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大政奉還したのに何故、戊辰戦争をやったんですか?

徳川慶喜公が政権を朝廷に返上して、その時点でもう終わりにならなかったのはどうしてですか? 朝廷にひれ伏した徳川慶喜公を見捨て、仮に勝利したとして自らで新しい政権を樹立する為に薩摩や長州らとやり合う気だったんですかね?

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  • oska2
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回答No.1

>徳川慶喜公が政権を朝廷に返上して、その時点でもう終わりにならなかったのはどうしてですか? 討幕派の意思とは無関係に、内戦を避ける目的で慶喜は大政奉還を行いましたよね。 討幕派としては、国際法上は目的を失った訳です。 討幕派のアドバイザーあった大英帝国も「大政奉還をした事で、討幕は意味を失った」と述べています。 ところが、長州・薩摩藩としては「徳川政権を倒すのでなく、徳川体制を倒す」事が目的だったのですね。 実際、慶喜から政権を取り戻した朝廷は「各藩に、新たな政治を行うので京に集合」を命じました。 ところが、薩長を含む全藩が不参加だったのです。 慶喜としても、鎌倉時代以降政治を行った事が無い朝廷は「直ぐに幕府に政治を委任する」とよんでいました。 要は、幕府が大政奉還を行っても「朝廷には、政治を行う体制・能力が不足」していたのですね。 >仮に勝利したとして自らで新しい政権を樹立する為に薩摩や長州らとやり合う気だったんですかね? 戊辰戦争は、あくまで「幕府再興」ではありません。 偽の勅書・偽の錦の御旗を用いて、卑怯な手段で幕府を倒した薩長憎し!が原因です。 もし戊辰戦争で佐幕派が勝利していれば、北海道で短期間存在した共和国が日本全土で誕生していたでしようね。 当時は、討幕派・朝廷よりも「旧幕府側が国際情勢・知識に長けていた」のです。 「鎖国体制」という言葉は、明治新政府が名付けたに過ぎません。 1700年代でも、長崎出島のオランダ商館経由で(オランダ人だけでなく)フランス人・イギリス人・ドイツ人などの外国要人が江戸に来ています。 ペリーの来航も、幕府は数年前から(オランダ国王親書で)知っていました。 別に、「うろたえた」訳ではありません。 ※明治政府としては、幕府は封建体制で国際情勢無知だった!と世論操作・教育を行いました。 アメリカとの条約も、多くの内容は幕府と協議して「多くが(アメリカ側)原案から削除」となっていますよ。 アメリア軍艦から威嚇を受けても「日本と戦うのなら、全力で反撃する」と幕府は述べています。 食料・燃料が既に軍艦に残っていない事を、幕府は理解していました。 結局、ペリーは威嚇を止めて「補給基地設置」だけでOKしたのです。

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  • notnot
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回答No.2

なんか主体がおかしいです。 戊辰戦争を仕掛けたのは、薩摩・長州です。 大政奉還をしても徳川が最大の大名なのに変わりない。自分たちが新政府の主導権を取るために戦争を仕掛けました。