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秀吉の下剋上
歴史好きの者ですが、どうしても合点が行かない点があります。よくある質問だと思いますが、なぜ秀吉は天下を織田から奪ったのか? 庶民的な考え方からすると、三法師若しくは信雄が織田政権の初代将軍となり、秀吉らは補佐をして織田政権を継続するのが当たり前だと考えるからです。信長に世話になったのだから、天下など取らずに、執権にでもなって勢力を揮っても良かったのではないかと思います。それとも秀吉は信長が嫌いだったのでしょうか?霊的な祟りは信じず、また民衆も納得したのでしょうか?持論でも構いませんし、ソースがあればお教えください。もしかしたら秀吉は本当はアホで黒田官兵衛にでもそそのかされたのでしょうか?
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歴史好きならご存知のように、清州会議のときに秀吉は三法師即ち織田秀信を擁してその「後見人」という立場になります。しかし当然のことながら柴田勝家らと対立してその後はご存じのとおりとなりますね。 その過程の中で、清州会議でこそ「なんであのサルが跡継ぎみたいな顔をしてるんだよ」となったのものの、柴田勝家を滅ぼした辺りになるともう完全にその実力は誰もが認めざるを得ないレベルになり、秀吉自身が織田家の権威なんてものを必要としなくなっていたわけです。もうひとりの名目上の有力候補であった織田信雄(信孝)は小牧・長久手合戦で徳川家康と組むものの、直接対決で秀吉に屈したので「屈したやつがその相手より名目上でも偉い立場になる」というのはあり得ないですよね。もし信雄が秀吉の言いなりになる人だったら最初から清須会議で秀吉の後見を受けていたと思います。 だいたい戦国時代は下剋上の時代なんですから、立場上は上になる人を排除して成り上がった話なんてのは枚挙に暇がありません。それこそ、「じゃあなんで家康は関ヶ原や大坂の陣までやって豊臣家を潰したんだ。秀吉が亡くなる間際に秀頼のことをよろしくと泣いて頼まれたんだから秀頼の後見人になればよかったじゃないか」ってことにもなりますし、その織田家も元々は尾張の守護代で、守護である斯波氏を実力で排除して尾張の支配者になった家です。主だった戦国大名で伝統と権威で由緒正しき家柄というのは武田信玄くらいです。 当時の常識として「実力が認められればなり替わるのは当然」だったのですよ。ただ、それは日本人としては実力主義はしんどいのでそこを上手いこと収めたのが徳川家康だったのです。
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- nijjin
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自ら天下を目指すか織田家再興を目指しその下に甘んじるかでは? 農民?から成り上がった秀吉ですからそこに至るまでの間に天下取りの野望が無かったといえば嘘でしょう。 また、今のような民主政権ではないので民衆は誰が天下を取ろうが関係ありません。 社長になれるか専務で終わるかといえば多くの人は社長になりたいでしょう。 天下取りも似たようなものでは?
お礼
なるほどですね 納得です 今で言うなら総理は誰がやっても・・・みたいな感覚でしょうか 秀吉も一か八かの賭けだったのでしょうか・・ ありがとうございました
- hekiyu
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近年の研究では、ああいう歴史的英雄とか、大企業の 経営者などには、人格障害者が多いことが判ってきました。 つまり、他人の痛みなど考えない、感じない、自分の利益 のみを考える、冷酷な人間だ、ということです。 冷酷だが、頭が良く、克己心があり魅力がある人物 が多い、という訳です。 人格障害で、頭が悪く、克己心もない、という人間は 犯罪者になりやすいのです。 つまり、ああいう成功者は庶民とは、考え方、感じ方が 異なるのです。 毛沢東曰く。 「中国には10億の民がいる。5億死んでも5億は 残る」 事実、大躍進運動や文革で数千万もの人間を死に至らしめて います。 鄧小平にしても、天安門事件で、百万ぐらいなら どうってことはない、と発言したとか。
お礼
なるほどですね 少し怖い気もしますが・・・ やはり普通の感覚では大成を成し遂げることは出来ないのですね 秀吉も頭の中と普段がギャップがあったからこそ魅力的に見えたのかもしれませんね ありがとうございました
お礼
実力主義が一番の世界だったのですね 誰も文句が言えないほど秀吉の成り上がりは凄かったのですね 確かに下剋上が当たり前と言われればそうかもしれませんが、勝家存命で秀信が秀逸な人物だったら どうなっていたのかなぁと考えてしまいます ありがとうございました