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さらさら越えは?

佐々成政の「さらさら越え」の疑問です。 1・「さらさら越え」の「さらさら」の語源は何なのでしょうか? 2・そもそも史実なのでしょうか?11月の北アルプスに当時の装備で行軍することは可能なのでしょうか?しかも成政は49歳でした。登山家でも難しいのでは? 3・史実であるとすればルートなどは解明されているのでしょうか?

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  • Pinhole-09
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回答No.2

1.立山では「左良左良(ざらざら)峠」と云っていました。  一般には「さらさら(更更または沙羅沙羅)峠」ですが「ざら峠」、「砂良砂良(さらさらともざらざらとも読む)峠」など云います。    語源は不明です。 2.信頼できる資料は極めて少なく、疑う人もいますが、天正12年冬成政が家康に会いに行ったのは事実で、何時前田利家に攻め込まれるか分からぬ時、邪魔されず速やかにしかも秘密に行けるコースとしては、北アルプス越えがもっとも妥当と考えられます。 成政はこのため十分な準備をしています。   前年にはルートの前進基地の立山権現に450俵の土地を寄進して、立山芦くら寺の雪山を闊歩する修験者、山人達を懐柔し、さらさら越えには道案内をしてもらいました。 彼らに倣いカモシカの毛皮をまとうなど厳冬期の服装をすれば、行軍は無理とは思えません。 また樹木の年輪の調査によると戦国時代は、日本は暖冬期であったそうです。 3.コースとしては有力な6案があるそうですが、その中でよく云われている 立山ーさらさら峠ー中の瀬平ー針の木谷ー針の木峠ー野口村  より          中の瀬平ー針の木谷ー北葛岳ー鳩峰ー野口村  の方が実地踏査した人は支持しているようです。 「太閤記」の「山の峰に攀じ登り南を見れば、山下に里ありとおぼしくて、柴おりけぶる煙にたたえたり。」との記述にも合います。

hirarno36
質問者

お礼

詳しい説明恐れ入ります。飛騨を通らず信濃に抜けるコースですが、2600メートル級の高山、しかも冬季とのことで疑っていました。 >前年にはルートの前進基地の立山権現に450俵の土地を寄進して、立山芦くら寺の雪山を闊歩する修験者、山人達を懐柔し・・・ かなり詳しい記述に驚いています。当時は暖冬とはいえカモシカなどの獣皮で凌ぐとは凄いです。今考えても(切羽詰っていたとは言え)下準備なくしては無謀ですね。現地ガイドは不可欠です。 コースについては細かい地図で再度確認してみます。 貴重な回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

「更々越え」は、「今更ながら越えなくてもよいのに越える」、と云う様な意味で、佐々成政の厳冬における「さらさら越え」は事実ですが、はっきりとしたルーとはわかりません。 http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/narimasa.htm

hirarno36
質問者

お礼

漢字は不明だったのでさらさらとは更々と書くのを知りました。 なるほど、敢えて越えてまで家康に会いに行ったのに何も変わりませんでしたね。 この時代に今のような防寒着もあるわけもなく、史実であればまさに暴挙です。 写真を見るにつれ無理だったのじゃないか?伝説であったのでは?の感がします。 回答ありがとうございました。

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