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江戸時代の農民
江戸時代の平均的な農民は、年に何回くらいお米のご飯を食べる事が出来たのでしょうか? イメージでは盆と正月以外は食べられず、普段は粟・稗が気持ち程度に入った雑炊で餓えを凌いでいた感じなのですが、これは時代劇の観過ぎでしょうか?
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郷土史が好きな者です。 私が生まれた村を調べていますが、江戸時代はホンネとタテマエに物凄い差があった時代と感じています。 つまり市町村史などに記してある「公式記録」はタテマエであつて、ホンネとは随分かけ離れていると感じています。 私の村は村高250石、年貢200石(税率8割)という恐ろしい記録になっていますが、実生産量は少なくとも1000石はあったと推定されます(夏作のみで)。更に綿なども多く作っていたので実際の税率は10~15%だったでしょう。 米は常食だったと思います。いや農民は米相場を見ながら少しでも有利な売り方をしていたようです。 このことは全国的にそして全村人が普遍的にそうではなかったとは思いますが、毎日ヒエやアワばかり食べていたというのは米作に適さない地域でのことで、一般的には米が常食だったと思います。もしヒエやアワが主食なのでしたら稲田よりはるかに広いアワ畑が必要だったでしょうから。 私の村で記録と実際になぜ4倍もの差ができたのか理由は定かでありませんが、帳面に記された田畑の面積は実面積のほぼ半分しかありません。更に石盛が他村の半分ほどしかなく併せて4倍の差を生じています。
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- yuhkoh
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TVや映画の時代劇というのは“ちょんまげや侍の姿をして、過去を舞台とした「現代劇」”だと思えばいいでしょう。そこに歴史的リアリティーというものは追求されませんから(実は歌舞伎も同じで『仮名手本忠臣蔵』などは、赤穂事件を主題としながらも、舞台は鎌倉時代という、当時としたら「過去を舞台とした現代劇」であったのです)。 あと、大きな誤解は江戸の生活の情報が目に付きやすいから、江戸の生活、つまり大都市で暮らす武士・職人・商人の生活が「平均的な江戸時代の生活」と考えることです。しかしそれは日本全体からすればごく一部であり、人口の8割を占めた農民層の生活こそが、「平均的な江戸期の日本人の生活」です。それと農民というと現在では「農業従事者」と考えますが、当時は武士・職人・商人以外の一般階層というぐらいの意味です。 ですから、「江戸では毎日のように白米を食べていた」のは当時ではごく一部で行われていた食生活です。また籾のほうが長期保存が可能ですが、そうなると常時、白米食をするためには精米するために時間と労力が取られます。であれば日々の食事は白米よりも玄米に比重がかかるでしょう。さらには米は現金収入を得るための貴重な商品でもあるため、家で大量に消費するという無駄なことはしません(副食が少ないので飯で腹を膨らませるという食生活です)。そうなれば雑穀を混ぜて飯の量を増やすのも合理的な判断です。 「日本人は白米を主食としていた」というのも最近になって生まれた、いわゆる「作られた古典」です。その感覚で捉えるので、「農民は米を食べていなかった」と誤解するのでしょう。
お礼
御回答ありがとうございます。 確かに時代劇にリアリティはないですよね。時代考証が雑というか話の筋の為に無視して作られていますよね。 やはり雑穀を混ぜて量を増やしていたのが通常だったのでしょうか。 精米の時間と労力は考えていませんでした。今のような、自動精米機があるわけではないですし、白米にするのも結構な苦労だったのでしょうね。
- m-jiro
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#3のお礼の中でのご質問について >もしかしたら250石というのは太閤検地くらいの話で、1000石というのは生産性が向上した江戸後期くらいの生産量なのでしょうか? 小生の生まれた村は江戸初期で160余石(この数値が幕末まで「村高」として公称されている)、幕末では新田高を加えて250石ほどです。 面積あたりの生産性が時代と共に向上しているはずですが、公称の村高は変わっていません。増加した新田の面積あたりの生産量は古田のそれほぼ同じになっています。 このあたりも大きな疑問で、これからも調べます。 この件については小生の疑問点も含め色々と書かせていただきました。ありがとうございました。 これからも御教授をお願いします。 なお、小生が書きましたことは幕末(文政頃以降)のことです。
お礼
何度もありがとうございます。 藩の役人もバカではないでしょうから、生産性の向上や新田開発等で実高は公称よりずっと多い事は分かってたんじゃないかと思うのですが、どうしてあまり検地を行わなかったのか不思議です。
- m-jiro
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#3です。少し訂正です。白米が常食だったと書きましたが、米は年貢と売却を優先していたと思われ、商品価値の低い麦を多く食べていたようです。ただ当地では雑穀はほぼ食べていなかったように思われます。(記録に出てきません) 小作は割が悪いのですが、想像している程ではなかったように思われます。古記録を十分解析していないのですが、小作料は年間合計生産量の3割程度ではなかったかと思います。その半分程度が年貢で、これは地主が小作料の中から払います。 私も農民の生活がどうだったのか興味があり、古記録などを調べていますが、少し面白いことに気づきました。 村高を村人の数で割って「一人あたりの村高」を求めます。すると当地方の多くの村では8斗程度にしかなりません。(最小約5斗、最大約3石) 当時は食糧として1石必要でした。年貢は納米量を人数で割るとほぼどの村でも5斗程度になります。さらに最小限の出費が5斗必要とすると人間一人が生きるためには約2石の収入がなくてはなりません。(この2石という数値は全国どの村でもほぼ差がなかったでしょう) つまり村のようすが記録の通りであれば生きていけるはずがないのです。記録はウソと言わざるをえないのです。 さらに「一人あたりの村高」が少ない村ほど免(税率)が高い傾向にあるようです。 一人あたりの村高が5斗---免8割 同1石前後--4~5割 同2石前後--2~3割 といった具合です。 2石の村の記録はほぼ実態に合っていると考えられます。 5斗の村(私の村)は4倍作為しています。とすると1石の村は2倍作為していた???ことになります。 これを裏付けるのに史料を集めていますが、いい史料がなくて苦労しています。特に人数を記した資料がありませんね。
お礼
御回答ありがとうございます。 #3さんの所では雑穀を食べていた記録はないのですね。 年貢は小作料の中から地主が納めていたのですね。小作人からしたら直接税ではなかったのですね。 当時の記録にはいろいろ作為がみられるのですね。
- yuhkoh
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>>お米のご飯を食べる事が出来たのでしょうか? ですから、「米」は食べていました。ただし「白米」だけを食べることは「ハレの日」などをのぞいてはほとんどなく、雑穀を混ぜて食べていたのです。
お礼
米に雑穀を混ぜていたのですね。 野菜などは稲作ほど積極的に栽培していなかったのでしょうか。
- yuhkoh
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まず江戸時代といっても初期・中期・後期・幕末期では時代様相や生活・風俗も異なりますから、単純に江戸時代と一律に考えてはいけません(昭和時代といっても戦前・戦後・成長期・バブル期ではまったく異なるように) それと現代でこそ白米食が普通に思えますが、昭和30年代ごろまで都市部をのぞいて、平均的には雑穀食が主流です。江戸では元禄以降に脚気が流行し、参勤交代で江戸に向かった藩士ですら脚気を気にしたといいます。裏返せば、江戸などのごく一部の都市でしか白米食ではなかった証です。現在のように副食が多くある時代ではないため、飯(めし)によって腹を満たす。それが雑穀と白米では栄養価が異なるでしょう。明治時代に日本軍では脚気予防に麦飯やパンに切り替えようとしたとき、「軍隊では毎日、白米が食える」と聞いたのに麦飯を食わされたといって、多くに兵士が抗議・暴動を起こしたといいます。白米だけを食べるのは当時では贅沢な食事だったのでしょう。 ですから米に麦・粟・稗などの雑穀を混ぜて食べるのは貧しいからではなく、当時としては普通の食事であったに過ぎません。
お礼
御回答ありがとうございます。 そうですね、江戸も三百年近くあった訳ですから時代によって違いますよね。 当時としては普通の食事ですか。そうなのですね。
自作農はましですよね。でも小作はどうでしょうね。
お礼
御回答ありがとうございます。 小作は水呑み百姓だったのでしょうか。
地域差が激しいので.地域が異なるとまったく異なる回答になります。 「農民」をどの程度の生活水準といるかで答えが大きく変わります。たとえば.祖父の実家。ここは毎日米(注意.すべての食事ではない。)を食べていました。一方.隣家。こちらは.盆正月等の祭りを除くと米が食べられません。 違いは.隠し田の有無と蔵の保存の関係です。3年ぐらい保存はできますが.蔵に入りきれなくなる(腐り始める・カビが生えたコメ)と食べ始めますから。 隠しだは.山の中・沼地の中のちょっとした小高い場所の畳1-2畳くらいの水が入る場所を見つけて.ここに少し植えます。そして.秋に穂だけ収穫に行きます。明治の地租改正で共有林としてこのような使い方をしていた場所が国有地に鳴ったために.大幅な増税となりました。 山の中には役人が入ってきません。だからこのような作付けが可能でした。
お礼
御回答ありがとうございます。 違いは隠し田と蔵の保存の関係だったのですね。 役人は山の中までは入らなかったのですね。
- urutorapeace
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年貢についてはまずそれぞれの村の中から基準田を決め、その基準田の収穫高を量ることでその年の率を調整していたようです。その各過程で役人と農民の駆け引きが有り、基準田は中くらいの実りの田んぼを選んで貰い、収穫高を量るときは刈り入れ時に籾を地面にわざとこぼして高を数パーセント少なくするなど、それぞれが円く収まるよう知恵を使って生きてた模様です。 他にも農民の中には開発した新田を届け出ずに隠し持っている者もいたようですから、農民の暮らしは時代劇に描かれているほど悲惨ではなかったんじゃないでしょうか。 ただ、だから農民は米をいつも食べてたかというとそうでは無かったと思います。自然災害による凶作に対して備えは当然していたはずですから。日頃から農民は習慣的に粗食であって、やはり銀シャリを食べるのは年に数回だったと思います。 米は武士にとっての収入源ですが、大坂で換金され江戸に運ばれていきます。それは大坂の米蔵と江戸以外に余分な米が殆ど無いということを示しているわけで、やはり米に対しては慢性的な不安感が皆にあったと思います。
お礼
御回答ありがとうございます。 基準田というものがあったのですね。 役人側も搾る取るだけが能じゃなかったのですね。
- mii-japan
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#1は重大な誤解があります たとえ五公五民であったとしても収穫の半分は農民の処分可能なものです この一部を売って必要品を購入したわけです 米以外の収穫と年貢に納め必要品を購入するために売却した残りが自分の使用分です ある意味明治大正の方が江戸時代より高税率でもあったようです 近年、江戸時代に関する研究の成果が刊行されています 判りやすいのは石川英輔の著作です 大江戸生活体験事情 などがよろしいかと 小中学校の歴史の授業は何だっだのだろうか です なお、ひとつの原典だけでは一方的になりますので多くの著作をご覧になりますよう 今でも、大勢は二公八民です、江戸時代は公式には、農民以外は納税義務はありませんでした
お礼
御回答ありがとうございます。 ある意味明治大正の方が江戸より高税率だったのですね。 石川英輔ですか。機会がありましたら是非読んでみようと思います。
- 6dou_rinne
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時代や経営規模にもよって大きく異なります。 江戸時代前期は生産力も低く、年貢率も高かったので生産者である農民がコメを食べる機械はあまりありませんでした。 その頃であれば、一般の農民がコメだけを食べられるのは盆と正月にあと祭りの時くらいだったかもしれません。 しかし、江戸時代も時代が下るにつれて生産力が上がりましたが、それに対応して年貢が上がるということはあまりありませんでした(江戸時代中後期に検地ができた藩はほんの数藩だけで、天領も含めてあとの大藩の藩は江戸次第前期に決めた高のままでした。) そのため農民も裕福になりコメを食べる機械も増えました。裕福な家では毎日でも食べられるくらいでしたが、倹約名家では麦や雑穀を混ぜて食べるところも多かったようです。また、あまり裕福でない農家でもかなり頻繁にコメを食べられるくらいの経済力はありました。
お礼
御回答ありがとうございます。 江戸時代も前期と中後期では事情が違ったのですね。 陸奥・出羽あたりは幕末は慢性的に不作だったイメージがありますがそうでもなかったのですね。
お礼
御回答ありがとうございます。 大名家の石高も、公儀が認知している表高と実際の実高はかなり開きがあったようですね。 一千石の生産量で二百石、実際は10~15%の年貢だとそんなに重くないですね。むしろ現代人の方が税金きついですね。 地域によっては白米のご飯が常食かもしれないのですね。 もしかしたら250石というのは太閤検地くらいの話で、1000石というのは生産性が向上した江戸後期くらいの生産量なのでしょうか?