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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:平安時代について、貴族たちが華やかな生活)

平安時代の華麗と混乱を知る

このQ&Aのポイント
  • 平安時代は藤原道長が権力を持ち、貴族たちの華やかな生活が描かれた時期だった。
  • 紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』が生まれた文化的背景があったが、政治的混乱も存在した。
  • 10世紀半ばには平将門や藤原純友の乱があり、律令制度の崩壊が始まっていた可能性がある。

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  • ithi
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回答No.4

sembokuloveさん、こんばんは。 この時代になると、地方の国衙領からの官物からの収入よりも、寄進地系荘園からの収入の方が貴族たちの財政を潤していました。寄進地系荘園の名目上の領主として、その収入を頂くのです。荘園の実質的な領主は、彼らの代理人(目代)として、荘園を実質的に支配しました。彼らは武装していたので、武士団と呼ばれています。国司でも、簡単に手出しは出来なかったのです。 これが武士団の始まりですね。有名なのは源氏と平家ですね。 この時代は、後期摂関体制の全盛期である藤原道長の時代です。院政時代に突入するまでは、道長の子である頼通が亡くなるまで、後、約80年位あります。つまり、武士が本格的に台頭してくる院政期までの過渡期と言える事ができると思います。

その他の回答 (3)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11203/34801)
回答No.3

>話は変わりますが、江戸時代も格差社会だったといわれています。 >武士たちが平安時代の貴族と同様華やかな生活を送る一方、 >農民たちは搾取され続けておりました。 >そのことが、のちに一揆や打ちこわしの原因ともなったのではないかと言われています。 これね、大誤解なんですよ。よく「家康は、農民は生かさぬよう、殺さぬようだと言った」なんていわれていますけど、あれはウソでしてね。明治政府が徳川幕府を倒したことを正当化するために、明治時代になっていかに徳川幕府は悪政だったかというのをプロパガンダしたのです。 江戸時代というのは幕府の天領、すなわち直轄地と藩領によって構成されています。各藩はアメリカの州のような半独立国だったんですね。だから各藩のその行政に幕府は口出しできませんでした。税金(年貢)もそうでした。年貢はそれぞれの藩で違っていたのです。 そして各藩が最も恐れていたこと。それは幕府によって藩を「御取潰し」になることでした。徳川の治世はおおよそ200年ありましたが、取潰された藩もおおよそ200あります。つまり乱暴にいうと毎年どこかの藩は幕府によって取潰されていたのです。 取潰される理由は様々ですが、単純にいうと「お前ら、統治能力がないな」と幕府に思われてしまったら取潰しの口実になってしまいます。時代劇なんかは跡継ぎ争いのお家騒動なんてのがよく出てきますが、他には大規模な一揆を起こされてしまうとこれまた取潰しの口実になってしまいます。なので各藩は一揆を起こされてそれを幕府が知るところになると、仮にそれが鎮圧できたとしても「一揆起こされてるから統治能力なし」とされて取潰される可能性があったので、とにかく「内々に処理する」ことが重要でした。今も昔も変わりませんね・笑。 だから各藩の統治能力が低下しつつあった幕末頃は、農民たちが一揆や強訴に出ると幕府への発覚を恐れた藩側が農民側の言い分をほぼ全面的に受け入れるなんて事態もしばしば起きるようになっていました。 では取潰しの対象にはならない天領(直轄地)ではどうだったか。これらの領地では、徳川家の威光を示すために概ね税率は低くされていました。「天下の将軍様は、お前たちを搾取しなくてもやっていけるんだ」と見栄を張っていたのです。さすが名古屋文化圏の人が天下をとると見栄っ張りになります。 明治時代になると、年貢は「税金」という形になります。このときに税金反対のデモや反乱がよく起きたのですが、それが発生した場所はほとんどが元天領だった場所でした。元藩の地域の多くは税金の導入は全体として「減税」になったので反対はほとんどなかったのですが、天領においては「増税」になったので当然不満が出て反乱が起きたのです。 そもそ17世紀から18世紀にかけて「格差社会ではない王朝・国家」なんて世界中どこにも存在しなかったので、江戸時代にすごい格差があったのは当たり前っちゃ当たり前でした。相対的に格差があまりなくかつ民主的な社会が国家として出現したのは、アメリカ合衆国が独立してからじゃないですかね。植民地として始まったアメリカには貴族がいませんでしたからね。 また江戸時代は武士階級も必ずしも不条理に優遇されていたわけではありません。武士は、お給料をコメで支給されていました。何石扶持とかそういうやつです。その給料として受け取ったコメから自分の家族が食べる分を差し引き、余ったコメを米商人に売って換金してそれで生活にかかるお金を用意していました。 コメが半分貨幣のような役割をしていたので、江戸時代は「米本位制」のような経済システムでした。 ここで重要なのは、武士の給料は基本的にいくら代が替わっても昇給はないということです。先祖代々何石と決まってたら、そのままです。 しかし江戸時代を通じて、技術の進歩や新田の開発によって米の生産量は右肩上がりになります。米の総量が増えればインフレになりますから、同じ米で換金できる金額は少なくなってしまいます。 つまり江戸時代の武士、とりわけ中級や下級の武士にとっては「世間の物価が上がるのに給料は増えず、米を換金しても手取りが減る一方」なのです。え?私は令和の日本の話は全然してないですよ。 なので江戸時代には賄賂が横行していました。いや賄賂でも貰わないと生活していけないからです。「お前は賄賂を貰える立場だから給料は少なくていいよね」とその分給料を抑えられる役職もありました。 また生活費の足しにするためにアルバイトも認められていました。とはいえ武士という身分ですからなんでもやっていいわけではなく、なるべく品がいいものが求められました。朝顔やほおずきの栽培なんてのは武士のアルバイトの典型だったそうです。当時の武士の勤務はだいたい一勤一休ないし一勤二休(!)という勤務時間(しかもヘタすりゃその勤務日も出勤は午前中だけということも)だったので、時間はあり余っていたのです。 いやだから、残業時間がなくなったから副業が奨励されるようになった令和のサラリーマンの話はしてませんてば。 そんなこんなでしたので、徳川時代約200年の中で、幕府(国家)に対する反乱というのは「大塩平八郎の乱」しか起きなかったんですね。 その大塩平八郎の乱といえど別に幕府転覆を狙ったものでも改革を訴えるものでも誰かを糾弾するものでもなんでもなく、「世の中にこんなに困ってる人たちがいるのに誰も何もしないのは許せない」という義憤120%で行われたものでした。大塩平八郎の檄文を一言に要約すると「なあみんな、この世の中はおかしいじゃないか。そう思わないか?だから俺は決起した」なのです。知行合一といいましてね、「思ったらやらなきゃいけない」っていう乱暴な学問があるんですよ。吉田松陰も知行合一を実践しようとした人です。 つまり一応「乱」とはついているけれど体制に対する反乱ではないので、江戸時代を通じて体制を倒そうというほどの不満はどこにもたまらなかったのです。江戸幕府に対して倒したくなるほど強い恨みを持っていたのは長州藩と薩摩藩くらいでしたでしょう。 (ここまで書いて思い出しました。江戸時代の「体制に対する人々の反乱」がありました。「島原の乱」です。島原の乱は江戸時代「最後」の合戦になりました)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2326/5176)
回答No.2

>その当時って、もう租庸調をはじめとした律令制度の崩壊、壊滅が始まっていた時代なんでしょうか。 というか、今と同じで「貧富の差」が存在したのです。 国会議員平均年収1億3000万円(基本給2400万円+各種手当。週休5日制)と庶民平均年収400万円(基本給300万円+各種手当。週休2日制) 当時は、貴族と庶民は今の比ではありません。 優雅な生活が出来る皇族・貴族と、明日の食べ物にも困窮する庶民がいたのです。 平将門や藤原純友の乱は、一種の貴族政治への反発です。 >律令制度がのっぴきならないところまで来たのは、(略)保元の乱・平治の乱のころではないかと。 まぁ、その頃でしようね。 「朝廷では政治は出来ない。武士の時代だ!」と、(今まで貴族から下に見られていた)武士が本気で思った頃です。

sembokulove
質問者

補足

話は変わりますが、江戸時代も格差社会だったといわれています。 武士たちが平安時代の貴族と同様華やかな生活を送る一方、 農民たちは搾取され続けておりました。 そのことが、のちに一揆や打ちこわしの原因ともなったのではないかと言われています。 https://gendai.media/articles/-/89202?page=5 そこで問題ですが、平安時代と江戸時代、どっちが格差がひどかったのでしょうか。

回答No.1

743年に発布された「墾田永年私財法」がそもそもの始まりです。耕した土地が自分のものに永久になる法ですが、当初は税が掛かっていました。これがその後の荘園の誕生に繋がります。 当初は、大きな神社仏閣の保持する荘園にのみ「不輸不入の権」が認められていました。不輸は年貢等税の免除、不入は田を点検する役人を締め出す法です。 この法を、通常の荘園にも持たせるよう朝廷に迫り認めさせたのが、藤原氏等の有力貴族です。そうすると、各荘園は有力貴族の庇護を受けるようになり、税は朝廷には入らず、荘園を持つ有力貴族が肥えていくことになりました。 これを何とかしようと、朝廷は「荘園整理令」を何度も出すようになりましたが、あまり効果がありませんでした。最初の荘園整理令が発布されたのが、902年の「延喜の荘園整理令」ですので、その頃にはもう律令制度は崩壊していたのでしょうね。 この荘園制度ですが、権力が貴族から武家に移り、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、荘園が幕府に没収される形で終焉を迎えます。 以上、ご参考になりましたら。

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