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江戸時代。農民が鉄砲の火薬と弾丸を入手するには。
農民や猟師は、どのようなルートで火薬や玉を入手していたのですか。 自藩で火薬や玉を作ることができない藩では、他藩から購入せざるを得ないはずですが、容易に入手できたのですか。 また、火薬は、数年在庫しておいても劣化しないのですか。 よろしくお願いします。
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こんにちは 火縄銃の玉は鉛、火薬は玉薬(鉄砲玉を含めて玉薬とも言います)とも言われ、硝石(焔硝・塩硝)、木炭、硫黄を原料とし、黒色火薬のことです。ただ、硝石だけでなく、火薬そのものを玉薬とよぶこともあります。 この内の玉ですが、ヤットコのような道具があり、挟む部分に溶けた鉛を流し込む玉型の空洞があり、ヤットコを閉じて、溶けた鉛を注ぎ口から空洞に流し込み、ある程度固まったらヤットコを開いて取り出し、鉄鍋の内部で転がしたり、木と木(一方は羽子板を小型にしたような物)の間で鉛玉を挟んで転がし、成形します。戦国時代の鉄砲放(はなち)・鉄砲足軽などは、この鉛玉作りのヤットコを持ち歩いて、戦場で拾い玉して溶かし、新たな玉を作ったとの記録が多く残っています。鉛は柔らかいために、撃つと変形しやすいことと、鉄砲は手作りのために、一丁ずつ口径が微妙に違うためとされています。籠城戦などで玉が不足すると石を用いたともされますが、原料の鉛さえあれば鉛は融点が400度以下なので、簡単に溶け、個人でも鉄砲玉を製造できました。 近世の城の屋根瓦などに鉛製の瓦があるのは、籠城時の鉄砲玉に利用するため(雪国では寒さのために焼物の瓦ではひび割れするとも)とも言われますが、瓦に利用できるほど鉛はあったことにもなります。 さて、玉薬ですが、これは三種の材料をよく粉砕し、微細な粉状にして混ぜ合わせれば完成します。この内、木炭は簡単に手に入る物ですので、除外します。 硫黄についてですが、江戸時代中期の享保期の新田開発の中の、町人請負新田の典型である紫雲寺潟新田の出願者である竹前兄弟は、御用硫黄商人で、幕府の硫黄購入の入札に成功し、1700両弱の収益を上げ、それを新田開発に利用しています。御用商人といっても独占したのではなく、入札により硫黄を幕府に納入したので、御用商人としていますが、排他的に納入を独占していたわけではなく、入札ですので竹前兄弟以外も、硫黄を商う商人がいたことになります。ところで、火打石で火を起す時に、火口(ほくち)と付け木を使いますが、火口はヨモギなどを蒸し焼きしたものを用いますが、これに、焔硝を混ぜると火付きが良いとされます。さらに、付け木は、檜・松などの薄木の先に、硫黄を塗ったものを用いています。このように民生用(武士も使いますが)にも、硫黄を用いることがあり、当然販売されていたものです。これは、鉛もそうですが、硫黄についても採掘については運上があり、課税されています。運上があることは基本的には販売されます。 さて、焔硝・硝石についてですが、玉薬で一番重要な材料で、鉱物としての硝石は日本では産出せず、戦国時代は主に輸入に頼っていたとされます。しかし、戦国時代から飛騨の五箇山などでは、ヨモギなどの植物に、カイコの糞や、小水などを原料として焔硝の製造がされています。製造された焔硝は、大坂の本願寺に送られています。また、後北条氏領国の下野国の尻内郷に、塩硝年貢の上納を命じた記録も残っており、早い段階で広範囲に製造が行なわれていたのではないかとする研究もあります。五箇山では、江戸時代に入って加賀藩が支配するようになっても、製造は続けられ、加賀の焔硝は国内最高級産とされていました。作られた焔硝は加賀藩に納められ、必要とする以外の焔硝は、御用商人によって藩外に販売されたとされています。幕府については、江戸町奉行所の職掌に、硝石会所見廻があり、与力1名、同心2名が市谷加賀町(市谷加賀屋敷)にあった硝石会所の見廻りにあたっていました。この硝石会所は、江戸近郊で製造(加賀屋敷で製造したとの史料もあります)した硝石が集荷される場所で、会所は鉄砲玉薬奉行が支配し、会所とあるので、商人も集り、取引するもしくは相場が立つ場所を言いますので、鉄砲玉薬奉行により管理されているとはいえ、硝石は流通していたものと思います。 ところで、幕末の弘化・嘉永に、堺の鉄砲薬商人が、武鑑に「御焔硝方」「玉薬方御用相勤候」と記載されていることについて、玉薬奉行の答弁書に、「玉薬方ニおいて取り候鉄砲薬之義、乍レ恐神租御伝法御秘事調合之品故、先年迚(とて)も、外向より調合薬御買上ニ可2相成1筋無2御座1候と被レ存候、右御報如レ此御座候」とあり、幕府玉薬奉行所では、外部より火薬を買っていないとしています。逆に言うと、外部に火薬商の存在があったことになります。これに対しての鉄砲薬商人の反論に、「永禄年中より当地に居住仕、鉄砲薬売買相始、」「(神君伊賀越えに伊)勢州白子迄供仕-略-鉄砲薬調合売弘之義蒙2御免1元和3年巳年より同業専ら出精いたし居候」とあり、永禄年中はともかく、幕初より、火薬商人が存在したことが分かります。火薬・硝石の使用は鉄砲だけでなく、花火も使用します。江戸時代も早くも17世紀末には線香花火が生まれており、さらに隅田川の川開きなどのような打ち上げ花火もこの時期です。これらの花火も火薬が原料ですので、火薬・硝石が販売されないと、花火は打ち上げられず商売にならないことになります。ともかく、下記に鉄砲の入手についても書きましたが、町人による鉄砲の販売も、鉄砲改に申請すれば認められていますので、鉄砲を扱う武器商人等により、火薬・焔硝・硫黄などは販売されていたものと思います。購入者の確認はされたでしょうが、逆に売手側にも地域の鉄砲所持許可者(鑑札を所持する者)はわかっていたでしょうから、猟師などの顔見知りの鉄砲所持許可者(鑑札所持者)に販売し、販売記録を正確に残すことを求められたものと考えられます。 ところで、一般でも鉄砲は売買されていて、幕府には鉄砲改という役職があり、鉄砲所持・使用に関しての申請・許可をする役職で、制度が整ってからは、大目付の内の1人が兼任するようになります。この鉄砲改方の、元禄13年8月の覚に、次のような文があります。 覚 一、浪人致2所持1候鉄砲 一、商売鉄砲 一、町人致2所持1候鉄砲 一、預り鉄砲 一、何者に而も、町中に居申候者之鉄砲 右玉目何程之筒、明細に書付、町年寄方江持参可レ仕候、若隠置、脇より相知候はば、可レ為2曲事1者也 『享保集成絲綸録』 商売鉄砲については、他の史料にも用例は多く、商売なので、所持者は当然町人で、武士以外でも売ることができました。 派生して、民間で鉄砲を所持できるのは、上記以外に、猟師鉄砲、質物鉄砲、用心(盗賊撃退用)鉄砲があります。また、預鉄砲はほとんどが貸渡し鉄砲で、大名・旗本・幕府などの代官から、鳥獣を防ぐために、農民などに期間を限って貸す(実質下賜のこともあり)鉄砲のことで、玉込鉄砲と威-おどし-鉄砲(実弾はなく空砲)があり、ほとんどは弾薬が下賜されるようです。貸与であっても鉄砲改への手続きが必要でした。なお、用心鉄砲についても大名などからの貸与の例があります。 ところで、鉄砲運上(金)というのがあって、これは山猟免許税のことで、狩猟を生業とする猟師鉄砲と、害獣駆除のための威鉄砲に区別し、猟師鉄砲については多少重い運上になっています。 鉄砲の所持の由来による分類ですが、1相続、2買入、3、貸与・下賜となります。 玉薬の入手経路ですが、大名などからの下賜、買入ですが、自家製という方法もあったようです。明治期になりますが、秩父困民党事件の時に、困民党側は、江戸時代以来の方法で硝石を生産し、これで火薬を作って蜂起したとされています。秩父地方は江戸時代以来の硝石生産地であることも背景にあるわけですが、硝石・玉薬の簡単な作り方につては、江戸時代の書籍に書いてある例も多く、また、古い家や寺院の床下や、便所には硝石が自然生成することについても記載され、焔硝・火薬を自家製することもできたと考えられます。 さて、話は変わって火薬・硝石の保存ですが、焔硝(塩硝)蔵というものがあります。江戸幕府は、江戸の千駄ヶ谷と杉並区の和泉(明大和泉キャンバスは跡地)にあり、さらに大坂城・京都二条城にもあり、甲府城にもありました。 火薬は湿気に弱く、太陽光線浴びたり、経年による変化が少ないという点があります。また、火気や静電気、落雷などにより一瞬にして爆発するなど、扱いが難しい面があります。 大坂城の焔硝蔵については現存するものがあり、詳細は『江戸幕府大事典』のP585を御覧いただければと思いますが、石造瓦葺で、本来は蔵の両脇は盛り土して土に埋められたような状態であったとされます。火薬は湿気に弱いと書きましたが、湿気を帯びると爆発しなくなる場合もありますが、再度乾燥させると元の爆発力を取り戻すことができます。 読み込んでいない史料も残っているのですが、年末で仕事が忙しいので、一応の範囲で失礼します。
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- Kittynote
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『日本財政経済史料 巻八』によりますと、 関八州(御領私領寺社領共)と地域限定ではありますが、 下記の享保八(※1723)年三月の御触から、 合藥(※玉薬・鉄砲薬)、焔硝(※塩硝)類を扱う商人が存在したこと、 当該御触以前には隠鉄砲所持者にも販売していたこと、 当該御触以降は百姓・猟師も害獣駆除、猟師の狩稼など正当な事由があれば 住所・売買高を帳面に記し置くことで合藥ならびに焔硝の類を購入すること が出来たことなどの事実が浮かびます。 ・『日本財政經濟史料 卷八/大蔵省編/財政經濟學會/大正12.2』 ○「經濟之部五/第四、雜業 一一、漁獵取締」 <267・268/764>(477・478頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925956/267 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925956/268 ◇享保八(※1723)年癸卯三月 一、鐵炮之儀に付關八州へ御觸之事 …(中略)…【新選憲法秘錄八】 また、下記の享保十二年四月の関八州に対する申渡では、 「猪、鹿、狼荒候山方は、自分願次第鐵炮何挺成共可(L)被(=)指免(-)候間」 との内容から害獣駆除に対する鉄砲の規制緩和が見て取れます。 ・『日本財政經濟史料 卷六/大蔵省編/財政經濟學會/大正11.12』 ○「經濟之部第三/第五、農政 二、勸農法」 <521/601>(989頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925954/521 ◇享保十二年丁未四月 …(中略)…【公儀被仰渡留帳八 令書要文十、十一】 厳密には、関八州の内、江戸十里四方、幕府鷹場(御挙場)、捉飼場など区別し て規制の強弱も有ったようですが、享保期前後は、近世前期の耕地開発に伴い 人が獣類の生息環境を脅かした結果、従来にもまして獣類が作物を喰い荒らす ようになり、人対獣類の闘いが激化した時期にあたり、鉄砲に厳しい関八州で すら、規制緩和に踏み切らざる得なかった様子から、関八州以外の幕領・藩領 も同様に規制緩和の方向にあったものと考えられます。 次は「村入用」関連からのアプローチ。 下記「<5/19>第1表 猪鹿防止のための諸費用(柏原山分)」の表中には 1804(文化1)~1833(天保4)の間(欠落年有り)の年毎の「火薬 玉薬(文)」の 費用総額が記されていて、目安にはなりますがハッキリしません。 ○「飯田市における獣害対策の諸問題 -駆除死体の処理方法に着目して-/橋本操・碓井達哉・劉珂」(163–181頁) ・『地域研究年報(35号)/筑波大学人文地理学・地誌学研究会/2013-02-28』 http://hdl.handle.net/2241/119558 続いて、同じく長野県下『長岡村入用帳』の享和二(1802)年の事例では、 「鉄砲玉四〇〇/二貫三八〇文」「鉄砲薬拾斤/四貫文」とあり、 猟師に対する給金・扶持米に比べると、思いの外、安価に感じられます。 一度の狩猟に使うのは数発程度とも言われますからこんなものなのでしょう。 ・長野県上伊那郡箕輪町>暮らしの便利帳>文化・スポーツ>図書館> ○箕輪町誌歴史編 http://www.town.minowa.nagano.jp/lib/lib0001_2.html http://www1.town.minowa.nagano.jp/html/pageview_rekishi/pageview.html#page_num=1004 箕輪町誌歴史編/第三編 近世 第十一章 災害・治水 第六節 猪害 (1004-1007頁) 四 猪打ち費用 表3・127 猪打ち費用 (『長岡村入用帳』『信州伊那郡南小河内村丑ノ正月ヨリ極月迄村入用帳』 信州伊那郡福与村『村入用小前割割賦帳』より) ここまで僅かの断片情報ではありますが、どうやら江戸中・後期においては、 農民・猟師などは玉薬(鉄砲薬・火薬)とか焔硝の類を購入可能で、 また鉛玉などの鉛は銃のみに特化した物でもありませんから、玉薬や焔硝より 容易く購入可能だったように思います。 では「農民が鉄砲の火薬と弾丸を入手するには」火薬と弾丸の購入以外方法が なかったかとなりますと、害獣駆除目的などでは村側から願い出ることで鉄砲 貸与と共に火薬支給あるいは何れかのみ藩からの援助の場合もあったようです。 例えば『加賀藩史料 第八編』安永年間(1772-1781)以降、江戸後期・幕末に かけて害獣駆除目的の鉄砲貸与・火薬支給事例が散見されます。 あと、火薬調合は秘伝、秘中の秘などの記述が多数散見されますが、 数百の流派が有ったこと自体、既に秘伝でもなんでもないように思います。 下記では1559(永禄2)年2月、室町将軍足利義輝が越後の上杉氏に贈った 「鉄放薬方並調合次第」(上杉家文書)には「銃身の長さ、玉目(玉の重さ)、 その日の天候、その日の湿度、昼夜の別、軍用と狩猟の別など、さまざまな条 件を考えて、火薬原料の成分の比率を微妙に変える必要があった。火薬を調合 する正しい知識がなければ、鉄炮を効率的につかうことはできなかった。」と の内容のようで、これが本来の有るべき姿なのでしょう。 また各地に鉄炮の用法に熟練した炮術師とよばれる武芸者が輩出、 かれらは諸国を転々としながら炮術を教え、伝書を発行して伝授料をえて、 これを生活の糧としたことで、多数の流派を生み出たのでしょう。 ・歴史系総合誌「歴博」第108号 連載「歴史の証人-写真による収蔵品紹介-」/炮術伝書は時代の鏡 https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/108/witness.html なお、例えば中国・明代の兵書『武備志/茅元儀/(1621<天啓1>年成立)』中の 「製火薬方」には、火薬調合比が記されていて、『世界大百科事典第2版』に よれば、1664(寛文4)年刊の和刻本も存在するとのこと。 下記は1792(寛政4)年版訓点本ではありますが参考まで。 『武備志.序総目,巻目,1-240/茅元儀輯;鵜子直訓点/大阪:賭春堂,寛政4[1792]』 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ke05/ke05_00061/index.html >請求記号:ケ05_00061 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ke05/ke05_00061/ >43 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ke05/ke05_00061/ke05_00061_0043/ke05_00061_0043.pdf ><11/49>(10丁表=左頁) また、例えば、江戸中期の成立とされる『安斉随筆/伊勢貞丈』には塩硝作成 の概略や鉄砲の取扱ノウハウなども記されています。 ・『故実叢書.安斉随筆 自二十九至三十二(伊勢貞丈)/今泉定介編/ 吉川弘文館/明治32-39』 ○「安齋随筆卷之三十一」 鹽焇に鹽氣あるは惡し <28/49>(968頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771904/28 ・『故実叢書.安斉随筆自四至六(伊勢貞丈)/今泉定介編/吉川弘文館/明治33.3』 ○「安齋随筆卷之四」 鹽硝 鐵炮玉込澁る ほか <6・7/58>(113・114頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771896/6 下記ブログ記事では、天明年間(1781~1789)、出稼ぎ百姓が焔硝製造なんて 事例もあった様子が伺えます。 ・日暮れ道 遥か…>焔硝 (2) http://brit890.blog.fc2.com/blog-entry-1296.html これならば「火薬と弾丸の購入」「藩からの支給」以外にも、 塩硝、火薬の性能の善し悪しは当然有るとしても、時期・地域によっては、 原材料さえ揃えば塩硝、火薬・鉛玉共に自作も十分有り得たように思います。 ただ「鉄砲玉四〇〇/二貫三八〇文」「鉄砲薬拾斤/四貫文」ならば 購入の方が楽とは言えそうですが… 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
詳しいご回答真にありがとうございます。 よく解りました。 とにかく私が想像していた状況とは大いに違っていました。 火薬や鉄砲玉という物騒な物を他国の民に売り歩く商いがあったとは驚きです。 関所改めもあったはずですが、鉄砲や火薬は藩にとってはそんなに脅威ではなかったということになります。 そんな脅威よりも作物を食い荒らす害獣除去の方が大事だったということがよく分かりました。 村の費用の7割近くも獣害対策に向けねばならない年があった、という資料を見れば、獣害対策がいかに大変で、費用がかかったのか、よく分かります。 猟師がいない村では猟師を雇ったりしていますね。 猟師に支払った給金、扶持米、仕留めた猪・鹿の褒美まで書いてあります。 ある例では、猪8百文、鹿6百文で猪の方が褒美が多いです。 「地方史」の面白いところですね。具体的です。 紹介されたブログ「日暮れ道 遥か…」は大変参考になりました。 天明年間、百姓の中に,「焔硝煮」という商売をしている者がいて,地元だけではなく遠く他国の方にまで仕事に出向いていたが、その他国の村にも同業者がいて面倒なことになったという話から、古い家の床下の土から硝石を作るという技術がひろく行き渡っていたということも意外でした。 「火薬の製法は秘法」という先入観を持っていましたから。 これも具体的で、地方史ならではの面白さですね。 「飯田市における獣害対策の諸問題-駆除死体の処理方法に着目して-」の例では 「狩猟で扱う銃に関して,当時は村内に鉄砲鍛冶がおり,鉄砲の修理や販売が行われていた。しかし鉄砲の改造-販売を勝手に行う事は許されていなかった。」とあります。 終戦直後のことですが、ごく近くに「しばしも休まず 鎚打つ響き」の鍛冶屋がありました。 伊奈の片田舎に「鉄砲鍛冶」が居たとは驚きですが、よく考えてみれば、そんな山村こそ鉄砲が必要だったということですね。 「農民や猟師は、どのようなルートで火薬や玉を入手していたのですか」という質問でしたが、結論としては、おそらく全国隅々まで販売ルートがあったから、容易に入手できたと思います。 また、自家製できる猟師や農民もいた、ということで納得しました。 今のところ、まだ全ての参考URLを深く読んではいませんが、歴史を楽しむことができました。 質問した甲斐がありました。 ご教示に感謝申し上げます。
- takuranke
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江戸時代において農民(村単位)の火縄銃の保有はかなり高く、害鳥獣の駆除用に代官から借受していたこともあったようです。 時代的にはいつごろからかなのかはわかりませんが、普及した頃から約1200文で販売されていました。 ちなみに銃規制はありましたが、綱吉の死後、幕府は規制の熱意がうせたようで、銃規制の制度(登録等)はあったものの、幕末の動乱期までは形骸化した制度だったようです。 私は未見ですが 「鉄砲を手放さなかった百姓たち 刀狩りから幕末まで(朝日新聞出版 ISBN 978-4022599681 武井弘一」と言う本があります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 質問する前にいろいろネットで調べました。 私もその本は読んでいませんが、福岡県弁護士会のHPでこの本が紹介されています。 鉄砲そのものではなく、火薬とタマをいかに入手できたのか、疑問がありました。
- kagakusuki
- ベストアンサー率51% (2610/5101)
江戸時代の平民の鉄砲入手ルートは研究があまり進んでおらず、良く解っていない様です。 只、平民が鉄砲を所有する事が出来るのは猟師用の鉄砲と鳥獣害対策用の鉄砲(空砲発射の威し鉄砲)に限って少数が認められていただけであり、しかもその全ては領主側に登録・把握されている物ばかりで、許可無く鉄砲を所持していた場合には「隠し鉄砲」として処罰の対象とされていたようです。 【参考URL】 幕末瀬戸内農村における鉄砲売買の実態と特質 ─ 広島藩領安芸国賀茂郡黒瀬組の「鉄炮商事」を事例として─ http://www.econo.chukyo-u.ac.jp/academicInfo/cerPdf/cer13_04.pdf 弾丸は鉄の様な加工し難い素材で出来ていた訳ではなく、鉛製の単なる球形の物でしたから、鉄砲の所有者などが、購入した鉛を鉄鍋などに入れて火にかけて溶かし、「玉型」という鋏(やっとこ)の先の挟み込む面に半球型の窪みがある様な形をした型を使って鉛の球を作った後、ヤスリで整形して作ります。 【参考URL】 松本城鉄砲蔵――鉄砲と戦国時代―― http://npo-alsa.com/refer/teppo.pdf 当時の鉄砲に使用されていた火薬は黒色火薬であり、黒色火薬は硝石(主成分は硝酸カリウム)60~80%、硫黄10~20%、木炭10~20%の割合でそれぞれの原料を用意し、それを「薬研(やげん)」(漢方薬の原料を粉末にする際などに使用される粉砕用の道具)などを使って粉末にして混ぜ合わせる事で作られます。 【参考URL】 黒色火薬 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%89%B2%E7%81%AB%E8%96%AC 薬研 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E7%A0%94 日本には火山が多いため硫黄は豊富に存在していましたし、木炭は生活必需品として流通していましたから、この2つに関しては入手が比較的容易だったのではないかと思います。 一方、硝石に関しては日本では天然に算出する事はありませんので、中国やインドなどを始めとする海外で産出ないし製造された硝石を輸入したものが主だったようです。 【参考URL】 硝石 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%9D%E7%9F%B3 但し、一部には「古士法」や「培養法」によって人工的に造られた硝石が使われる事もありました。 元々、硝石は海鳥や蝙蝠などの営巣地でその糞が長年に亘って蓄積して層となったものに含まれている窒素化合物が、微生物の働きで硝酸塩に変わったものです。 古い住居の床下の土の表面には、人やネズミの糞尿や汗などに含まれていたアンモニア等の窒素化合物が、土中の微生物の働きによって硝酸塩となったものが含まれているため、その表土のみを掻き集めて、水を使って硝酸塩のみを抽出し、乾燥させる事で硝石を得る事が出来、これを「古士法」と言います。 一方、「培養法」とは、腐った魚のはらわたや糞尿等の「臭き物」、即ち、アンモニア等の窒素化合物を含んだものと、木灰(主成分は炭酸カリウムやカリウムの酸化物)、それに土(微生物が含まれている)を交互に層状に積み上げて発酵させると、「臭き物」に含まれていた窒素化合物が土中の微生物の働きで硝酸塩となり、それが灰の中のカリウム分と反応して硝酸カリウムとなるので、それを水で抽出する等といった方法で取り出して乾燥させる事で硝石を作る方法です。 【参考URL】 加賀藩の火薬 1.塩硝及び硫黄の生産 http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/7422/1/AA11430153-33-itagaki.pdf 火薬の原理 https://pub.nikkan.co.jp/uploads/book/pdf_file51f62d2f24245.pdf
お礼
ご回答ありがとうございます。 鉄砲が登録制であるから火薬や玉は、藩の役人から村役を通して農民に与えた(売った)と想像していました。 「隠し鉄砲」に目を光らせていたのであれば、火薬や玉の流通を管理したのだろうと想像していました。 玉の材料は鉛だと思いますが、鉛もある程度の量をまとめて藩が一括購入していたのでは、と想像していました。 山奥・谷奥の村々にも1挺、2挺の鉄砲があったそうですから、個人で火薬やタマを作ったり、買ったりすることは困難だと思って質問しました。 参考URLの広島藩の「鉄炮商事」の例は鉄砲の売買ですが、当然、火薬も玉も扱ったと思います。 幕末の様子は分かりました。
- cayenne2003
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DIY出来ますよ。 当時の火薬の原料は硝石です、硝石の作り方はググればすぐに分かります。 当時の日本では材料が身近にあるので作りやすいのでしょうね。 玉は鉄です、粗鉄で十分です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 硝石の作り方は秘密で、専門とする作業者(農民)だけに受け継がれてきたのでは、と思っていました。
- Zephir_rihpeZ
- ベストアンサー率71% (385/536)
Wikipedia情報ですが、 農村には火縄銃は鳥獣被害対策のための実用の農具として普及していたそうです。売買もされていたそうです。 なので、入手の困難さはわかりませんが、手には入ったようです。 護身用ではないので数年在庫するようなものではないと思われます。 それと、マタギの資料とか読むと、弾は自前で作っていた、なんていう記述もあります(明治期以降の資料ですが)。
お礼
ご回答ありがとうございます。 マタギには、そんな技術が継承されていたのですね。 参考になりました。
お礼
詳しいご回答真にありがとうございます。 よく解りました。 日本の村々には、山奥や谷奥の小さな村に至るまで、いわゆる「在村鉄砲」があったようです。 検索すると具体的な村名と鉄砲数を示した資料が多数出てきます。 合わせるとおそらく数万あったと想像しています。 玉も火薬も消耗品ですから、いったいどんなルートで山奥の隅々まで供給されていたのだろうか、想像していました。 それぞれの村の鉄砲の口径に合わせてピタリの玉を供給するのは、極めて難しいはずだと思っていました。 また、火薬を爆発させる度に銃身内部は少しずつ傷むので、使うに連れて玉の直径はそれに合わせていかねばならないそうです。 「原料の鉛さえあれば鉛は融点が400度以下なので、簡単に溶け、個人でも鉄砲玉を製造できました。」ということですね。 玉は、同じ匁であっても、なぜ径の異なる物がいろいろあるのか、疑問でしたが、よく分かりました。 また、硝石・玉薬に関して 「硝石・玉薬の簡単な作り方につては、江戸時代の書籍に書いてある例も多く、また、古い家や寺院の床下や、便所には硝石が自然生成することについても記載され、焔硝・火薬を自家製することもできたと考えられます。」 ということで、自家製であることに納得しました。 多分、何人か集まって共同作業したのでしょう。 すると問題は、鉛を入手できたか、です。 「近世の城の屋根瓦などに鉛製の瓦があるのは、籠城時の鉄砲玉に利用するため(雪国では寒さのために焼物の瓦ではひび割れするとも)とも言われますが、瓦に利用できるほど鉛はあったことにもなります。」 なるほど! 瓦にするほど鉛があったのですね。 私は、戦国時代の長篠城や設楽原の戦いで使われた玉(鉛)を分析すると、国内のものもあったが、中国や朝鮮、遠くはタイの鉱山で産出されたものが含まれていた、ということから、鉛は入手しがたい貴重なものと思っていました。 泰平の世になると玉の需要も減って、鉛も産出する藩の特産品として、全国に流通したのでしょう。 「町人による鉄砲の販売も、鉄砲改に申請すれば認められていますので、鉄砲を扱う武器商人等により、火薬・焔硝・硫黄などは販売されていたものと思います。」ということで、「鉛」も同様に流通したのでしょう。 だからこそ、玉薬も自家製できたということになります。 私は、「隠し鉄砲」を厳しく摘発したのだから、火薬も玉も藩が管理して、必要とする領民に供給したのだろうと、想像していました。 そんな藩もあったかも知れませんが、武器商人による販売ルートが主だったということですね。 民間は、商いが上手いですね。 いろいろ想像して歴史を楽しむことができました。 ご教示に感謝申し上げます。