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3大武将はいつ頃から天下人を夢見たのか
horagaiです。お世話になっております。 戦国の3大武将、信長・秀吉・家康が天下人への野望を持つようになったのはいつごろなのでしょう。 信長の場合はおそらく最初からだと思いますが、秀吉・家康が最初から天下人になることを夢見ていたとは思えません。 秀吉の場合は山崎の戦あたりからでしょうか。清州会議での手際を見るとそのころにはすでに天下人への野心を持ちはじめていたように思えるのですが。家康の場合は小牧・長久手の戦での引き分け勝負あたりからでしょうか。 またこの3人以外にも天下人への野望を持っていたと思われる武将は誰でしょうか。戦国武将がすべて天下人を夢見ていたわけではないと思います。毛利、島津、上杉などは有力ではあってもあまりそういう願望はなかったように思えます。 私の考えでは、竹田信玄・伊達政宗・黒田官兵衛あたりは野望を持っていたように思いますがいかがでしょうか。
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こんにちは。 私が思うに、秀吉が天下人への野心に目覚めたのは、信長が本能寺で討たれた事を知った直後だと思います。ただし、自ら目覚めたのではなく、黒田官兵衛にそそのかされた可能性が大だと思います。(全然根拠はありません) また、家康も信長が討たれた時、堺から伊賀を抜けて地元に帰ってきてから、天下取りの構図を描き始めたと思います。(これも根拠はありません) つまり、信長という絶対的な君主がいなくなったとき、秀吉も家康も(また、他の武将も)自由な立場になって、自分が今どんな位置にいるか考え出したということです。また、明智光秀は当然野心があったでしょうね。 私も武田信玄、伊達正宗、黒田官兵衛は野心があったと思います。それと、真田昌幸あたりも小さいながら機をうかがっていたように思います。
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>この3人以外にも天下人への野望を持っていたと思われる武将は誰でしょうか。 足利義昭。当然ですよね。最初から将軍の後継ぎなのですから。おそらく、信長に奉じられて上洛し、室町十五代の征夷大将軍に任ぜられたときから、信長の力を後ろ盾にして天下を取れる、と思っていたことでしょう。
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御回答ありがとうございます。 >足利義昭。当然ですよね。最初から将軍の後継ぎなのですから。 なるほど。気がつきませんでした(^^;確かに腐っても将軍ですからね。 とはいえ平和な時代ならともかく魑魅魍魎の跋扈する戦国の世で天下統一できるような器でなかったことは確かでしょうね。
- miska
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> 家康が秀吉より前に死んでいたら?と考えると興味がありますね。 秀忠には家康ほどの力量も人望も期待できませんし、恐らくは豊臣政権が存続していたのでしょうね。 替わりに天下を盗ろうという人物も特に浮かびませんし。 # 乱世統一の野望と政権転覆の野望はイコールではないでしょうから > いろいろと信長の無茶につき合わされながらも、最後まで裏切ることなく信長の > 同盟軍として働いていたということは、そういう野望もあったから、ということ > でしょうか。 虎視眈々とチャンスを狙っていたのかもしれませんねぇ。 本能寺の家康黒幕説もあながちありえない話でもない、かも。 個人的には光秀の発作的野望説を取りますが。 > ところで、有名な山岡宗八の「徳川家康」では家康はどの辺りから天下取りへの > 構想を描きはじめたことになっているのでしょうか。 すみません、山岡氏の小説も家康もあまり好みでないので… あの長さは"ちょっと参考に"で読む気には^^; > 島津義久というのは意外でした。島津家は九州統一までは十分考えていたと思い > ますが、全国制覇までは考えていたでしょうか。 まあ結局メインの3人以外は想像でしか語れないのですが。 状況が許せば挑戦していた可能性は十分あると思います。 逆に九州統一で満足する程度の器ならば、秀吉軍と一戦交えることもなく友好的に接することで南九州の安堵を狙ったのではないでしょうか、毛利のように。
お礼
>秀忠には家康ほどの力量も人望も期待できませんし、恐らくは豊臣政権が存続していたのでしょうね。 ま、それは豊臣秀頼も同じですから(^^;やっぱりどうなったかはわかりませんね。 >本能寺の家康黒幕説もあながちありえない話でもない、かも。 >個人的には光秀の発作的野望説を取りますが。 私も個人的には本能寺の家康黒幕説はうがちすぎだと思います。
- miska
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個人的な想像で、根拠があるわけではないですが… ・信長 漠然とした野心は最初から持っていたかもしれませんが、目的として意識したのは美濃併合~上洛のころではないでしょうか。 ・秀吉 清洲会議前後かと。 本能寺~山崎というのもわかりますが、この時点ではあまりにもその先に不安要素がありすぎてちょっと。 ・家康 二通り考えています。 1.秀吉の死の前後 光秀の本能寺、秀吉の清洲会議と同様です。 自分がちょっと介入すれば天下が転がり込んでくるという状況に黙っていられなかった、と。 2.今川よりの独立時? かなり若い時期より野望を抱いていたとも思えます。 特に、信康の死が怪しい。 信康が(そして信長・織田家が)生存していれば、信康の代、その後継者(信長の孫にあたる可能性が高い)の代になると徳川家における織田家の影響力はより増していくと思われます。 それを嫌った家康が、秀忠誕生を好機と信康を抹殺した、と考えると… ・その他 …う~ん、"いない"でしょうか。 野望は持っていたけれど実際に行動に移せなかったという人物ならどれだけいても不思議じゃないですが。 あえてその中から選ぶなら、長曾我部元親、島津義久、伊達政宗を挙げます。 武田信玄や今川義元にはそこまでの野望は感じられません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >・秀吉 >清洲会議前後かと。 >本能寺~山崎というのもわかりますが、この時点ではあまりにもその先に不安要素がありすぎてちょっと。 確かに。とりあえず明智光秀を倒さないことにはその後のことを考えるどころではないですからね。 >家康 >1.秀吉の死の前後 家康が秀吉より前に死んでいたら?と考えると興味がありますね。 >2.今川よりの独立時? これはまた気の長い…さすがは「鳴くまで待とう」の家康です。(^^;) いろいろと信長の無茶につき合わされながらも、最後まで裏切ることなく信長の同盟軍として働いていたということは、そういう野望もあったから、ということでしょうか。 ところで、有名な山岡宗八の「徳川家康」では家康はどの辺りから天下取りへの構想を描きはじめたことになっているのでしょうか。 >・その他 >あえてその中から選ぶなら、長曾我部元親、島津義久、伊達政宗を挙げます。 島津義久というのは意外でした。島津家は九州統一までは十分考えていたと思いますが、全国制覇までは考えていたでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >秀吉が天下人への野心に目覚めたのは、信長が本能寺で討たれた事を知った直後だと思います。 >ただし、自ら目覚めたのではなく、黒田官兵衛にそそのかされた可能性が大だと思います。 なるほど。黒田官兵衛にそそのかされたというのはあり得そうな話ですね。黒田官兵衛ならそのくらいのことはやってもおかしくなさそうです。 >また、家康も信長が討たれた時、堺から伊賀を抜けて地元に帰ってきてから、 >天下取りの構図を描き始めたと思います。 一旦は構想を描いたが、山崎の戦、清洲会議と秀吉に先手先手を打たれてしまい、小牧・長久手の戦は有利に終始したものの、長期的戦略から秀吉の軍門に下ることにした、ということでしょうか。 >信長という絶対的な君主がいなくなったとき、秀吉も家康も(また、他の武将も)自由な立場になって、 >自分が今どんな位置にいるか考え出したということです。 ワンマンのトップが突然消えた時、どんな組織でもありえることですね。こういう時は、いち早く自分の立場を掴み、先手を打って行動した人間が有利になります。秀吉の行動はまさにその典型ですね。 >明智光秀は当然野心があったでしょうね。 これはどうでしょうか。野心があれば明智光秀のような優秀な人があんなにあっさりとやられなかったと思うんですが。本能寺は、どちらかというと出来心に近いような気がします。野心があった上での行為なら、もう少し後のことまで考えた行動を取ったと思うのですが。 >真田昌幸あたりも小さいながら機をうかがっていたように思います。 大阪の陣での幸村の活躍ぶりを見るとそういうこともあったのかも知れませんね。