殿の方は今の皇居が江戸城の西にありますので、そのまま利用し、後に建て替えた、と考えるのが自然ではないでしょうか。こちらは調べても判りませんでしたが。 また、戦前には天皇は神に近い存在として神聖化されていましたので(政治的な理由から)、それを一般公開するということは考え難いと思います。御苑etc.の解放もすべて戦後、それも大分経ってからのことです。 参考URLにもありますように、江戸城に関しては実に多量の図面が残されています。その最大のものは甲良家という棟梁家に残されていたもので今は東京都中央図書館が所蔵しており重要文化財に指定されています。毎年11月初旬に一部公開されています。それ以外にもあるようですし、建物の位置はかなり明確に判っている、と考えて間違いはないと思います。 他の城跡のように県庁や大学などが建ってしまったりして大きく改変を受ける、ということもなくきていますし。
その他の回答 (4)
- hyohyohyo
- ベストアンサー率31% (9/29)
こんにちは。 多くのことはこれまでの方々が答えられているので、別のことを少し付け加えたいと思います。 江戸城は、明治維新後天皇が入城し、再び日本の政治の中心地となりました。しかしながら、徳川幕府晩年は、財力も権力も衰退し、江戸城の多くの部分は雑草が生えたままになっていたり、建物も漆喰が剥がれ落ちたままになっていました。(この様子は現在でも写真として少し残されています。)また、明治政府が全国統一し、城に軍事的要素を必要としなくなっていました。そこで、明治政府は江戸(東京)城と町を天皇の居城としてふさわしい様に一新するため、明治6年から(何年までかは忘れました。)江戸城の外堀の埋め立て、多くの御門や館の取り壊しを行い、新たな街づくりを行いました。もちろん、これには徳川幕府の建物を破壊することにより、江戸の市民に政権交代を印象付ける役割もあったものと思われます。 以上のようなことから、江戸時代に建てられた江戸城の遺構はほとんど残っていません。逆に、天守閣がわりに用いられていた富士見櫓が残されたことの方が奇跡であると私は思っています。 ではでは
お礼
ご回答ありがとうございます。 幕府が消滅して、それからしばらく経った頃の江戸城の古写真を見たことがあります。仰るように屋根には雑草が生えて、壁はところどころ崩落していました。まるで「荒城の月」の世界でした。 人為的に遺構を破壊したようですが、実に勿体ない話だと思います。過去の遺物となった建物を維持する費用もなかったのでしょうね。
- Eivis
- ベストアンサー率29% (1122/3749)
>東京大空襲で消失するまでのあいだ江戸城は現存していたようですが、 戦前はいつ頃からか[千代田城]という言い方をしましたが、焼夷弾が落ちたのは明治以後の建物が多かったと思います。 1945年(昭和20年)4月の空襲で消失したのは、旧大手門渡櫓(わたりやぐら)で、大手町から見える現存する 「富士見櫓」の部分は、江戸城遺構中、唯一残っている三重櫓で石垣は近くで見ると15mほどあり意外と大きなものです。 http://www.ac.wakwak.com/~tachikawa/shasin/pic-htm/koukyo.htm ・・・参考写真。 http://homepage1.nifty.com/akizora/tbkoukyo.htm ・・・大手門。 >現在現存している城のように内部を一般公開していたのでしょうか? 皇居の内部には近衛兵が御守りしていましたが、戦後のように後悔はしていません。 戦前一般庶民で皇居内には入れたのは庭園・建築などの工事関係者、特殊技術者などで、最後の最大の工事は地下防空壕でした。 >現在の江戸城跡には松の廊下跡や大奥跡を示す石碑が建てられているようですが・・・ 『“だいたいこの辺りにあったと推測される場所”』ではなくて、礎石そのものがそのまま残されていました。 ・・・他の部分については、あまりよく存じ上げません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 富士見櫓の内部は一般公開されていませんでしたね。江戸時代に築かれた唯一の遺構(若干の手直しは施されているのでしょうが)とのことですので残念に思います。 現在、○○跡と呼ばれる原っぱになったような場所しか見学できないようですね。地方にある小藩の城の多くは明治維新のあと取り壊されたようですが、江戸城の場合、これまでにいただいた回答によると、戦災で消失した建物は少ないようですので、どうして現在、それらの遺構が残っていないのか、興味は尽きません。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
大政奉還の後は、皇居になりました。 途中 東京城とか言われたそうです。 東京大空襲で・・・との疑問ですが。 米軍も 天皇を抹殺するような 危険な事(=日本軍が切れて何する変わらない)はしなかったので、戦前どおりです。(増築はありましたが) 江戸時代初期には、当時日本最大の天守閣がありました。 振り袖火事で消失した後、再建はしませんでした。もう、日本一の天守閣!と、他の大名に武張ることもなかろうて。。。という事らしいです。 ちなみに、江戸時代からの天守閣が残っているのは、松本・犬山・彦根・姫路くらいで、ほとんどが明治初期の段階か、空襲で消失しています。
お礼
ご回答ありがとうございました。 明暦の火災で天守閣が焼失した話は存じているのですが、その他の建物は第二次世界大戦後も残っていたということでしょうか?では何故、現在それらの建物がないのでしょうか?
- izumokun
- ベストアンサー率30% (1129/3679)
>現在現存している城のように内部を一般公開していたのでしょうか? 皇居なので、一般公開なんかしません。 >これらは“だいたいこの辺りにあったと推測される場所”に建てられているのでしょうか? 絵図もあったことだし、推測ではないはずです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 徳川慶喜と入れ替わりに天皇が江戸城に入城(入居)しましたが、現在東御苑が一般開放されているように、その当時も一部の建物を一般開放していたのかな?と思ったのですが、そのようなことは無かったとのことですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 戦前、江戸城は、庶民が気軽に訪れることが出来る場所ではなかったようですね。また、当時の最高機密文書である江戸城の図面が今も現存しているとのこと。抜け穴の配置図なども残っていたのでしょうかね。とても興味深いです。