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武士の教育について

昔の日本の武士の教育は今と違って、 ものすごく厳しかったようですが、 どれくらい厳しいのか知りたいんですが、 何か、お勧め本があったら教えてください。 新渡戸稲造の武士道は内容が難しく、 よく分かりませんでした。

みんなの回答

回答No.4

>ものすごく厳しかったようですが、 厳しかったというよりも躾の問題です。 支配階級である責任を果たす為に行動や倫理観等を定めた武士階級特有の社会的なルールのようなものがありました。 一般にノブレス・オブリージュ(高貴な責務)と呼ばれるものが求められ「社会の模範となるように振る舞え」ということが主眼でした。 特に上下関係での礼節や分際を知り身の程をわきまえろということが喧しく言われました。 殺傷能力の高い日本刀を常時持ち歩いていましたので、争いごとを起こさないように言動が厳しく規制されていました。 江戸時代も中期以降は親子代々人前で刀を抜いたことがないという人達が大半でした。 常に歩く手本になれということですので言葉だけを現代人から見れば相当厳しいという印象をうけます。 五歳を過ぎると喧しく躾られ習慣化していましたので本人にとっては左程厳しいという感覚は持っていなかったかと思われます。 >お勧め本があったら教えてください。 武家の躾(しつけ) 子どもの礼儀作法 (光文社新書) 新書 小笠原 敬承斎 (著) が手ごろでしょう >新渡戸稲造の武士道は内容が難しくよく分かりませんでした。 新渡戸稲造が書いた武士道という書籍は彼がアメリカに滞在していたときに「Bushido: The Soul of Japan」として出版されたものでした。 イギリスなどに伝わる騎士道に対抗する意味で日本にもこのような文化があるということを書いた自己主張のような書籍でした。 武士道などという言葉自体江戸時代にはありませんでした。 新渡戸稲造が書いたBushido: The Soul of Japanが日本語に翻訳された後で明治時代にひろまった言葉です。 この「武士道」に引用されている「葉隠れ」という書籍は江戸時代には内容が不穏当であるということから佐賀の奇書とされて禁書扱いを受けていました。 言うなれば明治時代に作られた武士階級に対する理想像のようなものですので実際とは相当に違っていました。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます、紹介していただいた本を読んでみます。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.3

武士と言っても、平安時代から江戸末期までいたわけですから(厳密には明治初期まで)、その間のどの時期でどのような身分だったかによって違ってくるでしょう。 豊臣秀吉により兵農分離がされるまでは普段は農業をしていて戦の時だけ武士として駆り出される者や、そもそも秀吉本人のように農民から家を飛び出して(諸説あります)武士を志したものまでいて、そういう者は武士としての教育など受けていなかったはずです。普段は農業をしているわけですからそんな時間があろうはずもなく、ひらがなで口語体の文章を書くことすらできない武士も珍しくありませんでした。 武士の子弟がまともに教育を受けるようになったのは江戸時代に入ってからです。この頃になると手柄を立てて土地を得てその収入を増やしていくことが不可能になったので、一般教養が重視されました。才能があるものは領主に認められて留学(むろん国内です)させてもらったりすることもありましたが、大半は親の仕事を引き継ぐための最低限のことを教えられたり、「藩校」という学校に通ったりしました。当時の制度では世襲で先祖代々同じことばかりをしており、家を継げない次男以下は嫡子が死んだり廃嫡にならない限りは部屋住みになるか出て行って他の道を目指すかしなければならず、中には坂本龍馬のように商人になった者もいます。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 厳しさ、と言っても、毎日12時間論語を読み続けるとか、毎日100km走るとか、そういう厳しさではないと思いますよ。  武士とはかく在らねばならぬ、という教育、・・・ 簡単に言うと「洗脳」です。  ほかのことを考える余地は無くす、のです。  例えば、左利きは徹底的に右利きへと矯正されました。武家とはそういうものであって、「なぜ?」はナイのです。  矯正を拒めば、廃嫡(病気扱い)。次男以下なら、放逐。武家名簿からの除籍が待っていました(実際には病気としてこっそり飼い殺しにする親心)。  (今風に理屈を説明すると、武士が他家を訪ねたとき、刀は腰からサヤごと抜いて自分の右に置くのが作法だったからです。左利きの武士がいるとすると、その武士は右に置いた鞘を右手で押さえ、左手で刀を抜いて、その家の主に向かって斬りかかることができるからです。右利きだと刀を左に持ち替えてからでないと抜けないから、斬りかかられる側も対応できる)  もちろん、文字も右手で書いてました。左手で筆を持っている所を見られたりすれば疑われます。疑われれば、蹴落とされます。それが当たり前。  余談ですが、いまでも習字の塾に行くと、左利きでも右手で書かされるようですね。AKBの不動のセンターだった前田敦子がそのように言って、ホントは左利き(ペンは左手で持つ)なのですが、習字だけは右手で筆を持って書いてました。  閑話休題  小説でさえ、左利きの武士は「丹下左膳」だけです。彼は右手がナイんですから、しかたがない。ただ、丹下左膳は浪人ですから、法律的には武士扱いされない庶民の一人で、町奉行の支配でした。  御家人はともかく旗本以上(大名・将軍まで)の姫様は、年がら年中屋敷内で暮らさなければなりませんでした。  初夜の床までは顔も見ずに、親の言うままに嫁して、嫁しても同じです。家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、老いては息子に従うという三従の掟。武家の女とはそういうものであって、「なぜ?」はナイのです。  親も回りも、「我には我の、人には人の生き方がある」なんてことは絶対に言いませんでした。本人も、「ほかに自由が、生き方が、あるんじゃないか」なんて、爪の先ほども思わないほどの洗脳です。  武士の教育の厳しさとは、そういう精神的なことです。  その範囲内で、いろいろ自由にやっていましたよ。ちょっとご新造さまに黙って一杯飲み屋で酒を飲んだり・・・ 。  武士教育の厳しさを書いた本をとのことですが、残念ながらその手の本は読んだことがありません。  その逆の、尾張藩の下級武士が書いた日記とか、江戸藩邸の用人の日記とか、名前が出て来ないのですが、行動自体はいろいろ自由にやっている様子や、「誰某と何某の女房が駆け落ちしていま世間の話題になっている」みたいなことも書いてます。新書になっていたりしますね。岩波とか中公とか。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます。

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3668)
回答No.1

昔の日本の武士の教育と言っても、せいぜい「子曰く」ではないが、論語や四書五経のような儒教的な色彩や詩歌の嗜みがあったとしても、それは貴方の言う厳しい教育とは違いますから、もしそうだとすると、結局は戦などを通じて培われてきた実践哲学。 ただ、それは生き様、死に様といった武士の在り方の問題であって、とくに教育されたものではないと思いますよ。 また、そうしたことを十字切りの切腹を実践して証明して見せた柴田勝家のような猛将がいたとしても、それは教育というよりも、むしろ、痛快なエピソード。 そんな意味では新渡戸稲造の「武士道」は、中世から近世近代の武士の在り方を集大成した武士道の教科書と言える存在です。 その内容は、特に厳しいという印象ではなく、その基本はすでに日本人の底流に流れる感性を持つものですから、「読書百篇意自ら通ず」というように、何度も何度も読み返すことで理解できると思いますよ。 「よく分かりませんでした。」ということですが、様々な武士道や武家の教育などの本がある中でも、やはり、この武士道を読みこなすことが一番有効で大事だと思います。 今の時代にはない、日本人らしさが、其処彼処に散りばめられている筈ですからね。

kirakiraaruku
質問者

お礼

ありがとうございます、もう一回読んでみます。

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