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伊賀越えで本多忠勝が竹槍?
先程大河ドラマを見たのですが、伊賀越えで本多忠勝がその場で作った竹槍を持っていました。 1堺に行くにあたりこういった遊行では自慢の蜻蛉切は持ち歩かないのでしょうか? 2家来衆はたくさん槍を持っていたのですが、なぜ家来が槍で忠勝が竹槍なのでしょうか? いくらなんでも不自然すぎるので何かを表現しているのだと思いますが、何を表現してるのか全然わかりませんでした。
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- Pinhole-09
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常山と号した備前、湯浅新兵衛元禎の著わした「常山紀談」 には家康が堺より「伊賀上野かぶと越え」で帰国の際、 本多忠勝が蜻蛉斬と名づけた槍をひっさげてとあるので、 家来衆は槍を持っていたのです。 三河より京へ上る道中、街道はかなり安全になった時代とは いえ、野伏などに襲われる危険性はゼロではなく、50人位 では刀だけでなく、槍など携えて行くのは当然でしょう。 堺見物ではさすがに槍などは宿に置いていきます。 ドラマで竹槍にしたのは、お前達をけ散らかすには、槍でなく 竹槍で充分だと忠勝の豪勇さを見せる、三谷の演出と思います。
- tak7171
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1については他の回答者様がおっしゃるとおりです。 2についてですが、 槍で聞えた大剛・本多忠勝に敢えて竹やりを持たせることによって、 「我々には敵意はない」との暗示。 ただし、家来に槍を持たせていることで、 「それでも向かってくるなら容赦はしない」との暗示。 この程度の演出かと思います。 歴史では随行していた穴山梅雪と途中で別れ、 家康は無事帰還、梅雪は土寇に殺されていますが、 梅雪は家康に囮にされたのではないかな~と思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- fujic-1990
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あのシーンの解説を求めているんですよね、史実の解説ではなく。 史実は皆さんお書きの通りだと思いますが、私はあれを見た時、「突き捨てて逃げるためかな」と思いましたが、今は、「演出として」、なにかしていないと落ち着かない雰囲気を出したかったのかなと思いました。 相手を突き刺して逃げる、という発想は、狙撃兵の流儀がひらめいたからです。狙撃兵って、殺せる場合でも殺さず怪我をさせて、助けを求めさせるんですって。 で、助けに来たヤツを殺す。釣りの餌ですね。 ああいう場合、竹槍を突き刺されて苦しむ仲間を見捨てられないでしょ。助けざるをえない。当然速さは落ちる。苦しむのが重要人物なら、追いかける気力を失います。 本物の槍より、竹槍のほうが、刺された時は痛いです。さぞや激しく苦しんでくれるだろうと。 でも、いまは、そこまで考えて脚本を作っているかどうかは分からないな、と思っています。その策戦を使ったらしき戦闘はなかったですし。 で、なにかしていないといてもたってもいられない心境を表しているんじゃないかと思うに到りました。 あるいは「頑張っております」アピールか。
お礼
>あのシーンの解説を求めているんですよね、史実の解説ではなく。 まあそういうことですが、史実になにか少しでも関連してれば面白いですね。ご回答ありがとうございました。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まずは、三谷氏ですが、歴史家や歴史作家の間では、「異端児」と呼ばれています。 歴史の面白さをより多くの人に知ってもらいたい・・・と言う「信念?」は良いのですが、史実を「歪曲」してまでも世に広めようとすることが、何よりも許せないのだと思います。とは言え、それなりにファンがいることも事実であり、あながち、彼だけを責めるわけにはいかないのかも知れませんね。 さて、家康の伊賀超えについてですが、 3泊4日の堺遊覧での家康の供回りは、およそ30人ほどであった。と言われています。 その中には、武将としては、酒井忠次、本田忠勝、榊原康政、井伊直政、服部半蔵、穴山梅雪。そして、堺の豪商茶屋四郎次郎。が主だった者たちでした。 そして、あくまでも「遊覧」でしたので、警護の者たちも槍などは一切持っていなかった。「刀だけを腰に差して皆自由気ままだった」と、堺の豪商の家から見つかった古文書には書かれているとのこと。(真否のほどは、実は、私にも分かりませんが・・・) となると、供回りの者たちも槍を持っていなかった。 と、言うことになりますね。 当然、どなたかが言われるように「本能寺の変」など予想もしなかったからです。 家康が信長が殺されたのを知ったのは、早くも、6月2日昼頃。 その時、家康一行は京へ帰る途中の飯盛山に居た。 さて、そこで家康には3つの選択肢がありました。 (1)堺に戻って船を調達して海路で岡崎に帰る。 しかし、難点があった。 海路であると、距離的には約500kmとなり、船の時速は約10km。しかも、堺港は要港でもありましたが、潮の流れが逆。そして、大海に出れば波も荒い。さらに、船を漕ぐ漕ぎ手もいるが、ほとんどは風任せ。それらを考えると5日余りかかる。(三谷氏ではありませんが、現代風に述べています)。 また、当時の情報伝達は海側には素早く伝わる。逆に言うと、山側には時間がかかったのです。 情報をいち早く聞き込んだ、当時、「海賊」と呼ばれた「水軍」に追いかけられないとも限らない。 (2)京に行って、いっそのこと、明智光秀と手を結び、堂々と岡崎へ帰る。 これにも問題があった。 光秀は、信長を倒した後、直ちに各地の武将に「味方するように」と書状をしたためていますが、彼に従う者はほとんどおらず、家康も光秀の「人気のなさ?」を知っていたため、たとえ生き延びたとしても、家名に恥じる。と思われた。 (3)そして、決断したのが「伊賀超え」でした。 距離は約200km。とはいえ、雑木林の中を登り降りの険しい山道。しかも、情報伝達が遅いとはいえ、落ち武者狩りも横行していた。 事実、旧武田家の家臣で家康の側近となった穴山梅雪は、この落ち武者狩りの竹槍で命を落としているのです。 しかし、家康を決断に導いたのは、服部半蔵と茶屋四郎次郎でした。 服部半蔵は、伊賀の豪族の出身。地元の伊賀衆を味方に付ける自信があった。 そして、次に行動を起こしたのが茶屋四郎次郎でした。 彼は、「伊賀超え」と決するやいなや、直ちに、家人を使って伊賀、甲賀の有力者たちに小判をばら撒いたのです。 こうして、伊賀衆を味方に付けたことにより、甲賀衆も伊賀衆との無用な争いをやめて家康に付くこととなったのです。 そして、白子浜から船に乗り、無事、岡崎へ逃げることができたのです。 まあ、事実は小説よりも奇なり、と言う言葉があるように、家康にとっては三方が原の戦いと同じくらいのターニング・ポインだったのではないでしょうか。
お礼
なるほど実際槍の携行がなかったことが記録にあるんですね。 忠勝が竹槍を持っててもおかしくなくてなんか家来が槍を持ってるのが間違いのように思えます。 ご回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1963/11745)
徳川家康が堺に居たのは いわば観光です 平八郎などの槍使いが槍を携えるのは武装してるときです 平時は刀のみの所持ですよ? 家来衆は護衛ですから槍は持っていますが ただ 実際家康は数人の供回り(家康、服部半蔵、茶屋四郎次郎、本多平八郎、穴山信君とその従者の家来)だけを連れての堺観光ですから 史実では槍を持った家来衆は連れていないと思います(まさか京都での変事を予期してたわけでも無いでしょうにww) 大河ドラマは創作ですから 深く考えないほうが良いと思いますよ? まぁ 危機感の演出でしょう
お礼
なんか家来が槍を持ってることの方が間違いっぽいですね。ご回答ありがとうございました。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11074/34517)
「ものすごく追い詰められて危機的な状況である」ということを表現したかったのではないでしょうか。 三谷幸喜さんは新聞の連載で「自分は時代劇の仰々しい台詞回しがどうも気に入らない。『それは誠でござるか!』といってもお茶の間に伝わらない。『それ、マジで!?』のほうが伝わると思う。だからそう脚本に書きたいけど、実際にそうすると歴史ファンが怒るからしょうがなく合わせている」というようなことを書いています。またその中で「今回の大河ではリアリティは追及しない」と明言しています。要するに現代劇にしたいらしいんです、三谷さんは。「そのほうが歴史を身近に感じられるはず」と思ってるんですね。 だから「他の人はちゃんとした槍を持っているのにわざわざ竹槍を持ち出す不自然さ」は三谷流の演出だと理解した方がいいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。うーん資料としてはちょっと時代が離れすぎていますよね、ただ常識的に考えて治安の悪い時代にあれだけの長旅だから、数本の槍の武装はしていたようには思います。 しかも福島正則ほど軽率な人物談は無いとはいえ本多忠勝も武闘派の武将、畿内で多くの名士・武将と交流の機会があるでしょうから当然蜻蛉切は持っていって見せびらかしてるのではと想像しました。