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奇蹟の言い広めの禁止について
ルカによる福音書(新共同訳) 4章31ー37節 汚れた霊に取りつかれた男をいやす 38ー41節 多くの病人をいやす 5章12ー16節 重い皮膚病を患っている人をいやす 17ー26節 中風の人をいやす 6章 6ー11節 手の萎えた人をいやす 17ー19節 おびただしい病人をいやす 7章 1ー10節 百人隊長の僕をいやす 11ー17節 やもめの息子を生き返らせる 8章22ー25節 突風を静める 26ー39節 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす 40ー56節 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女 9章10ー17節 五千人に食べ物を与える 37ー43節 悪霊に取りつかれた子をいやす 13章10ー17節 安息日に腰の曲がった婦人をいやす 14章 1ー 6節 安息日に水腫の人をいやす 17章11ー19節 重い皮膚病を患っている十人の人をいやす 18章35ー42節 エリコの近くで盲人をいやす ルカによる福音書に記述されている主の奇蹟の中で 5章12ー16節 重い皮膚病を患っている人をいやす 8章40ー56節 ヤイロの娘とイエスの服に触れる女 の2カ所に関してのみ、これらのことを言い広めることを主が戒めています。 5章14節 イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。 ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、 人々に証明しなさい。」 8章56節 娘の両親は非常に驚いた。 イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。 何故、この2カ所だけ奇蹟の行いを言い広めることを禁止しているのか、 また各教会ではどのように理解しているのかをご存知の方がいらしたら教えて下さい。 よろしくお願いします。
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キリスト教は、プラトン主義と言われます。 どうしてか。 紀元前427年 - 紀元前347年の人です。 イエスがいたとされた時代より、ずっと前の人で、ギリシャにいた哲学者です。 いいことをすれば、「いい人だ」と他人から善い評価を受けてしまいますよね。 善い行いをするのは、善い人だと評判を得るためにやるのか、本当に善い人だから善い行いをするのか、善い行いをすれば毎回褒められる(徳を得る)と、本当にその人が善人だったからなのかわからないですよね。 そこれ、プラトンは考えた。 <その人から全ての徳(善い評判)を奪ってみても、善人だったら、その人は本質も善人だったということになる> と。 善いことをしても褒められず、評価されない。それでも善いことをし続けるか? 今までの善い評判を奪い、つまり 紫の衣を剥ぎ取り、鞭打ち、十字架にかけても、その人が最後まで善人だったら、その人は評判を得たいから善いことをしていたわけじゃないとわかる。 と。 そうプラトンは考えた。 新約聖書の元となる小説を書いた人は、プラトン哲学に影響を受け、それで旧約の話も交え、ユダヤとヘレニズム文化を融合させる物語を作ったのかもしれない。 ユダヤ人は古くからディアスポラして、各地に住んでいたわけですが、ギリシャ方面だけでも本国ユデアの8倍ものユダヤ人が住んでいたそうです。 生まれがギリシャでギリシャの文化で育った、ユダヤ人が本国の8倍以上もギリシャだけでもいたので、プラトン哲学の精通しているユダヤ教聖職者もいたんでしょうね。 新約聖書の内容は、旧約に精通していないと書けない内容なので、一般のユダヤ教徒が書いたのではなく、ギリシャに住むユダヤ教の祭祀か律法学者 あるいはラビが書いたのだと思えます。 今のように誰でも聖書が手に入るという時代ではなかったので、細かなところまで知っているってことは、作家はそれらのどれかの地位だったと伺えます。 話は戻って、小説の中では、イエスは多くの障害者を完治させていきます。 その当時 障害を持った人は神から呪われているとされたので、障害が消えたってことは、信仰を深くしたことで、神は呪いを解いたってことですね。 もし、信仰が深くなくても癒されるとしたら、信仰すること自体価値が無い。 となる。 ここがポイント。 例えば「私は無くした手をイエスによって、再生させてもらった。え? 信仰なんてありませんよ。 誰だってお願いすれば、やってもらえます」と言えば、信仰することになんら価値は無いわけです。 聖書作家が言いたいことは、「信仰が深くあれば、無くなった手すら生える」 みたいなこと。 だから今でも障害を持った人は、奇蹟が起こったという地に巡礼で行くわけです。 巡礼したところで、無くなった手が生えたなど一例もありませんが。 信仰が無いから神の呪いは解けない・・・・。なわけないですね。 あくまでも小説内でのみ可能なことですから。 まあ 巡礼して一心に祈れば無くなった手が生えてくるという期待を胸に、いつかはと巡礼を夢に描いて生きるってのも、希望に満ちた人生だと思います。 で聖書作家が言いたいことは、<信仰が深かったから効果があった>ってこと。 いくらイエスが強い魔法使いでも、魔法をかけられる側に信仰が無ければ、無効。 なにも変化しない ってこと。 だから、奇跡的なことが起こったら、「イエスって人が魔法で治してくれた」と言いふらさず、黙って自分がいかに信仰深かったかを示す。 治った体を祭祀に見せれば、祭祀は「信仰があなたを救った」 と言ってくれるわけです。 (上記で書いたプラトンの義人の証明理論が、ここで使われているわけです。) こういう物語があります。 マリアの両親は子供ができませんでした。 そこで、子供を授けてくださいと神にお願いしようと神殿を訪れたら、祭祀に「子供がいないということは、お前たちは神に呪われるからだ。 神から呪われたものは、神殿に入ることは許されない」と追っ払われた。 信仰が深くなく穢れたものが神殿に入ると神の住まいが汚されるってわけです。 それで二人は信仰が浅いから子供に恵まれないと知り、必死で信仰を深くしたところ、マリア誕生。 というわけで、奇蹟は信仰が深くない人には起きないってことです。 「イエスってすごいマジシャンがいて あっという間に治療してくれる」となると、信仰が無くても治るって勘違いされ、 信仰が深かったがゆえに、奇蹟が起こった って重要なことが伝わらないじゃないですか。 徳を得た つまり病気を治してもらうために信仰する とかだと、真の信仰じゃないじゃないですか。 条件つき信仰だから。 神がすばらしいからじなく、自分が利益を得るために信仰をするのだから。 神中心ではなく自分中心だから。 なんで、2回だけイエスがやったといわず、信仰により回復したことをみんなに見せろって言ったのかは。。。。 全部に対して、「私が治療したのではなく、自分の信仰によって癒されたことを みんなに見せなさいと言った」って重複しちゃうと、。。。 文章作成能力が下手な作家ってなるじゃないですか。 たとえ、作家が毎回書いたとしても、編集者が重複した部分をカットしたんじゃないかと。 文章に書かれていなくても、行間に同じことがある と読者が読み取れる部分は、カットされる。 そういうことじゃないかな と思います。 だから 2回だけ他人に言うなと言ったわけじゃないと思います。
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No.1です。訂正があります。 ☆☆ 〔最後のほうの(ヨハネ福音20:17)の引用文章の少し上の箇所で〕:・・・十字架上の死のあと 墓のそばで――イエスは その≫ 埋められた ≪墓から出て 立っていたというのですが―― マリアに 現われたとき・・・ ☆ と書きましたが 《埋められた》の部分は 正しくは ▲ (マルコ15:46) ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。 ☆ というような状態でした。おわびします。 なお おまけで添えさせていただけるなら たとえば ○ イエスという人のことは 善人である・ないという基準で判断することも できますが イエス・キリストというように 《神の子》つまりは《神》については 経験的な倫理としての善悪を超えています。 ○ それは 十字架上に死ぬという最終の杯としての事件を 過ぎているか否かで 判断が 異なってくるということです。墓場でのマリアとの出会いを 引き合いに出しましたが その時点も――すでに 十字架上の死のあとなのですが―― まだ この経験世界での出来事として捉えられるようで したがって 《神 ないし 霊》の問題ではないようなのです。 ○ この霊の問題を キリスト・イエスは 示そうとしているようなのであって その意味は 奇蹟をおこなったこと・つまりかれのわざとしての奇蹟が 中心的な主題ではないということのようです。 ○ さらにその意味には 含みがあります。なるほど 奇蹟そのものが問題ではないということは とりもなおさず 神の霊が 主題であるとするなら それは 《信仰》のことだと なるには なるのです。 なるのですが しかも この信仰が主題だというには なお 条件が必要です。奇蹟をおこなっているときには まだ はりつけによる死の前であり かれは 復活していないからです。 ▲ (ヨハネ福音20:22) 〔復活したイエスは 弟子たちの家にやって来て〕 彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 ・・・ ☆ というように 復活してから 初めて 《聖霊》が 現実となるわけです。つまり この基礎の上に 信仰は成り立つという意味です。それが 証拠に イエスが捕らわれたときから 弟子たちは もはや イエスにかかわりがないのだという態度を示していた・つまり 裏切っていた からです。 * もちろん アブラハムの時から 信仰は ありますが イエスの出現による更新は 決定的なものです。(新しい契約=エレミヤ書31:31以下など)。 要するに 善悪を超えたところの霊 この神の霊について 含みとして 言おうとしていると解釈します。二箇所程度に そのことに触れておけばよいのだと思われます。
お礼
とても難しい内容でしたので全文は理解出来ませんでしたが 主の「昇天」の前後でのその存在の意味するところの違いでしょうか。 ご回答ありがとうございました。
聖書は持っていませんので推測になりますが。 神秘行を行う立場として言わせて頂けば、聖典には顕教的側面と秘教的側面があります。 その二つに限って他言を禁じたなら、それの秘教的側面が密儀だからではないでしょうか。 もし本当に他言無用の内密な内容であるなら、そもそも聖典に記されているはずがありません。 『この技術を用いることは許可されるが、その用法を他人に教えてはならない。』 そういう意味だと思いますね。
お礼
参考ご意見ありがとうございました。
マタイ福音のほうに 《ルカ6章6ー11節 手の萎えた人をいやす》の並行記事があって そのあとに この場合にも このマタイでは 《他言するな》と言ったとあります。しかも その理由まで 書いています。 ▲ (マタイ福音12:15~21) ~~~~~~~~~ イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。 見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。 この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。 彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。 正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、 くすぶる灯心を消さない。 異邦人は彼の名に望みをかける。 (イザヤ書42:1~4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうも 《霊》にかかわっていそうなのです。 つまり このように理由が書いてあるからと言って まづ言えることは 必ずしも分かったというわけにも行かないように わたしも 感じます。このご質問のように 前々から 疑問を持っていたのではありませんが 思うに 分かりづらいですね。 つまり けっきょく 《言いふらす》ことをしなくても ほんの少し 誰かに伝えれば うわさは広まるでしょうし それよりも 出来事が起こったなら それは 伝わっていくでしょうし。 考えましたが ひとつに まづこれは 奇蹟と言いますか なかなか 人間の能力とは思えないわざですし 事実が起こったとしても 理解力を超えています。ですから 単純に 人間のわざだと受け取られては それは 違うというようなことが かかわっているように思います。 もうひとつに イエスは まだ 最終の杯を飲んではいない段階にあるわけです。ちょうど 十字架上の死のあと 墓のそばで――イエスは その埋められた墓から出て 立っていたというのですが―― マリアに 現われたとき マリアが 《ラボニ(わが師よ!)》と応答を返すと こう言ったとあります ▲ (ヨハネ福音20:17)~~~~~~~~~~~~~ イエスは言われた。 ――わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上ってい ないのだから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち この内容を踏まえると こう考えられます。まだ 《経験世界における存在とそのわざ》である場合には その体に触れたりしてはいけないし そのわざを言いふらしたりするのも だめだという意味があるように思われます。 つまり 表象しうべきものごとについては その表象が あたま(精神)の中で 或る種の仕方で 目指すべき目標をかたちづくる。たとえ 精神的な理念であっても そうです。それは イエスという人やその思想そのものであるだろうけれど 神の子でもあるイエス・キリストというその存在を指し示すことにはならない。むしろ 妨げることさえある。――こういう意味合いがあるのではないでしょうか。 ひとつの見解でした。
お礼
ご回答ありがとうございます。 補足回答に方にお礼のメッセージを付けさせて頂きました。
お礼
主の戒め、福音記者の意図、ともに 信仰の必要性をメッセージに含ませる意味だったのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。