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火縄銃の玉は鉛、火薬は玉薬(鉄砲玉を含めて玉薬とも言います)とも言われ、硝石(焔硝・塩硝)、木炭、硫黄を原料とし、黒色火薬のことです。ただ、硝石だけでなく、火薬そのものを玉薬とよぶこともあります。
この内の玉ですが、ヤットコのような道具があり、挟む部分に溶けた鉛を流し込む玉型の空洞があり、ヤットコを閉じて、溶けた鉛を注ぎ口から空洞に流し込み、ある程度固まったらヤットコを開いて取り出し、鉄鍋の内部で転がしたり、木と木(一方は羽子板を小型にしたような物)の間で鉛玉を挟んで転がし、成形します。戦国時代の鉄砲放(はなち)・鉄砲足軽などは、この鉛玉作りのヤットコを持ち歩いて、戦場で拾い玉して溶かし、新たな玉を作ったとの記録が多く残っています。鉛は柔らかいために、撃つと変形しやすいことと、鉄砲は手作りのために、一丁ずつ口径が微妙に違うためとされています。籠城戦などで玉が不足すると石を用いたともされますが、原料の鉛さえあれば鉛は融点が400度以下なので、簡単に溶け、個人でも鉄砲玉を製造できました。
近世の城の屋根瓦などに鉛製の瓦があるのは、籠城時の鉄砲玉に利用するため(雪国では寒さのために焼物の瓦ではひび割れするとも)とも言われますが、瓦に利用できるほど鉛はあったことにもなります。
さて、玉薬ですが、これは三種の材料をよく粉砕し、微細な粉状にして混ぜ合わせれば完成します。この内、木炭は簡単に手に入る物ですので、除外します。
硫黄についてですが、江戸時代中期の享保期の新田開発の中の、町人請負新田の典型である紫雲寺潟新田の出願者である竹前兄弟は、御用硫黄商人で、幕府の硫黄購入の入札に成功し、1700両弱の収益を上げ、それを新田開発に利用しています。御用商人といっても独占したのではなく、入札により硫黄を幕府に納入したので、御用商人としていますが、排他的に納入を独占していたわけではなく、入札ですので竹前兄弟以外も、硫黄を商う商人がいたことになります。ところで、火打石で火を起す時に、火口(ほくち)と付け木を使いますが、火口はヨモギなどを蒸し焼きしたものを用いますが、これに、焔硝を混ぜると火付きが良いとされます。さらに、付け木は、檜・松などの薄木の先に、硫黄を塗ったものを用いています。このように民生用(武士も使いますが)にも、硫黄を用いることがあり、当然販売されていたものです。これは、鉛もそうですが、硫黄についても採掘については運上があり、課税されています。運上があることは基本的には販売されます。
さて、焔硝・硝石についてですが、玉薬で一番重要な材料で、鉱物としての硝石は日本では産出せず、戦国時代は主に輸入に頼っていたとされます。しかし、戦国時代から飛騨の五箇山などでは、ヨモギなどの植物に、カイコの糞や、小水などを原料として焔硝の製造がされています。製造された焔硝は、大坂の本願寺に送られています。また、後北条氏領国の下野国の尻内郷に、塩硝年貢の上納を命じた記録も残っており、早い段階で広範囲に製造が行なわれていたのではないかとする研究もあります。五箇山では、江戸時代に入って加賀藩が支配するようになっても、製造は続けられ、加賀の焔硝は国内最高級産とされていました。作られた焔硝は加賀藩に納められ、必要とする以外の焔硝は、御用商人によって藩外に販売されたとされています。幕府については、江戸町奉行所の職掌に、硝石会所見廻があり、与力1名、同心2名が市谷加賀町(市谷加賀屋敷)にあった硝石会所の見廻りにあたっていました。この硝石会所は、江戸近郊で製造(加賀屋敷で製造したとの史料もあります)した硝石が集荷される場所で、会所は鉄砲玉薬奉行が支配し、会所とあるので、商人も集り、取引するもしくは相場が立つ場所を言いますので、鉄砲玉薬奉行により管理されているとはいえ、硝石は流通していたものと思います。
ところで、幕末の弘化・嘉永に、堺の鉄砲薬商人が、武鑑に「御焔硝方」「玉薬方御用相勤候」と記載されていることについて、玉薬奉行の答弁書に、「玉薬方ニおいて取り候鉄砲薬之義、乍レ恐神租御伝法御秘事調合之品故、先年迚(とて)も、外向より調合薬御買上ニ可2相成1筋無2御座1候と被レ存候、右御報如レ此御座候」とあり、幕府玉薬奉行所では、外部より火薬を買っていないとしています。逆に言うと、外部に火薬商の存在があったことになります。これに対しての鉄砲薬商人の反論に、「永禄年中より当地に居住仕、鉄砲薬売買相始、」「(神君伊賀越えに伊)勢州白子迄供仕-略-鉄砲薬調合売弘之義蒙2御免1元和3年巳年より同業専ら出精いたし居候」とあり、永禄年中はともかく、幕初より、火薬商人が存在したことが分かります。火薬・硝石の使用は鉄砲だけでなく、花火も使用します。江戸時代も早くも17世紀末には線香花火が生まれており、さらに隅田川の川開きなどのような打ち上げ花火もこの時期です。これらの花火も火薬が原料ですので、火薬・硝石が販売されないと、花火は打ち上げられず商売にならないことになります。ともかく、下記に鉄砲の入手についても書きましたが、町人による鉄砲の販売も、鉄砲改に申請すれば認められていますので、鉄砲を扱う武器商人等により、火薬・焔硝・硫黄などは販売されていたものと思います。購入者の確認はされたでしょうが、逆に売手側にも地域の鉄砲所持許可者(鑑札を所持する者)はわかっていたでしょうから、猟師などの顔見知りの鉄砲所持許可者(鑑札所持者)に販売し、販売記録を正確に残すことを求められたものと考えられます。
ところで、一般でも鉄砲は売買されていて、幕府には鉄砲改という役職があり、鉄砲所持・使用に関しての申請・許可をする役職で、制度が整ってからは、大目付の内の1人が兼任するようになります。この鉄砲改方の、元禄13年8月の覚に、次のような文があります。
覚
一、浪人致2所持1候鉄砲 一、商売鉄砲 一、町人致2所持1候鉄砲 一、預り鉄砲 一、何者に而も、町中に居申候者之鉄砲
右玉目何程之筒、明細に書付、町年寄方江持参可レ仕候、若隠置、脇より相知候はば、可レ為2曲事1者也 『享保集成絲綸録』
商売鉄砲については、他の史料にも用例は多く、商売なので、所持者は当然町人で、武士以外でも売ることができました。
派生して、民間で鉄砲を所持できるのは、上記以外に、猟師鉄砲、質物鉄砲、用心(盗賊撃退用)鉄砲があります。また、預鉄砲はほとんどが貸渡し鉄砲で、大名・旗本・幕府などの代官から、鳥獣を防ぐために、農民などに期間を限って貸す(実質下賜のこともあり)鉄砲のことで、玉込鉄砲と威-おどし-鉄砲(実弾はなく空砲)があり、ほとんどは弾薬が下賜されるようです。貸与であっても鉄砲改への手続きが必要でした。なお、用心鉄砲についても大名などからの貸与の例があります。
ところで、鉄砲運上(金)というのがあって、これは山猟免許税のことで、狩猟を生業とする猟師鉄砲と、害獣駆除のための威鉄砲に区別し、猟師鉄砲については多少重い運上になっています。
鉄砲の所持の由来による分類ですが、1相続、2買入、3、貸与・下賜となります。
玉薬の入手経路ですが、大名などからの下賜、買入ですが、自家製という方法もあったようです。明治期になりますが、秩父困民党事件の時に、困民党側は、江戸時代以来の方法で硝石を生産し、これで火薬を作って蜂起したとされています。秩父地方は江戸時代以来の硝石生産地であることも背景にあるわけですが、硝石・玉薬の簡単な作り方につては、江戸時代の書籍に書いてある例も多く、また、古い家や寺院の床下や、便所には硝石が自然生成することについても記載され、焔硝・火薬を自家製することもできたと考えられます。
さて、話は変わって火薬・硝石の保存ですが、焔硝(塩硝)蔵というものがあります。江戸幕府は、江戸の千駄ヶ谷と杉並区の和泉(明大和泉キャンバスは跡地)にあり、さらに大坂城・京都二条城にもあり、甲府城にもありました。
火薬は湿気に弱く、太陽光線浴びたり、経年による変化が少ないという点があります。また、火気や静電気、落雷などにより一瞬にして爆発するなど、扱いが難しい面があります。
大坂城の焔硝蔵については現存するものがあり、詳細は『江戸幕府大事典』のP585を御覧いただければと思いますが、石造瓦葺で、本来は蔵の両脇は盛り土して土に埋められたような状態であったとされます。火薬は湿気に弱いと書きましたが、湿気を帯びると爆発しなくなる場合もありますが、再度乾燥させると元の爆発力を取り戻すことができます。
読み込んでいない史料も残っているのですが、年末で仕事が忙しいので、一応の範囲で失礼します。
お礼
詳しいご回答真にありがとうございます。 よく解りました。 日本の村々には、山奥や谷奥の小さな村に至るまで、いわゆる「在村鉄砲」があったようです。 検索すると具体的な村名と鉄砲数を示した資料が多数出てきます。 合わせるとおそらく数万あったと想像しています。 玉も火薬も消耗品ですから、いったいどんなルートで山奥の隅々まで供給されていたのだろうか、想像していました。 それぞれの村の鉄砲の口径に合わせてピタリの玉を供給するのは、極めて難しいはずだと思っていました。 また、火薬を爆発させる度に銃身内部は少しずつ傷むので、使うに連れて玉の直径はそれに合わせていかねばならないそうです。 「原料の鉛さえあれば鉛は融点が400度以下なので、簡単に溶け、個人でも鉄砲玉を製造できました。」ということですね。 玉は、同じ匁であっても、なぜ径の異なる物がいろいろあるのか、疑問でしたが、よく分かりました。 また、硝石・玉薬に関して 「硝石・玉薬の簡単な作り方につては、江戸時代の書籍に書いてある例も多く、また、古い家や寺院の床下や、便所には硝石が自然生成することについても記載され、焔硝・火薬を自家製することもできたと考えられます。」 ということで、自家製であることに納得しました。 多分、何人か集まって共同作業したのでしょう。 すると問題は、鉛を入手できたか、です。 「近世の城の屋根瓦などに鉛製の瓦があるのは、籠城時の鉄砲玉に利用するため(雪国では寒さのために焼物の瓦ではひび割れするとも)とも言われますが、瓦に利用できるほど鉛はあったことにもなります。」 なるほど! 瓦にするほど鉛があったのですね。 私は、戦国時代の長篠城や設楽原の戦いで使われた玉(鉛)を分析すると、国内のものもあったが、中国や朝鮮、遠くはタイの鉱山で産出されたものが含まれていた、ということから、鉛は入手しがたい貴重なものと思っていました。 泰平の世になると玉の需要も減って、鉛も産出する藩の特産品として、全国に流通したのでしょう。 「町人による鉄砲の販売も、鉄砲改に申請すれば認められていますので、鉄砲を扱う武器商人等により、火薬・焔硝・硫黄などは販売されていたものと思います。」ということで、「鉛」も同様に流通したのでしょう。 だからこそ、玉薬も自家製できたということになります。 私は、「隠し鉄砲」を厳しく摘発したのだから、火薬も玉も藩が管理して、必要とする領民に供給したのだろうと、想像していました。 そんな藩もあったかも知れませんが、武器商人による販売ルートが主だったということですね。 民間は、商いが上手いですね。 いろいろ想像して歴史を楽しむことができました。 ご教示に感謝申し上げます。