- ベストアンサー
私の両親が違っていたら私は存在しない?
- 私の両親が今の両親でなく、別の両親だったら、今の私は存在しなかった、あるいは別な人間が存在したのでしょうか?
- 私はたとえ両親が、別な両親であっても、私が存在することに何ら変わりはなかったと思っています。
- 私が生まれる前だったら、私の両親と別な両親との間に、私が生まれる可能性も、確率も、半々かもしれませんが、しかし、いったん私が生まれた後は、たとえ両親が今とは別の両親だろうと、私が存在することは必然です。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>あなたは可能性とか、確率を過去に適用できると思いますか? 「できる」というのが物理学のシュレディンガーの猫です。 フタを開ける前は生と死が雲のように混ざり合った状態である。 フタを開けた時点で状況が一変し、生か死かの状態に確定する。
その他の回答 (5)
- Psychic_student
- ベストアンサー率48% (12/25)
「ヒコーキが飛ぶ前」と「肉体が違う」を同列に並べるのがおかしい。 「もし別の肉体だったら」は「もし別のヒコーキだったら」とならば比べられるかもしれません。 「このヒコーキだから無事だった、でも別のヒコーキだったら無事かどうか分からない」 「この肉体だから私だ、でも別の肉体だったら私かどうか分からない」 これがイコールなんじゃないでしょうか。 「ヒコーキが飛ぶ前は無事かどうか分からない、でも結果無事だったから無事だということが確定している」 「この肉体だから私だ、そして結果私“”だから””別の肉体だったとしても私だということは確定している」 これがおかしいんじゃないでしょうか。「別のヒコーキ」という条件なら「別の肉体」という条件と同一に論じることができるけれども、「飛ぶ前のヒコーキ」と「別の肉体」を 「「「同じ文脈でで論じることはできない」」」 これじゃないでしょうか。 ヒコーキは「同一のものがどうなるか」、ですが、肉体の方は「違う場合どうなるか」、なので話が違うということじゃないでしょうか。 科学的に、魂は肉体の付随要素でしかないのか、それとも肉体を離れても存続するのかという問題が焦点になってくると思いますよ。 魂が肉体の付随要素でしかないとしたら、肉体が違えば、「誰が存在するのか」も違ってくるでしょう。 魂が肉体と関係なく存在するものだとしたら、肉体がなんであれ、意識主体はその肉体条件に閉じ込められた同一のもの、ということになるでしょう。 答えはまだ明らかになっていませんが、臨死体験の研究などから、魂は肉体を離れて存続する可能性の方が高いのではないかと思いますね。
お礼
私は「肉体が違ったら」なんて言っていません。 私の質問よく読んでください。 私は「両親が違ったら」と申し上げています。 「肉体が違ったら」と仰ったのはあなたの方です。 だからあなたのその仰った「肉体が違ったら」ということに反論したのです。 自分で仰ったことをお忘れですか? それと私は「今が確定しているなら、今は絶対だ」というトートロジーなど述べていません。 よく読んでください。 私は現に今、私が存在する以上、「私が別の両親の間に生まれたら、今の私とは違ったはずだ」という可能性はもはやない、と申し上げています。 なぜなら、可能性という言葉は、物事が起こる前だったら、使えるけど、物事が起こってしまった過去に対して使うことはできませんから。
補足
確かに、私がまだ生まれる前だったら、「別の肉体だったら」、私は別人であったかもしれないと言えるかもしれません。 可能性とか、確率は、そのことが起きる前だったら、可能性といえるし、「別の肉体だったら」、と言えるかもしれません。 可能性とか確率は未来に対してでしか、適用できませんから。 しかし、ひとたび、私という存在が結果として存在する以上、もはや「別の肉体だったら」という問いは意味をなしません。 起こったことは取り返しが付かないし、元に戻ることもできません。 だから私でない可能性はありません。 私の「肉体でなかったら」という可能性もありません。 あなたは可能性という言葉が過去に適用できないのに、適用しています。 「もしも別の肉体だったら」と。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
>ヒコーキは飛ぶ前だったら、落ちる可能性も、確率も >ありますが、飛び終わって着陸した後は、もはや落ちる >可能性はないし、確率もないからです。 「今のあなた」には両親の存在が反映しており、 「飛行機が落ちる」には理由があります。 飛行機が落ちるかどうかが確率的なのは、判断の ための情報が不足しているからであり、こうした 確率的な議論が本質に関わるのは、量子的な不確 定性原理が影響する場合です。 「いったん生まれれば、異なる両親だろうと私は 存在する」というのも、その「存在する私」は、 異なる「私」です。 飛行機が落ちるのには因果律があり、結果から 原因の確率性が収束するという「シュレーディン ガーの猫」の例にならうには情報がオープン過ぎ、 「量子もつれ」の例にするには現象がマクロ過ぎ ます。
お礼
「今のあなたには、両親の存在が反映している」ということは、両親が私を産んだ年でなく、別の年に産んでも、同じ私が生まれる、ということですか? そしてヒコーキが落ちるには落ちるだけの理由があり、確率とは情報不足で、情報がすべて分かっていたら、かならず落ちるということですか? 操縦士がどんなに努力して落ちないようにしようとしても、そんなことは無駄だ、と? 物事は原因から見れば、すべては偶然で、どんなことでも起こり得ますが、いったん起こってしまえば、結果は必然で、もはや別の可能性はありません。 可能性といい、確率といい、これから起こるであろう将来に向かって、それを適用できても、すでに起こってしまったことは、すでに取り返しもできず、元に戻れないのであれば、過去に対して、その可能性があるとは言えず、確率という言葉も使えません。 同じように、過去の時点でならば、私は別の両親ならば今の私でなく、別の私であった可能性があると言えるかもしれませんが、すでに私が存在している以上、過去にさかのぼって、別の両親だったならば別の私であるだろうということは言えません。 それは何度も言うように、いったん起こってしまったことはやり直しがきかないし、元に戻れないからです。 「後悔先に立たず」と言います、後悔はすでにそれが起こってしまった以上、後悔しても無駄だ、ということです。 取り返しがつかないんですから・・・・・
- tarutosan
- ベストアンサー率23% (1528/6449)
結果が全てという理屈なら「もし」さえ起こりません。 論理が破綻していると考えます。
補足
私は結果がすべてとは申しておりません。 結果オーライという話ではなく、可能性とか確率は過去に適用できないのではないかと、申し上げております。 起こったことは取り返しがつかない、元に戻れない、という意味で。 たとえば、サイコロを振ったとして、サイコロを振る前だったら、1や6の目が出る可能性も確率もあったかもしれませんが、いったん1が出たら、1が出る「可能性があった」と過去形で語ることはできるかもしれませんが、「1が出る可能性がある」と現在形で語ることはできないでしょう? そういう話です。 それでも、論理が破綻していますか?
- seble
- ベストアンサー率27% (4041/14683)
あなたの論理には矛盾があります。 >別の両親だったら という仮定なのに、 >起こってしまったら、可能性も、確率もないからと 起こってしまうのはご両親が同じであるという事であり、前提と矛盾しますよね? 別の両親であれば、起こる事象自体が変化するのですから、起こった、事自体が変化します。 >別の両親だろうと、私が存在することは必然です あなたが産まれるのはその後の事ですから、必然になるわけが無いのですが・・・ あなたが存在するのが必然であれば、あなたのご両親の存在も必然となり、前提のIFが成立しません。 過去のIFについてはSFのパラドックスで、未だきちんと論理的な解を創造した作家はいません。SFですら。 別次元とかの設定はありますが、それも完成された解とは言えません。過去に存在した人間の数すら無限であり、猿の時代や他の生物との関連など無限の次元が発生してしまいますし、選択の違いごとに発生するとなると、今、この瞬間にも無限の次元が無限に発生し続ける事になります。別次元という存在の解釈次第でもありますが、3次元の人間の認識では、別次元が複数程度できるならまだしも、無限に発生し続けるという解釈は受け入れがたいです。いくら宇宙が広くとも、広いからこそそれが丸ごとどんどん発生する訳で、いくらなんでも・・・
補足
別の両親というのは、たとえ話です。 後半のヒコーキの例を読んでください、 可能性とか、確率は物事が起きる前から将来に関してなら適用できるが、物事が起こってしまった後から過去に向かって適用できない、という当たり前の話です。 だから正確には、「それは必然です」というより、「必然とみなされる」というべきでした。 あなたは、可能性とか、確率を過去に適用できると思いますか? それを両親という言い方をして説明しましたが、ご指摘のようにたとえ話としては間違っていたかもしれませんが、論理的には間違っているとは思いません。 だから、あなたの後半の説明は余計です。
- maiko0333
- ベストアンサー率19% (839/4401)
少なくともあなたの体に刻まれているDNAは異なりますよね。 家庭での教育も違うと思います。住所が違ったら学校の教育も違うと思いますので、 今のあなたと同じ道を歩むかと聞かれれば答えはNOのはず。
お礼
それと私はDNAのレベルとは違って、私は私が私と思っているから私なので、DNAとは関係ないと思います。 意識が何であるかが、物理的に還元して解明できないのと同じで、あなたは私という自己意識をDNAという物理に還元して、別の人間であることはできなかった、私は私である必然性がある、と言っているように聞こえますが、それは物理のレベルと人間の自己意識、つまり私とを同一視するもので間違っていると思います。 だったら、家庭が同じで、住所が同じで、同じ教育を受けたら、同じ私だ、と言えますか? 私はどんな家庭に生まれようと、住所が違っても、別な教育を受けても、やはり私は同じ私であると思っています。 あなたは論理のレベルと物理のレベルをストレートに結び付けていますが、切り離して考えるべきだと思います。
補足
私は論理学の問題の例として、そのたとえ話として両親のことを持ち出したので、確かに両親の問題ならば、私の質問は間違っていたかもしれませんが、可能性とか、確率は物事が起きる将来に関してなら適用できるかもしれないが、物事が起こってしまったら、適用できない、という話で、論理学の問題です。 あなたは可能性とか、確率を過去に適用できると思いますか?
補足
私はそのフタを開ける前のことを申し上げております。 可能性とか、確率、というのは、フタを開ける前の状態です。 フタを開けた時点というのが、結果です。 フタを開けた時点で状況が一変し、私が存在するか、存在しないかが確定します。 でも、フタを開ける前では、混沌としているから、私が存在するか、存在しないか、は可能性とか、確率に過ぎません。 あなたの仰る通りです。