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平治の乱 信頼が独断で御所に放火って無茶杉w
最近この時代に興味があっていろいろ読んでるんですが 平治の乱直前の院、天皇家、摂関家の力関係はよくわるし、 信西に対する反感が、院側 朝廷側に大勢出てきたのもわかるんですが、 それにしても藤原家の人間が上皇が住む御所を焼き討ちって無茶が過ぎませんか? いませんよね、彼以前に臣下で御所襲った人間。(保元の乱は天皇が上皇を攻撃したわけだし) 人間って、その時代の価値判断に絶対しばられるわけだし、どうしても彼の行動が納得できません。 どなたか解説をお願いします。 信西憎けりゃ、そこらへんで襲撃すればいいだけの話で
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>上皇が住む御所を焼き討ちって無茶が過ぎませんか? 三条殿焼打ちのことでしょうか。 書籍等では院御所となっていて、あたかも現在の京都御所すなわち大内裏かと錯覚しますが、焼打ちを受けた御所すなわり三条殿は大内裏ではなくいわば別邸です。 詳しくは下記サイトをご参照ください。 東三条殿 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/東三条殿 >いませんよね、彼以前に臣下で御所襲った人間。 御所すなわち大内裏が焼打ちにあったのは応天門の変と呼ばれる火災があります。 応天門は大内裏の内側にある施設です。 つまり御所の一部に火をかけたことになります。 伴 善男(通称伴大納言)のしわざとされていますが、真相は藪の中です。 >人間って、その時代の価値判断に絶対しばられるわけだし、どうしても彼の行動が納得できません。 「その時代の価値判断」とはどのようなものとおかんがえでしょうか。 天皇や上皇が神聖にして犯すべからずなどという価値観は藤原氏の台頭専横からもわかりますように極めて時代遅れの価値観です。 あるいは昭和初期の軍閥時代の価値観です。 天皇というものは、あくまでも時の政権の正当性を保証する機関と看做されるようになった時代です。 天皇を見方に引き入れるか否かで権力が取得できるかどうかが決まっていただけです。 これに院政という元天皇が出てきて、いよいよ誰を味方とすべきか極めて曖昧になっていた時代です。 やがては気に入らなければ天皇だろうとなんだろうと島流しにする時代に入っていきます。 平安時代末期といいますのはいわば変革期です。 従来の天皇を頂点とした公家による政争の時代は終わりを告げていました。 口先だけの形式論の時代は終わり、実力行使の時代に変わっていった時代です。 平たく言えば政争に武闘が加わり次第に政争の主要手段が武闘となって行った時代です。 それの実行部隊が源平一門です。 そもそも武士などという階級はそれ以前には内裏に参内するなどとはおよそ考えられませんでした。 >藤原家の人間が上皇が住む御所を焼き討ちって無茶が過ぎませんか? 藤原家の人間とは藤原信頼のことでしょうか。 藤原信頼は検非違使別当を務めていました。 検非違使は当時唯一の官制の武装組織ですが、実態は精々儀仗兵でした。 これを補う形で台頭したのが源平の一門です。 形式上は信頼がやったことになりますが、実行部隊は平家一門です。 武士の論法でいけば、敵の拠点を焼き払うのは当然のことです。 >信西憎けりゃ、そこらへんで襲撃すればいいだけの話で これが簡単にできれば手間はかかりません。 後ろ盾あっての信西です。 根こそぎやらなければ第二第三の信西が出てくるだけです。 個人の喧嘩ではないことに注意して下さい、あくまでも政争であり権力闘争です。 上皇に家臣たる者が弓引き焼打ちなどけしからん、などという価値観はどこにもありませんので御注意願います。