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武士道のことで。

映画のラストサムライを見ていて疑問に思ったんですけど、 渡辺謙さんが、 「敵の一人ひとりにも、茶の湯の一杯にも、吐息の一つ一つにも命が宿る」 って台詞で言っていたと思うんですが、 これって、本当に武士道の精神なんでしょうか? 僕が武士道の本を読んだときにはそんなことがかかれていなかったように記憶しているので。 そして、どういう意味だと思いますか? カテ違いだったらすみません。

みんなの回答

  • ri-zyu
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回答No.3

「敵の一人ひとりにも、茶の湯の一杯にも、吐息の一つ一つにも命が宿る」←無分別の状態であるがままに見た状態だと思います。例えば日本人は桜が綺麗だと思いますが(分別しますが)その前ですね、綺麗とか汚いとか思う前(分別する前)にあるがままに観た状況です。禅をしないと解らないと思います。 本当に武士道の精神なんでしょうか?←そうなのかも知れませんね死ぬも好し生きるも好しじゃないでしょか。

  • gooegg
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回答No.2

>これって、本当に武士道の精神なんでしょうか? 武士道というより直接は禅の思想でしょうね。 もともと武士達が禅(だけではないが)の影響を受けているということからも分かります。 日本では鎌倉時代に臨済宗・曹洞宗の2つの禅宗が成立しました。 そして前者は幕府の保護を受け上級武士や公家に、後者は権力から離れ地方武士や農民に伝わっていきました。 それに台詞の中に「茶」と「吐息」という言葉があることからも察しがつきます。 日本に茶が広まったのは臨済宗の開祖、栄西が中国の飲茶の風習を紹介したからと言われています。 わび茶の精神を大成させた千利休も積極的に禅の修行をしていました。茶道とは、茶会を通じて禅の心に触れるものだと思っています あと、座禅していると雑念がなくなってきて、自分が生きている(活動している)ことを確認できるのは 吸って吐くという一つ一つの刹那においてぐらいだなと感じることもあります。 他には映画のシーンで渡辺謙さんが座禅している場面もありましたし、 トム・クルーズが手合わせをしている時「雑念が多い、心を無にしろ」と諭されているシーンもあります。 武士道で人気の宮本武蔵、柳生宗矩など山岡鉄舟は皆禅の影響を大いに受けています。 本を読んだとき禅に関連づけて何か書かれてませんでしたか? 武士道は禅の思想・精神なしには語れないはずです。

回答No.1

ラストサムライはアメリカ人向けの映画で、つまりキリスト教徒向けの映画ですから、ヒットするには、キリスト教徒が武士道を理解しやすくしなくてはいけません。その時に武士道はこういった異教徒の世界で生まれた思想だよって説明するためのせりふでしょう。 神との契約を守る仲間達であるキリスト教徒にとって、異教徒は、改心させることと殺してあげることは同価値でもありますが、東洋人は契約なんかを根本に考えません。 世の中のものは全て原子でできているという、昔は天界と地上界を分けて理解していたキリスト教徒にとっては近代的な考えを、東洋人は昔からしていて、その上に武士道という思想が生まれたって説明でしょう。この考えは、武士道そのものではなく、武士道の土壌となった東洋思想です。 小さいものを科学する物理学でも、物はそこに在るけどそこに無いというものらしいですが、東洋人のインテリは色即是空空即是色と千年以上も前からわかっています。手塚治虫なんかも全てものに命が宿っていてその命のすばらしさを表現したいからマンガ描いてたらしいです。 人間だって素粒子からできていて、素粒子は全て同じ法則に基づいて運動するという、物理学では当たり前のことを言っているわけでもあります。 想定観客であるキリスト教徒に、武士道を生んだ東洋思想を説明するせりふでしょう。 「敵=異教徒も、茶の湯=自分たち東洋人も、吐息=非生物もみんな原子でできている。素粒子は(何種類か種類はあってもそれぞれに)同じ法則に従って運動する」って意味です。