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ヒュームの理論とバーグリーの理論について教えてもら
ヒュームの理論とバーグリーの理論について教えてもらいたいです。 いくつか本に載っているところを読んだのですがうまくイメージすることができなくて。 ヒュームだと因果関係や印象などについてがキーワードで、 バーグリーは存在するとは知覚されているということだと思うのですが詳しく教えてもらいたいです。 回答お待ちしております。
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- koosaka
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英国経験論のロックやヒュームは、デカルトのように「生得観念」があるという考えを否定し、人間の知識は経験に始まると主張しました。 経験的対象が存在し、その「印象」とか「写し」として観念があり、その単純観念を組み合わせ複合観念を作り上げ、それが私たちのいう知識である、と。 だから、私たちがご飯を食べるのも、オシッコするのも、通勤電車で会社に通うのも、この世のすべては観念でないものは無い。 問題は因果です。 原因も観念、結果も観念だとすれば、その原因と結果のつながりにどうして必然性があると言えるのか、それが分からない。 因果は経験的に存在すると考えると、単に私たちの習慣なのではないか、つまり原因と結果を結び付けて、そのつながりに必然性があると思っているだけで、実際は必然性などないのではないか? かくて、ヒュームは懐疑に陥りました。 それを解決したのは、カントでした。 要するに因果というのにはカテゴリーであって、実際に存在するものではなく、そのカテゴリーを実在に適用して、出来事を整理整頓し、私たちが認識しているにすぎない、ということです。 パークリは「人間知識の原理」で、存在するとは感覚されることである、といいました。 簡単に言うと、現象だけが世界で、その現象の向こうには何ものも存在しない、ということです。 なぜって、その現象の向こうにあるものは神が創ったものであり、私たち人間に認識できるのは、その神の創ったものの現象にすぎない、ということです。 これを敷衍すると、私たちはそれを認識する主観(主体)が、こちら側にあり、認識する対象が、向こう側にあり、それを「見る」と言っているけれども、あるのは「見る」だけであり、主観(主体)も、対象も、二次的なものにすぎない、ということです。 西欧文法では、私は、見る、物を、という風に主語と述語を繋辞であるコプラで結び付け認識していると考えていますが、そのような三極構造をパークリは否定したのです。 このパークリの考えを受けて、日本の西田幾多郎は、「純粋経験」があり、主・客はその後に形成されると言いました。 また、戦後の哲学者、大森荘蔵も、「立ち現われ一元論」を唱えています。 「立ち現れ」とは感覚すること、見たり触れたりすることが、根底であり、根源であり、それを認識する主観(主体)とか、対象の存在は、後から反省的に作られるにすぎない、と言いました。 それは日本語の文法を考えてみれば分かります。 西欧文法では、たとえば、I love youというところを、愛しているよ、で済みます。主語も述語も必要としません。 動詞だけあればいい。
お礼
詳しい説明ありがとうございました! 何か掴んだ気がします! 助かりました!