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戦国時代の名前
織田信長は吉法師 伊達政宗は梵天丸…でしたか? 何故昔の人は幼名をつけたのですか? それからなんで名前をころころかえるのでしょう… たしか秀吉も4回くらいかえてたと思いますが…
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質問に名字が含まれているのかどうかわかりませんが、まずは姓および名字から。 武田太郎源朝臣晴信 これが武田信玄が晴信と呼ばれていた時代の正式な名前です。 当時は姓と名字が別々でした。 源平藤橘と呼ばれますが、だいたい姓はこの4系統です。源氏、平氏、藤原、橘です。 武田家は清和天皇を始祖とする清和源氏の流れを引くので姓は源です。 そのうち、清和源氏も500年もたつと氏族も膨大な人数になり、そうなると各血統ごとに独自の名字を名乗ります。 よくあるのは自分の土地の地名を名字と名乗るパターンで、常陸国那珂郡武田郷ゆえに武田を名乗ったと言われています。 これが武田家のように露骨に名門なら姓も一つですが、秀吉のように出自がよくない場合、まずは主君信長に習い平姓を自称し、後に関白になるため藤原家の養子となり藤原姓となるわけです。 次に名前ですが、まず最初は幼名です。 これは代々同じ名前を名乗るケースが多く、武田信玄の幼名は太郎、嫡男の義信も太郎です。この幼名が同じと言うのも大事な意味があって、父の幼名を受け継ぐ子が嫡男と認識されます。 よってもし正室より側室に先に子供ができても、正室の子を太郎とするでしょう。 元服すると、たいてい主家から偏諱をたまわります。偉い人にあやかっているわけであり、また忠誠を示しているわけです。偏諱をたまわることができるというのは、また格も示しています。名門武田家の上に立つとなると将軍家だけですから、信玄の場合将義晴から一時を賜り晴、もう一字は代々武田家に伝わる信の字で晴信です。 この偏諱を繰り返す武将も居て、上杉謙信は、影虎⇒政虎(上杉憲政の政)⇒輝虎(足利義輝の輝)と変遷しています。 最後に当時の武将は晩年になるとたいてい仏門に帰依します。 出家は結局しないナマグサ坊主ですが、出家し法名をもらいます。 これが武田信玄の信玄であり、上杉謙信の謙信です。 結局当時の名前にはいろいろな意味があり、主従関係を表したり、格を表すものであったり、血統の正当性を表したり、そういった意味合いがあったわけです。
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- あずき なな(@azuki-7)
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織田信忠は奇妙丸 織田信雄は茶筅丸 毛利元就は松寿丸 武田信玄は次郎~晴信~信玄 伊達小次郎は竺丸(政宗の弟) 豊臣秀長は小一郎 織田秀信は三法師 ちなみに秀吉は 木下~羽柴~藤原~橘~平~豊臣と名を変えています 関白になるために藤原姓が太政大臣になるのに平姓が必要でした
武家は幼名→元服後→死後...という流れで三つは名を持ちます。現代人は、生前→死後...と二つの名を持ちます。(死後の名とは法名・戒名) 理由として、「偏諱(へんき)」があります。これは立場の上の人から下の人に名前の一部を与えるというもので、恩賞のようなものです。謙信なんかは、何度か偏諱を頂いています。景虎→政虎(上杉憲政から)→輝虎(足利義輝から)という具合です。また偏諱は基本的に前の字に当てますから、後ろの字は変わることはありません。(立場が上の人から貰うので、先に付ける)、秀吉は平民の出、はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改めた。、
- williumblake
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元服して一人前になったことや、戦で手柄を立てたこと、出家して仏門にはいったこと、家督を継いだことなど、人生の節目となる出来事で自分の存在感を示し名前を変えるのは、比較的地位の高い武家の間ではよく行われていました。 上杉謙信もその一人で、5回くらい改名しています。 明治大正くらいまで、不幸を断ち切り縁起をよくする手段として一部田舎では行われていたようです。 現代でも歌舞伎役者などが、技量を高め出世したことを示すため、歴史ある名前を襲名したりしますし、当時の幼名も、嫡男の名前(徳川家は竹千代、前田家は犬千代など)は代々受け継がれていました。 秀吉の場合は、農民出身でそもそも苗字がなかったでしょうから、まず名前をもらうことから始まり、2人の先輩から名前の1字ずつをもらって名前とするなど、自分の成功のきっかけとするために改名していたのでしょう。