- 締切済み
偉い武士はどんな本を読んでいた?
守護をつとめるぐらいの偉い武士はどんな本を読んでいたのでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- jkpawapuro
- ベストアンサー率26% (816/3045)
江戸時代ならともかく鎌倉・室町じだいですよねえ? うーんたぶん家によってそれぞれですよ。 教養としてお経 君主論として孔子孟子 兵法学として六韜・孫子 武術書として剣術書・槍術書・馬術書
「守護」といわれますと鎌倉、室町時代ということになります。 信長や秀吉の時代には「守護職」というものは消滅してしまっています。 地頭は慣用語としては江戸時代にも使われていました。 「偉い武士」として考えてみます。 印刷技術が発達していませんでしたので書籍は全て借りて書き写すということをやっていました。 一番身近なのは寺院が持っているお経でした。 戦乱つまり人殺しが主となる職業でしたので、お経はよく読まれていたかと思います。 熊谷直実、上杉謙信、北条早雲など出家して僧侶となって再び武将として復帰した人も沢山いました。 謙信も早雲も僧侶時代の法名でした。 西行のように出家して武士には戻らなかった人もいました。 命令書や隣国との誓約書などを書く必要がありましたので、文字を憶えるということはやっていたでしょう。 誓約する際には起請文と言って約束を守らなければ神罰を受けても止むを得ないという主旨の文書が書かれて、沢山残っています。 辞書などはない時代でしたので字を憶えるには千字文と呼ばれる漢詩がありました。 使われている文字が全て違っていた長い漢詩でした。 お公家さんなども古くから使っていました。 これは江戸時代まで使われていましたので、おそらくこれを使っていたかと思います。 事件(戦乱)があると後日これの経緯や主人公の伝記のようなものが必ずといって良いほど書かれました。 平家物語や源平盛衰記のようなものです。 自分や一族のご先祖の業績を知るためにこの手のもは読んでいたでしょう。 軍事軍略に必要な兵法書などと呼ばれるものは全巻ではないものの読まれていたでしょう。 武士が教養のために書籍を読むようになったのは平和な江戸時代以降のことです。 よほど学問好きでもない限りは教養としては読まなかったでしょう。 教養として書籍を読むのは専ら僧侶や公家の仕事でした。
- nekosuke16
- ベストアンサー率24% (903/3668)
守護となると随分時代は遡りますねぇ。 公家や僧侶に学門の意識はあっても、漸く、源氏として武士というものの輪郭が備わりつつある時代。 せいぜい、朱子学か仏教かなぁ。 まだ武士にまでは、それほど学門は普及していなかったのでは?
- 4017B
- ベストアンサー率73% (1336/1814)
武士と言われましても漠然とし過ぎていて回答に苦慮しますが…まあ決め撃ちで江戸時代の武士(御家人)の一般的な教養についてお答えします。 >四書五経 江戸時代は~と言うか明治維新が起きるまでは、日本で学問と言えばお隣りの超先進国である中国のモノを、とにかく全て丸暗記して完全コピペする事こそが最も優秀で素晴らしい事とされていました。つまり漢文(漢籍=中国語)をネイティブの様にすらすら読み解き、また自分で漢詩(漢文のみの文章)を自作出来る人のみが公的には天才、或いは秀才と持て囃され、また実際に幕府や藩の要職に召し抱えられました。 これら漢文の教科書となったのが、古くは周代まで遡って古代中国で編纂された「四書五経」と呼ばれる、主に儒教思想に付いて記された書物群で。これらもやはり元々は本家中国で、官吏の登用試験に用いられた教科書であったモノを、日本が真似したものです。 ・四書 : 大学、中庸、論語、孟子 ・五経 : 易経、書経、詩経、礼記、春秋 ~日本では以上の様に区分定義されますが、中国でも時代によってどれを四書五経に含めるかは結構頻繁に変遷を繰り返してます。いわゆる "お城務め" のお武家様であれば、江戸幕府の重責を担う旗本の子弟のみならず。地方の御家人たちも幼少の頃からこれら「四書五経」を徹底的に丸暗記されられました。 現代人の感覚だと「書斎にズラりと何千冊もの本が並び…」的な光景は如何にも読書家で頭良さそうなイメージですが、江戸時代までは「本は1回読んだら中身を暗記するもの」と言うのが知識人の常識だったので、部屋に今読みかけの進行中以外の本が有る事自体が大変な恥と考えられていました。また本の内容に関して質問された場合も、いちいち本のページをめくったりしようモノなら完全に馬鹿扱い。前述通り、よどみ無く頭の中からスラスラと答えを言えなければ知識人失格でした。故に一言一句、漏れ無く丸暗記するこそこそが最重要でした。 ~とまあこんな感じだったのが公的な教養。しかもこれらは全て "男子に限る" です。少なくとも日本では昭和になるまでは女子が勉強する事は一種の罪と考える風潮が強かったので、武家では自分の娘が本に興味を示すと叱責する事も珍しくありませんでした。また町人階級(一般庶民)ではそもそも漢字を読める人の数がぐっと少なくなり、現代日本で例えるなら英語とフランス語に堪能なレベルに相当するので、かなりの富裕層でなければ「ひらがな以外の字は読めない」のが普通でした。 >読本 江戸時代でも上方や江戸などの大都市在住の町人であれば、下り物としての「読本(どくほん)」に触れる機会が有ったので。娯楽としての読み物文化が江戸中後期にかけて大いに発達しました。これらの読本と呼ばれるモノは今で言うところの大衆雑誌みたいなモノで、前述の漢籍書物が全て漢字オンリの全く色気の無い堅物書物であるのに対し、この読本は浮世絵調の挿絵がふんだんに使われ中身の文章も漢字+ひらがなで一般庶民にも読み易いスタイルで書かれました。現代にも伝わる有名な読本では『南総里見八犬伝』などがあります。江戸時代の超ベストセラー読本ですね。 因みにこれらの読本はあくまでも「教養の無い町人風情が読み漁る下品なモノ」と言う価値観ですので、いわゆる武士階級は読みませんし読めません(今の感覚で言うと国会議員がエロ本を読む様なもの)。ただし屋敷に出入りする奉公人などから密かに御内儀が入手し、夜な夜な旦那様に隠れて読み耽る事は有ったようです(笑)。後、武士は本を読む姿勢も大事で、ちゃんと書間に書見台を鎮座させキチンと正座して読むのが礼儀であり武士の心得とされていました。今みたいに部屋にゴロンと寝そべって雑誌を読む様なスタイルは厳禁!しかし町人はそんな御法度は無いので、それこそ春本(エロ本)を寝転がって読む当時の風景が浮世絵にも描かれています。 以上を踏まえて改めてお応えすると…「偉い武士は漢文で書かれた難しい本ばかりを読んでいた」~となります。宜しいでしょうか?