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個体主義による苛立ちの原因の分類

「自分が関わりたくない」と意志している事で、 状況的にオカシイと思った場合、口出しせざるをえない時、苛立ちます。 個体意識が発達した人の場合、他人に責任を持たないのが社会的に通常です。 例えばですが、自動車の下でジャッキアップして作業するのは危険ですが、 それが身内だった場合、適度の警告は普通のことですが、もしその事自体に関わりたくない場合、 非常に苛立ちませんか?関わらないと決めているのに、無知さを露呈して問題がありそうな時、 精神的や時間的に余裕がないので、自分は助けるのに苛立つのです。 その精神的徒労つまり関わりたくないことに対して、個体意識が外部から強制的に動員される時、 苛立つのはどういう心理的な要因があるのでしょうか。 他人であれば、社会人として放置できます。自己責任ですから。 もし関わるために、自分が10分でもグーグル先生と相談し、他人にアドヴァイスしてあげるのも、 自分は拒否しているのに状況的に許されない場合はありますよね。 バカバカしい、で済むなら、無知に対して、目をつぶれば良いですが、 それが自分の子供だったり、身内だったりすると、責任とか社会的共有があるので、 放置できない状況がいつも発生します。これは心理的には何に属することでしょうか? 宗教的には寛容性の部類だと思います。しかし自我意識が強く働く時、責任は大きな問題です。 個体主義、個的な生の尊重がある時、関わりたくないという意志は不当なものでしょうか? 仲間意識は余裕があればとても美しいことです。でも関わりたくない事に自分が動員されていき、 生活が損傷や浪費される時、苛立つ事は道徳的には間違いであるにせよ、苛立ちの説明がなされても良いような気がします。状況に責任を持つ、ということは、支配権を分有せざるをえない。 でも支配権など自分は要らない。何故なら個体の支配権は個体に求めるべきだから。 「ちゃんとして下さい」と無知な人(身内=状況的責任分担)を”本気で”怒るのは、 心理学としてはどういう位置づけなのでしょうか。 私はいつもかなりの放任主義です。職場で怒ることもほとんどありません。自己責任ですので。 ですが身内に限り、時に苛立ってしまいます。馬鹿馬鹿しい事でかつ強制があると余計です。 家族とも同僚とも普段は陽気ですが、「関わりたくない」意志があります。面倒だからです。 特に自分に責任がないことや専門外のことで、巻き込まれたくない。オカシイのかな。。?

みんなの回答

  • Gidamind
  • ベストアンサー率11% (4/35)
回答No.1

いろいろ深く考えておられるのですね。 多くの疑問ありましたが抜粋してすこしだけ。 苛立ちってのは二次的に表出する感情と捉えています。 期待ないところに苛立ちはないですよね。 放任主義でありながら、関わり合いを避けながらも、その人がなんらかの形で自分に影響を与えるならば、そこに自分なりの信念も働いていることでしょう。 こうあるべき、こうありたいなんて。 つまりそこに期待があります。 表出しているかどうかは別ですか。 まっ、苛立ちは期待とも言えますかね。 いかがでしょうか。

ferra
質問者

補足

自分で解決してくれ、と本当に思います。 もし自分に頼るならちゃんと向き合って、膝を付き合わせましょう、と。 そうすれば最低でも一緒に考えるし、自分に無理ならどこかへ相談する。 そういう感じなのです。生産性を考えると、現場にいる人が意識的に解決しなければなりません。解決する意志が問題です。意志の放棄が苛立たせます。 話し合いにはトコトン付き合いますが、意志を持って方針を決めないと。 確かに期待も微小に入っているとは思います。でも相手の意志を尊重したい。 例:学校に行きたくない→じゃあ行かなくていいよ。でもどうするの? とにかく意志と方針があれば自由にして良いと思います。できれば自分で自由に決めてほしいのです。合意や法律や良識の範囲で、意識的にしてほしい。自由に。縛るつもりもない。好きなようにすればいいと思う。でも相手には意志があり、違う個性のある人間に意志を与えるのはできない。 自分に迷惑をかけて欲しくない。相談や困った事なら対話の形でしたい。 形式的なものに対する苛立ちとかもしれません。相手の意志を感じたい。 そこに意志する責任が生じるはずです。親類といえど、個人の意志にはだれでも責任がありますよね。自分のやりたいことに対して、責任が発生するはず。 サポートはできる範囲でしてあげたいけど、できれば口出しはしたくない。 ちゃんと自分の意志と責任を持って、自己処理してほしい、という感じです。

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