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武士道とは?
『武士道』についてレポートを提出しなくてはいけないのですが 何を書いて良いか分かりません。 『武士道』についての定義あたりから教えて頂けませんか?
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- pneuma
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「武士道」なんてものはありません。 正確に言うと、個人の思想としての「武士道」はありましたが、ラジオ体操みたいに一定した内容を持ち、日本全国の武士の間で共有されたような「武士道」なる精神は、江戸時代には存在しません。現代では様々な人が武士道を語っていますが、どれも文献学的な根拠も無く、自分の主観に基づいて勝手に喋っているに過ぎません。現代に謳われる武士道は、明治維新から世界大戦期にかけて武家階級の回顧主義と政府の国民統率・戦意昂揚のために作り出されたイデオロギーとしての武士道に由来し、現代でも日本人がアイデンティティ確保のために頻繁に用いています。歴史を勉強しないで、聞こえの良い理念だけで歴史を語ること(特に右翼)の好例です。 そもそも武士たる条件は第一に「家系」ですし、総人口の数%しか占めていなかった武家階級の道徳・倫理を全国民に適用するなど可笑しいことです。 実際には、江戸時代では様々な武士道が議論されていました。例えば、有名な山本常朝『葉隠』の「死ぬこと云々」に対して、山鹿素行は批判的です(「士道論」)。後に聖書的扱いを受ける新渡戸稲造の『武士道』を読むにしても、やはり同時代人の山岡鉄舟にも注目する必要があります(明治はギリギリ範囲内)。 又、武士のあり方は階級、地域によって相当異なり、薩摩なんかはTVでは放送不可能な世界です(マスコミは常に作為的)。つまり武士道の定義次第では、武士の数だけ武士道があるということになります。 これらの共通項をくくれば、或は武士道が見えてくるかもしれませんが、今のところそういう仕事はなされていないようです。 *儒教、仏教の影響も議論されますが、いまは省略。 *ここでは士道と武道を区別せず、武士道と単純化しています。 参考までに 菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書) 佐伯真一『戦場の精神史 武士道という幻影』(NHK出版)
- tumaritou1
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武士道とは、武士の心の奥に在る哲学の事です。武士の心に在る哲学とは、鎌倉時代に日本に入ってきた「禅」が関係しています。禅を極めるという事が実は武士道の根幹をなしています。 禅とは何か?という事になりますが、本当は自分で体験しないと分かりません。ですが理論だけでも知っていた方が良いと思いまして説明してみます。 禅とは自我意識が、自分の働きに気が付く事と言えます。すなわち人間の心は二つのもので出来ているという事を体得する事が禅であり、道に至るという事であり「悟り」というものです。 他の言い方をするならば、真剣勝負を二人の剣豪がしているとします。その時に「心がとどこうる」方が負けになります。心が自由に働かない方が負けという事です。ゴルフの優勝が掛った一打では、普段通りの一打が出るか?という事です。意識したり、緊張したりを「命のやり取り」の最中にするのか、しないでいるのか。という心の鍛錬方法という事になります。 現代でもこの心の現象は随所で見る事が出来ます。心が働かないという状態が「病」という事になります。字を書く事に意識が働いて字が書けなくなってしまう事があります、是を書痙と言います。自分の心が異常であるという事に意識がいった場合には本当に異常になってしまいます。 人に会う時に異常を感じてその異常という心を意識をした場合には、本当の異常になってしまいます。それが対人恐怖や、上がり症や、不安障害の原因を作ってしまいます。これ等に共通している事が「意識」をしている事です。つまり「心の停滞」という事になります。 この心の停滞を救ってくれるものが「禅」と言えます。ゴルフをやっている人の中にもその事に気がついて「禅」を学んでいる人もいるそうです。 この心の停滞と禅の関係を、ただの理論だけですが、説明してみます。心の停滞とは「意識」をするところに在ります。この意識をするという事の最大の問題、或いは人間の心の矛盾の最大のものとは、「生と死」と言う事になります。自我意識は「生」というものを有限の中に見ています。ところが死が何時、人間に襲い掛かってくるかは、誰にもわかりません、この事が人間の心、或いは自我意識を大いに悩ませる場合があります。 昔は医学も余り発展してはいなかったと思います、戦国時代の幕開けです、何時死が訪れるかが分かりません。死と隣り合わせの時代です。武士の仕事はその死と隣り合わせの仕事と言えます。そこで武士の仕事を大過なく遂行させるための哲学が必要となってゆき、それには「禅」がもってこいという事になった背景があります。 禅の要諦は、命の働きが主になって、自我意識が従になるという事になります。病の実態は自我意識が主になって、命の働きが従になるか或いは無視された形です。意識をして上がってしまう時には「自我意識が」主になって、命の働きが無視されています。 精神疾患の実態とは自我意識が主になって、命の働きが従という形か、或いは無視されています。神経症などが良い例と言えます。様々な症状がありますが、自我意識が自我意識だけで単独に働こうとして命の働きを無視していて、立ち往生している姿と言えます。 また人間の苦しみや悩み等にもこの事が言えます。人間の苦しみや悩みも、つまるところは「意識」するところに在るからです。その意識する事が「心の停滞」という事になります。この解消方法が「禅」の中に在るといえます。 理論的に言うならば、人間の脳の働きを知らないところに在ります。その訳は、自我意識の機能が分からない事と言えます。自我意識に備わっている機能は分別する機能と言えます。それは割り切れる問題を割り切ってゆくという機能になります。従って病の大元は割り切れない問題を、割り切ることしかできない脳「自我意識」に振り向けて答えの出ない問題に「悶々」と身もだえをしている姿、という事になります。 この事の解消が「禅」の中に在るといえます。他の言い方をするならば、有限の世界で思考の限界を感じて不自由な思いをしている自我意識に、自由な心をもたらせてくれるもの、もっと言うならば、生死の問題でさえ問題としない心の自由を、禅はもたらせて呉れる。という事になります。 自我意識の限界とは「割りきれない問題」すなわち心の矛盾、計算できない人生の問題という事になります。明日の事は自我意識には分かりません。この分からない事で満ちている人生を、自由に、心豊かに生き抜いてゆく力を感じて生きてゆこう!という事になります。 生死の問題の解決方法が「禅問答」を解く中に在るという事になります。禅問答が解けた時は「生死の問題が解決をした」という事になります。心の停滞が病の元を作っています。それの解決をするためのテキストが「禅問答」という事になります。 自我意識の限界を知るという事になります。人間は自我意識(分別)が主になった生き方が障害を作っている、という事です。もう一つの意識が主になって自我意識が従になった姿が「無病息災」という事になります。自我意識では禅問答は解けないように出来ています。人間には分かりにくいですが、確にもう一つ意識があります。是がお釈迦様の言っていたもの「仏性」というものです。無意識になった時に働いているものです。或いは没我という状態で働いています。
武士道は平和主義ということ。 争うことが嫌い(私もそうですが)という臆病さでは出来ませんが、暴力や罵倒することは対して頭が良くなくても出来るし、智恵や勇気を持って命を削る決意した人。 過去の日本人の英雄「杉原千畝さん」「牧野伸顕さん」「新渡部稲造さん」「勝海舟さん」「西郷隆盛さん」らや、大東亜戦争(第二次世界大戦)で活躍した軍人さんの戦い方は武士道に習えているとおもいます。武士道といっても「死に方、殺し方」というより「生き方、活かし方」の定義が戦い方に現われていると思いますので。 どの方も平和ノーベル賞は受けていませんが値すると思います。ガンジーが平和ノーベル賞の栄光を何度受けるよう説得されても辞退していることから武士道にいい意味で嫉妬を隠せなかったように見受けます。 出世を棒にふっても、後継者や敵対者などに濃い役を譲っても、徒労に終わり見返りがなく負けても!負けるが勝ちで先人の犠牲に甘んじ、好戦的に興奮もせず平和ボケしておれる日本人です。
No.11です。参考になるかどうかわかりませんが、草思社から「敵兵を救助せよ!」(恵龍之介著)という本が出てますので、読んでみてはいかがでしょうか。
武士道は死ぬことなりというのは、自分の命を絶つということではなく、己の私利私欲を捨て、藩と領民の為に働くということだろうと思っております。武士は食わねど高楊枝という言葉もありますが、たとえどんなに貧しくとも、人の為に生きている、あるいは絶対に不正は行わないのだというプライドだけは捨てなかったということだろうとも思っています。「清貧」という言葉もあります。その字のとおり清く貧しくです。人の喜びを持って己の喜びとする、そんな考え方もあります。今の官僚とはまったくかけ離れた、すごい高い次元での生き方だと思います。たとえば幕末、幾多の偉人が出てきましたが、みな私利私欲を捨て、日本を欧米の魔の手からなんとか守りたいという一身で、たとえ敵見方であっても、活動していたはずです。あれが、今の官僚みたいに、アメリカ、あるいは中国と手を結んで、自分だけはいい思いをしようというやからが一人でもいたら、日本は、欧米の植民地になっていたかも知れません。世界に例を見ない高い武士道精神があったこそ、植民地にもならず、明治維新が行われたのだろうと思っています。
- HANANOKEIJ
- ベストアンサー率32% (578/1805)
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/library/2008/radio/r2_rinri/index2.html いきなり「武士道」についてレポートを提出・・・といわれても、前後の文脈がないので、「武士道」についての情報を少し提供します。 NHK高校講座の倫理に、高校社会で学習する思想、哲学、宗教の要点がでてくると思います。 新渡戸稲造「武士道」、この本の解説本など、まず、ご自分で探すことをおすすめします。 葉隠を小説にした、隆慶一郎「死ぬことと見つけたり」を読んでみて下さい。「一夢庵風流記」(「花の慶次・・・雲のかなたに」の原作) 戦国時代から幕末、明治初期の武士、剣術家の考え方をさぐるには、時代小説が一番です。ご両親か、おじいさんで剣戟のすきな人がいたら、話をきいてください。 どういう文脈で「武士道」がでてきたのか、それがわかると回答がもっと寄せられると思います。NHK大河ドラマも武士がたくさんでてきます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.5 どの民族にも士道はあります。 危険というのは、この地上のものは全てそうです。 自己側にとっては毒であり薬である。 毒であり薬であるところの、それ自体も二面性をもっています。 人間も一種の動物であり、一定の価値と理念で判断し、志向する存在であるという面もとうぜんにあります。 道としての士道も理念価値としての面と然かざる面とあることは当然です。 回答番号:No.1に投稿してあるように、実際の統治の、覇権争奪の相では又別です。一所に命を懸けるのもぶしであります。敵に熾烈な行為をするのも武士です。それも一面の武士道です。 精錬した道としての武士道。 この両面はどの民族の士道にもあり、混同すするとことをとりとめない混乱に陥れるものです。 そこを弁えることが、ものを見る場合の第一の要件です。
こんにちは。 ヨーロッパの「騎士道」と比較してもよろしいのではないでしょうか。 また下記のご回答を拝見するように、大変「危険な」一面は否めないかとは思われます。 ですが、日本固有の思想であればこそ。 「清濁併せ持つ」くらいの「潔さ」をもってして、下記の諸々のご回答をご参考になさってレポート提出なさってみてはいかがでしょうか。 質問者様ならではの、現代における「武士道」の「片鱗」「変質」が意外なところで見い出せますように。
- augustinus
- ベストアンサー率26% (60/226)
一番分かりやすいのが ↓でしょう http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E9%81%93
- aai1
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武士道ですか。危険ですね。 冷静に考えると武士の時代の刀で戦う世界は、やくざの殺し合いの世界。 なわばり争い。 そういう時代にその中で生きなければならなかった人たちが、人生の生き方、哲学を人間として持ちたいという、尊厳から考え方を感じますが、 そういうレポート出題させる人は少しおかしいと判断します。 葉隠れを読んで、武士道に感化されて、路上で腹切りした事件があったと思います。いい影響はないですね。 自滅の美学でしょうか。所詮負け犬の美学、敗北者の美学と感じます。
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