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現象は唯一の実在か?
ぼくは、現象(経験)が唯一の実在で、それ以外は一切「ない」と感じています。 また、それに付随して、以下のようなことも勝手に考えています。 ・理性的なあらゆる判断や認識は、真理に到達できない(理性は現象の一部として、アナロジックな認識性を有するのみ) ・現象として、自由意志なるものは現れていない(つまり、自由意志はない) ・認識論(または真をめぐる探求)は終わった、決着した。 漠然としてて申し訳ないのですが、こんなぼくの感覚(?)についてみなさんはどう思いますか?
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確認作業でしょうか。頼れる回答にはなりませんが、(ざっくりとですが)仰っている通りで大丈夫だとおもいます。「ない」ものたちとの縁は切れます(世界はもっと広いかもしれず、わからない(言い切れない)けれど、とシュミレーションを繰り返す)。
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- yuniko99
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現象という言葉が「経験」を表すのかどうかよく分かりませんが。 言えるのは貴方の言うように 理性では分からないと言う事です 真理を知ることは不可能に近い。 そこから導くと ソクラテスの無知の知で 我々には分からないことが沢山ある と言う事です。 そうするとつまり、質問者様の >現象(経験)が唯一の実在で、それ以外は一切「ない」と感じています。 と言うのも 感じてるだけで。我々には認識・経験し得ない世界がどこまでも広がってる可能性の方が強いと言う事です。マクロ・ミクロ、分野にしても。 従って質問者様はまだまだそれを探求してもいいということです。 探求は終わった、決着したと考えて、仕事に邁進するのもいいですが、それがベストとは言い難いということであります。 まだまだこれからですよ。
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- kurinal
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>「それ以外は一切「ない」と感じています。」 相当、ランボーだと思います。 >「認識論(または真をめぐる探求)は終わった、決着した。」 現象は唯一の実在か? ランボーが、怒りの脱出、してまうのか。
- 雪中庵(@psytex)
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不確定性原理において、存在の本質まで確定しよう とすると、不確定性無限に発散してしまう事が知ら れている。 そうした本質を知らず、階層現象を表面的に捉える (いい加減に捉える)事によって、有限的な存在は 派生しているのだ。 確かに「現象は唯一の実在」だが、それは存在しない。
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- Mokuzo100nenn
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だいたいよろしいのではないでしょうか。 >認識論(または真をめぐる探求)は終わった、決着した。 この点に関しては、学問領域として存在意義を失ったものの、それぞれ個人の人生においてはあながち無視できないと思っています。 まあ、認識論を教えるとか、認識論で飯を食う事はできませんが、個人の人生で日々、認識を新たにすることは有意義かな、という程度です。
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- urigadai2013
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「現象(経験)が唯一の実在で、それ以外は一切ないと感じています」というのはバークリの主観的観念論、バークリは感覚与件(センス・データ)しかない、その向こうには何もない、と言いました。 ラッセルやA・J・エアーなども感覚与件(センス・データ)論者で、日本の故・大森荘蔵もバークリ流の感覚与件(センス・データ)論者でした。 大森は現象は物があって、その現象ではなく、現象が自ずから立ち現れる「立ち現れ一元論」を唱えました。 つまり、私がいて、物があって、現象があるという三極構造を否定したわけです。 感覚与件(センス・データ)論者は言います、 私たちは物を見ているのではない、物の現象である物の性質とか属性を見ているのだ、と。 そうですかね? たとえば私が富士山を見ているとして、私は富士山を見ているのでなく、富士山の形や色などを見ているのでしょうか? そんなことはない、と思っています。 私は富士山を、富士山そのものを見ているのであって、富士山の感覚与件(センス・データ)を見ているわけではない。 富士山の現象を見ているのではなく、富士山そのものを見ているのだ、と思っています。 それに現象というのはカントによれば、物の私の感覚器官を通して現われる諸性質のことです。 現象と経験を同一視していますが、経験には私の内的体験と言われる思考・意志・感情なども含まれますから、その種の内的体験は感覚器官を通して現象するものではありませんから、現象と経験を同一視できません。 それに現象というのは何ものかがあって初めて現象です。 何ものもないのに、現象だけあるというのは現象の定義に反します。 あなたは現象しかない、それ以外は一切ない、と言いますが、だとすると現象は何ものも無くても、現象するんですか? 現象の背後に何もない、何ものもなく、現象だけあるというのはおかしいです。 それは現象とは言わないのではないですか? 唯一実在は物であって、それ以外は一切ない、というのなら、理解できます。 「理性的なあらゆる判断は真理に到達できない」と言いますが、私たちは日常的に、これは真理だ、と言っていますから、理性なんかなくたって真理に到達できます。 古代ギリシャのアリストテレスは真理とは思考と存在の一致だ、と言いました。 これが西欧の伝統的な真理観で、思考と存在の一致とは、たとえば私の言明したことが事実と一致すれば真理と言われます。 私がここに100円があると言明したとしましょう。 そして事実、目の前に100円があれば、それは真理だと言われます。 実に簡単ですね? そんなことは私たちは日常的に言っているのではありませんか? たとえば、子供たちにきっとあのトンネルをくぐって電車がやって来ると言ったとして、実際に電車がトンネルをくぐってやって来る姿を見たら、子供たちは、お父さんの言ったことは本当だった、正しかった、というのではありませんか? それが真理と言われるものです。 真理なんて言うと、何か神秘的なものに思われますが、実際はありふれたことです。 「理性は現象の一部として、アナロジックな認識性を有するのみ」と言いますかが、理性と悟性を区別しなければならないし、悟性は確かに現象の一部しか知りえませんから、理性のように全体を認識はしえないでしよう。 そして「アナロジックな認識性を有するのみ」とは、理性はトートロジーで、経験を、対象を必要としないから、トートロジーと言いたいのですか? しかし、理性は悟性があって、その悟性が経験的なものを考えるのを批判するもの、それが理性ですから、理性はトートロジーではありません。 悟性がなくて、理性だけならトートロジーと言えると思いますが、理性は悟性に基づきますので、経験を含む、対象を含みますから、トートロジーではありません。 そして自由意志は物体ではないから、現象しません。 自由意志の向こうに何か実在があるわけではない。 そしてその実在の現象が自由意志という訳でもない。 現象がなくても、現象とは無関係に自由意志はあります。 「認識論は終わった、真をめぐる探究は終わった」と言いますが、たしかに認識論はすでに古いですが、でも真をめぐる探究は終わってはいません。 なぜって、私たちは日常的に、これは正しい、これは間違いない、これは本当だ、と言っているのですから。
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- stmim
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よくわからないのですが、自分の身体や他人は存在しないという考えですか? 自分の家族が死んでも悲しくない?(家族が存在しないから?) 体調が悪くても病院にいかない?(身体も病院も存在しないから?) 犯罪に巻き込まれても警察に連絡しない?(警察は存在しないから?)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ 現象(経験)が唯一の実在で、それ以外は一切「ない」 ★ 理性的なあらゆる判断や認識は、真理に到達できない ☆ このふたつの命題は 互いに矛盾します。 なぜなら あとの文は すでに《真理》の存在を前提とした議論だからです。 つまり おおよそ《真理》も《実在》であると暗に言っているからです。 それとも 《現象(経験)》が そのまま《真理》のことですか? だとすると 《真理には到達できない》と言いつつ 他方では《その真理 すなわち現象(経験)が 唯一の実在で、それ以外は一切「ない」》と言っている。《到達できない》ものについて どうして《それ以外は 一切「ない」》と分かるのですか? あるいはそれとも 真理に到達できないのは 《理性的なあらゆる判断や認識》がであって それ以外の・人間の持つ能力(もしくは 霊感?)によるなら あたかも真理に到達できる場合がある――というご議論でしょうか? ヒラメキの問題になりましょうか どうなのでしょうか。
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- ゆのじ(@u-jk49)
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現象(経験?)自体、個々の誤認、誤解によって成り立っています。個々の特殊な誤認識を、どこまで普遍に近づけることが出来るかというのが永遠の課題です。世の中の全ては、束の間の「仮説」であり、「真実」は、存在しません。こういう考え方は、哲学とか宗教上のものではなく、科学者として最も大切な態度となります。
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>漠然としてて申し訳ないのですが、 いいえ。「自明の理」です。 >こんなぼくの感覚(?) についてみなさんはどう思いますか? 哲学をもっていますね。
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- trytobe
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『ぼくは、現象(経験)が唯一の実在で、それ以外は一切「ない」と感じています。』 であるから、 『こんなぼくの感覚(?)についてみなさんはどう思いますか? 』 と聞かれても、『みなさん』の考えも、『ぼくの感覚』も、『ぼく』にとっては「ない」ものなのでしょうから、『ぼく』が受け入れられる答えが実在するわけがありません。
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補足
うーんと、意識現象(センスデータ、コギトのようなもの)は「ある」と言いたいんです。 言葉足らずで申し訳ありません・・・
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