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日本の中世から近世における最大の木造荷船

遣明船や弁財船は、大きなものでは2千石以上積めたそうです。 2千石以上を積んだと推定される船を教えてください。 よろしくお願いします。

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  • Kittynote
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回答No.6

丁寧にまとめていただき恐縮至極でございます。 …以下、文字数の割に新ネタはありません…m(_"_)m 角倉船に関しましては、論文等を含めWEB上では乗員「397人」の人数が記されてい ることが多いので、御指摘の「風俗画的表現に重点がおかれ、船の描写は二の次ぎ であるため、船舶画というにはほど遠いものでしかない」のとおり、絵馬以外に何 らかの記録類が有って然るべきとは思っていましたが、No.3&4投稿時点では手付か ずのまま、その後、盆関連の野暮用も一段落して、先ず『通航一覧』で確認します と手懸かりとなる引用文献が判明。 ・『通航一覧.第8/林韑編/国書刊行会/大正2.11』 ○「通航一覽附錄 卷之二十一」<274~279/294>(539頁上段~549頁上段) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949606/278 <278/294>(546頁下段6~8行目) 天竺へ乘渡候角倉與市唐船は、長さ二十五間、橫幅九間有之、乘船人數三百九十七 人乘渡候、[暹羅國風土軍記、渡天物語○…(後略)…] 上記の引用文献「渡天物語」から「天竺徳兵衛」なる江戸初期の貿易商が浮上。 彼は角倉与一船の船長前橋清兵衛の書役として、寛永3(1626)年10月16日、15歳の 時、長崎出航、暹羅方面へ渡海。宝永4(1707)年、96歳の時、外国渡航時の記憶を もとに見聞録を作成、長崎奉行へ提出したとか。 果たして80年前頃の記憶が鮮明なのかとの疑義もありますが、 役柄から各種情報を掌握出来る立場ではあったのでしょう。 直接「暹羅國風土軍記」「渡天物語」等に当たりたいところですがWEB上では無理 もあるため、二次情報ではありますが、 ・『朱印船貿易史/川島元次郎/内外出版出版/大正10』 ○「第二編 列伝/第四章 天竺德兵衞」<152~158/333>(256~268頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965692/152 <152/333>(257頁1~9行目) 寶永四年、年九十六、當時を追懐して見聞を錄し長崎奉行に呈せり、世稱して天竺 德兵衞物語、又天竺渡海物語、渡天物語と云ふ、其の書世に流布するもの頗る荒唐 無稽の説を載す今通航一覽長崎港草等に引く所を參照して信憑するに足るものを擧 げ、少し考證を試みんとす。…(中略)… 一 角藏與一殿商船長さ二十間橫幅九間の船にて人數三百九十七人乘、船仕立渡海 仕候、…(後略)… 何とも引用文献の堂々巡りの感も否めませんが、 前章の「第三章 角蔵了以及与一」には数値も建造地情報も無いことと併せ考えま すと、「(L)20間、(B)9間、397人」は船長書記役の記憶に基づく情報と言えそうです。 残念ながら、ここでも深さ(D)への言及はありません。 ただ、「20間(=120尺)×9間(=54尺)=6480」なので、大工間尺に倣えば、 便宜上「深さ(D)10尺÷定数10」「1000石=150トン」を目安として逆算してみますと、 6480石=1072トンなので、800トン<800/1072>で深さ(D)約7.46尺≒2.23m、 700トン<700/1072>で約6.53尺≒1.95m、500トン<500/1072>で約4.66尺≒1.39m。 確かに大工間尺の適否の問題は残ると思いますし、外洋船の堅牢な構造等を考慮 すれば定数は10~15などの高目の方になるのかもしれませんので、シビアな数値は 無理としましても、上記試算の如く一つの目安にはなるかと思います。 さて、角倉船の貨客の件。 実際には、途中寄港地で補給をしたでしょうから、30~60日分は多過ぎでしょうが… 400人×(体重)60kg=24000kg=24t 400人×(一畳)30kg=12000kg=12t 400人×(その他)10kg=4000kg=4t 400人×(飲水2L)2kg×(日数)30=24000=24t ~ 400人×2kg×60=48000=48t 400人×(米5合)0.75kg×(日数)30=9000=9t ~ 400人×0.75kg×60=18000=18t 400人×(他食糧)0.75kg×(日数)30=9000=9t ~ 400人×0.75kg×60=18000=18t 以上、大雑把で且つ極端な試算ではありますが、乗員・客員計400人として、 30日で82t、60日では134t、他にも航海に必需の道具・備品等を加算すれば、 商売貨物以外で30日計算では約100t≒666石、60日計算では150t=1000石を超えて いたのかもしれませんね^^ 再び『朱印船貿易史/川島元次郎/内外出版出版/大正10』に逆戻り、 ○「第二編 列伝/第五章 亀井茲矩」<158~171/333>(268~295頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965692/158 60萬斤(360トン)の国内建造を計画したり、シャムから80萬斤(480トン)の大船購入 の交渉をしたりと、この当時は一部の大名・役人・商人等に限られるとは言え、 60~80萬斤が当然のように語られる時代ではあったようですね。 あと、大工間尺より多い積石数の件。 〇「明治の北前船(石井謙治)」 http://kaijishi.jp/kuchie1.pdf …嘉永以降の北前船の多くは大工間尺(標準的な計算石数)六百石足らずの船体で 千石積に匹敵する荷を積んでいた。つまり二倍近くの積荷をしたわけで、…(中略) …明治十年北海道開拓使は、この積み過ぎを海難の主因とみて鑑札面の積石数(明 治四年の石数改方法則によるもので大工間尺の約四割増)以上の積荷を禁じたが、 …(後略)… 「大工間尺の約四割増以上の積荷を禁じた」などと、明治期のお話ではありますが、 逆に言えば「大工間尺の約四割増」まではOKと解され、 この限度はNo.3投稿の幕末の大工間尺1600石船の実力2300石<2300/1600≒1.43>とも 概ね一致することから、幕末の1600~1900石船を単純に1.4倍することで、 2240~2660石相当の実力を有したと見なすことが出来そうです。 以上 ネタ不足のため、今回は荒唐無稽な試算で遊んでみました^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 「天竺徳兵衛」についてはよく分かりました。 小まめに何やかやと書き残していたでしょうから、96歳であっても、船の寸法に関しては間違いないと思います。 疑問点は、いくつかありますが、何かの機会に調べてみようと思います。 以下は、質問ではありません。 1.「長さ」について。 『通航一覧.第8/林韑編/国書刊行会/大正2.11』の「通航一覽附錄 卷之二十一」によれば、二十五間。 『朱印船貿易史/川島元次郎/内外出版/大正10』の「第二編 列伝/第四章 天竺德兵衞」によれば、 二十間。 2.造船地について。 『通航一覧.第8/林韑編/国書刊行会/大正2.11』の「通航一覽附錄 卷之二十一」には、 ○ 天竺へ乘渡候角倉與市“唐船”は、長さ二十五間、(以下略) ○ 三本檣船禁制 按するに、文禄慶長の比より、京、堺、長崎の大商等御朱印を拝賜し、“唐造”三本檣の船にて、渡海商売せしなり、其船を御朱印船と称し(以下略)。 3.同じ船にもかかわらず「積載容量800トン」「500t級」の解釈。 #4のご回答をコピペします。 改めて手持ちの電子辞書『ブリタニカ国際百科事典』「角倉船」項目を覗いてみますと、 「17世紀初め、京都の商人角倉了以とその子与一が朱印状を受けて、安南国の東京 (トンキン)などとの貿易に従事させたいわゆる御朱印船の一つ。 京都の清水寺に寛永11(1634)年奉納された絵馬によると、3本マストの日本前型の 船とみられる。同3(1626)年にシャムへ渡航した船は、乗客、船員ともで397人、 およそ500t級の大型船と推定される。」と記述されていました。 後日、調べてみようと思います。 >以上、大雑把で且つ極端な試算ではありますが、乗員・客員計400人として、 >30日で82t、60日では134t、他にも航海に必需の道具・備品等を加算すれば、 >商売貨物以外で30日計算では約100t≒666石、60日計算では150t=1000石を超えて >いたのかもしれませんね^^ 私も千石を超えていたと思います。 お世話になりました。感謝申し上げます。

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  • Kittynote
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回答No.7

No.6投稿の誤算訂正の件m(_"_)m (誤算箇所) 6480石=1072トンなので、800トン<800/1072>で深さ(D)約7.46尺≒2.23m、 700トン<700/1072>で約6.53尺≒1.95m、500トン<500/1072>で約4.66尺≒1.39m。 (訂正後) 6480石=972トンなので、800トン<800/972>で深さ(D)約8.23尺≒2.46m、 700トン<700/972>で約7.20尺≒2.16m、500トン<500/972>で約5.14尺≒1.54m。 最初の段階で筆算誤りを犯してしまいました、 御質問板を汚し大変申しわけありません。 他の箇所でも、炊飯用の水が要るとか、一人一畳なんて持ち込まないだろうとか、 ツッコミどころは満載ですが、荒唐無稽な試算ということで御容赦下さい^^ 以上 お騒がせしました。

  • Pinhole-09
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回答No.5

先答にあった江戸幕府より認可を受けた、角倉了以の御朱印船の 角倉船ですね、 清水寺奉納の絵馬より、長さ20間(36m位)横9間(16m位) とあります。 これを沿海航路用の千石船(弁才船)と比べます。 図面が残って復元もされてをり、長さ29m、横7.5mとあります。 外洋用と沿海用で問題もあるので、高さは無視してそのまま計算すると 約2.6倍で、角倉船は二千五百~三千石船と推定出来ます。 700~800トンと推定した人もいます。 これより大きい船としては安宅船がありますが、軍船で荷船でなく あまりにも大きすぎ江戸まで曳航してやっと運べたと思われ、航行出来る 船とはいえません。 なお天保期大坂にあった幕府の御用米を運べる弁才船百隻余りの、 多くは千四百~千六百石積みで、最高のもので千九百石積みだった そうです。 二千石船は入港税が高かったのでしょうか。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org./wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E8%88%B9
kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり「角倉船」が最大のようですね。 >二千石船は入港税が高かったのでしょうか。 なるほど、税金のことまで考えるとさらに面白くなります。 入港税は、藩によって、湊によって異なったのでしょうか、新しい疑問で、質問のタネです。 ちょっと調べてみますと、ある藩では、積石数を諸公課賦課の算定に使用していたそうです。 北前船では、ちょっとでも安くて済むように、工夫をしている例がありました。 今でもトラックの過積載は、ときどき問題になっていますが、北前船では過積載は当然のように行われていたようです。

  • Kittynote
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回答No.4

再度、失礼致しますm(_"_)m 前投稿No.3の追加修正 (1) URL遺漏分 〇「ムガル朝時代のインド洋と日本/近藤治」 『追手門学院大学文学部紀要 29/1994-06-30』(137-153頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110008793188 <4/17>(140頁32・33行目) 1626年タイに向けて航海した別の朱印船は積載容量800トン、乗組員397人であった。 (2)「(積載容量)800トン」に関して 改めて手持ちの電子辞書『ブリタニカ国際百科事典』「角倉船(すみのくらぶね)」 項目を覗いてみますと、 「17世紀初め、京都の商人角倉了以とその子与一が朱印状を受けて、安南国の東京 (トンキン)などとの貿易に従事させたいわゆる御朱印船の一つ。 京都の清水寺に寛永11(1634)年奉納された絵馬によると、3本マストの日本前型の 船とみられる。同3(1626)年にシャムへ渡航した船は、乗客、船員ともで397人、 およそ500t級の大型船と推定される。」と記述されていました。 1000石≒150トン換算とすれば、積載容量800トンであれば約5300石相当のところ、 500トンならば約3300石相当と大幅な差となりますが、 残念ながら何れが実態に近いのかは判断出来ません(><) 以上 お騒がせしました。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 >1626年の角倉船の資料によると、その商船は長さ20間(約36メートル)、 >横幅9間(約16メートル)で約800トンとされている。 >乗員は397人で、水夫80人余、船長は角倉一族で、航海士などオランダ人、中国人を雇っていた。>残りの300人余が客商である。 外形寸法から推定すると、史上最大の「木造荷船」は、いろいろ疑問はありますが、どうやら「角倉船」のようです。 ただ、深さが不明なので、残念ですが大工間尺を計算できません。 推定トン数が500、700、800と資料によって異なっています。 京都清水寺に奉納された角倉船の絵図は、 「風俗画的表現に重点がおかれ、船の描写は二の次ぎであるため、船舶画というにはほど遠いものでしかない」ということですので、絵から船型の肝心な部分を推定できません。 船型が異なるので、大工間尺の考え方をそのまま当てはめてよいのか、分かりません。 それに、三百人の客を乗せる構造ですから、貨客船とみることもできます。 また、積荷が米ではなく、金、銅、銅貨他いろいろです。 朱印船は、シャム、明で作られたものが多いそうで、ジャンクそのものかまたはその類型だそうです。 まだ、調べていませんが「角倉船」がどこで作られたのか疑問です。 日本財団図書館 「船の科学館 物知りシート」 https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00033/contents/031.htm 朱印船に用いられたのはミスツィス造りとか日本前(にほんまえ)と呼ばれたジャンク(中国船)で、中国やシャム(現在のタイ)などから購入されたほか、国内でも建造されました。遣明船のように国内海運の大型商船を朱印船に転用した例は見当りません。  具体的な朱印船の姿は、寛永11年(1634)に長崎と京都の清水寺に奉納された絵馬からうかがうことができます。なかでも、長崎の末次船の絵馬は朱印船の姿をリアルに描いていて、最末期の朱印船が中国船をベースにしながら帆装の一部や舵と船尾回りに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、船首楼を日本独特の屋倉形式とするなど、中和洋の技術を折衷したジャンクであったことを今に伝えています。 学生が創る人間科学大事典「朱印船」 http://kwww3.koshigaya.bunkyo.ac.jp/wiki/index.php/%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E8%88%B9 現在、10点ほどの朱印船の絵が残されているが、こうしたものを見ても「日本前(にほんまえ)」、あるいは「朱印前」と呼ばれた朱印船は、みな中国式のジャンクをベースとして、これに西欧のガレオン船の技術を取り入れ、それに日本の伝統的技術を加えた折衷形式の船であることがわかる。これらは中国やシャムなどで購入されたが、一部、日本でも造られた。1617年(元和3)、平戸藩の重臣佐川信利が平戸で建造したのはその一例である。 朱印船の積載量は、小さいもので薩摩の島津氏が福州で購入した12万斤(きん)積(480石、載貨重量72トン)から、因幡の亀井氏がシャムから購入した80万斤(きん)積(3200石、載貨重量480トン)までかなりの差があった。 (参考文献 朱印船  吉川弘文館  永積洋子 著) 知らない用語が多く、例えば、 「積載容量800トン」(一説には単に500トン級の記述も)をどのように解釈すればよいのか、迷っています。 「容量○トン」ですから、重量なのか、容積なのか、迷っています。 「載貨容積トン数」と言う用語がありますから。 どちらにせよ、沿海航路用の弁才船より、外航用の朱印船の方がかなり大きかったことは事実です。 次に、いわゆる「千石船」では、幕末に作られた1900石積が最大のようです。 「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』によれば、 幕末(安政期から文久期)に船の大型化傾向が進み、「第5表 九店差配廻船明覧」には、 積石数1900石船が多数あります。 ついでに、(ただ、抜書きするだけですが)まとめておきます。 1.「なにわの海の時空館」の実物サイズの忠実な復元「浪華丸」は、全長29.4メートル、船幅7.4メートル、深さ2.4メートル。 荷物の積載可能量は 千石積ですので1000x0.15トン=150重量トン。正確に積石数八六五石とした資料もある。 2.舞鶴市神崎の湊十二社に奉納された「大弊丸」の雛形から推定すると、 「実船に換算して、(全長は121.1尺)、航長さ五九・一尺、肩二七・九尺、深さ九・○尺で、大工間尺石数は一四八四石」。 3.幕末の菱垣廻船”歓晃丸”は航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、 肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて10で割って積石数を求める大工間尺に よると1836石となりますが、実力は2300石余りあったようです。 (参考) 4.慶長年間に造船された、伊勢神宮の御用材運搬船「太一丸」は、全長約113尺・航長約93.8尺・肩幅35.5尺・深さ10.5尺です。大工間尺3496石積。 日本財団図書館「伊勢地域活性化に資する木造船建造・技術伝承事業」 https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00187/contents/0031.htm  歴史を楽しむことができました。 よいヒントを与えて下さったことに感謝申し上げます。

  • Kittynote
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回答No.3

・船の科学館>施設案内>別館展示場 出版資料/図書のご案内 http://www.funenokagakukan.or.jp/sc_01/mini_tosyo.html ○『船の科学館 資料ガイド10 弁才船 菱垣廻船/樽廻船 /(財)日本海事科学振興財団 船の科学館/平成22.3.30』 上記図書が参考になりましたが、直リンクが無い様子なので、 簡単アクセス方法は、Googleにてキーワード”[PDF]復元弁才船 - CANPAN”検索、 2番目に表示される「[PDF]復元弁才船-CANPAN」ファイルが上記図書と概ね同等の ようですから、未読でしたら御覧になってみて下さい。 上記ファイル中<30・31/37>から得られた主な情報。 弘化3年(1846)に結成された九店仲間は安政4年(1857)には1600石ないし1900石積ク ラスを39隻就航。ただ、石数で表現する規模はいささか不正確で、 吃水の取り方によって積石数はかなり変化したとかで、 例えば、幕末の菱垣廻船”歓晃丸”は航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、 肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて10で割って積石数を求める大工間尺に よると1836石となりますが、実力は2300石余りあったようです。 ※ 菱垣廻船”歓晃丸”情報は、下記などにも。 ただし、上記の大工間尺1836石(※51.5×31×11.5÷10=1835.975≒1836※)に対し、 下記では1569石5斗(※?51.5×31=1596.5?※)とあって計算根拠は?ですが、 実積2300石は玄米の場合とか。 ・『大阪市史.第5/大阪市編/大阪市/昭和2』 ○「菱垣廻船歡晃丸圖解略說」<235~264/588>(413~470頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1218282/237 <237・238/588>(417頁下段~418頁上段) 船歷 本船ハ慶應三年灘御影嘉納治作氏ノ注文ヲ受ケ、余ガ先々代武兵衞ノ製造セ ル(※嘉永元申五月新造)所ニシテ、其船量ヲ示セバ、船長サ 五丈壹尺五寸 船幅 三丈一尺 深サ 壹丈壹尺五寸 五尺ヲ以テ壹尋ト稱ス 此才千五百六拾九石五斗 實積量貳千參百石余 貨物ノ性質ニ依テハ、積量ニ差異アリ、嵩高ニシテ輕キモノト、嵩低ニシテ重量ナ ルモノトハ大差アリ、茲ニ實積量貳千參百石トセルハ、玄米ヲ積ミテノ事也、酒油 樽等ニ於テハ多クノ空隙ヲ生ズレバ、余リ多クヲ積ムコトヲ得ズ 九店差配廻船明覽安政五年四月改浪花菱丸軒著ニ 大津屋權右衞門定仕建 攝州御影 嘉納治作船 沖船頭砂太郎乘 生國藝州因ノ嶋本名米吉 嘉永元申五月新造 一千六百石積 觀晃丸 江戸利倉屋 トアリ、本船前代ノ廻船ニシテ、觀ハ歡ノ誤ナルベシ、…(後略)… ※ なお、「大和形船製造寸法書」に引用された「讃岐国小豆島造船書ノ抜粋」によると、 実在したかどうかは別として、船大工は弁才船の規模の上限=最大級の弁才船は 航長80尺(24.2m)、肩幅40尺(12.1m)、肩深14尺(4.2m)で大工間尺4480石の木割り (船部材寸法書)を示していたようです。 ※・『大和形船製造寸法書/逓信省管船局/明35.4』 「第二參考 讃岐國小豆島造船書ノ抜萃」<64/104>(122・123頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847251/64 ※ 弁才船以外では、安宅船(軍船)に大規模なものが見られ、志州鳥羽で建造された 伊勢船形安宅船”太一丸”は航長93.8尺(28.4m)、肩幅35.5尺(10.8m)、肩深10.5尺 (3.2m)で大工間尺で表現すれば3496石。 また、最大の和船としては寛永8年(1631)に三代将軍家光の時代に大御所秀忠の発案 で向井将監忠勝に命じて作らせた軍船“安宅丸”、船体は洋式で弁才船構造とは異な る点に注意を要しますが、竜骨長125尺(37.9m)、肩幅53.6尺(16.2m)、肩深11尺 (3.3m)、大工間尺で7370石と桁違いの大きさ。 続いて、幕末の状況を少し覗いてみますと、 〇「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」 『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』(63-77頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110001163629 <13/15>(75頁) 「第5表 九店差配廻船明覧」には、積石数1600~1900が並んでいることから、 17段目の大津屋権右衛門定仕建「観(※歓)晃丸 1600」と同様に何れも2300石積 あるいはそれ以上の石積の実力があったものと推定出来ます。 さて、幕末から一気に遡り2000石超の遣明船について、少し調べてみましたところ、 信濃国開善寺の僧天与清啓が、1468(応仁2)年に遣明使正使となって渡航した時の 記録を、天文期(1532‐55)に2度渡明した策彦周良が参考のために抄録したものと される「戊子入明記」によれば、1468(応仁2)年当時、使節船用に2500石の船は存 在したようですが、2500石船の和泉丸は「不渡唐也」とあってどうやら渡航には至 らなかったようです。 ・『続史籍集覧.第1冊/近藤瓶城編/近藤出版部/昭和5』 ○「戊子入明記」<238~255/315>(469~502頁) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259144/248   <248/315>(488頁) 一  可(L)成(=)渡唐(-)船分  豊前國 門司 (※和)泉丸 二千五百斛(※石) 是ハ大舩ニテ不渡唐也 なお、電子辞書『ブリタニカ国際百科事典』「遣明船」項目には、 「15世紀後半以後は1500~2000石積みの大型船(民間船をチャーターして改装)が主」 と記述されていますが、個別具体的な時期・船名は?です。 あと、またまた江戸期に逆戻りです。 木造?仕様など詳細は明らかではありませんが、 「積載容量800トン」の気になる記述。 1000石≒150トン換算とすれば、積載容量800トンでは約5300石相当。 〇「ムガル朝時代のインド洋と日本/近藤治」 『追手門学院大学文学部紀要 29/1994-06-30』(137-153頁) <4/17>(140頁32・33行目) 1626年タイに向けて航海した別の朱印船は積載容量800トン、乗組員397人であった。 〇「角倉了以・素庵 : 世界に先駆け、経営倫理を実践(自由論題)/ 武藤信夫・佐藤陽一」・『日本経営倫理学会誌(9)/2002-03-31』(115-123頁) http://ci.nii.ac.jp/naid/110007889565 <3/9>(117頁左側9~14行目) 1626年の角倉船の資料によると、その商船は長さ20間(約36メートル)、横幅9間 (約16メートル)で約800トンとされている。乗員は397人で、水夫80人余、船長は角倉 一族で、航海士などオランダ人、中国人を雇っていた。残りの300人余が客商である。 以上 断片情報の寄せ集めに過ぎませんが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しく調べて下さって真にありがとうございます。 なかなか難しいですね。 知らない用語がいっぱい出てくるので、前進しません。 「大工間尺」も知らなかったのですが、これを基準に考えるとよさそうです。 「実積石数」とは差がありますが、“数値”として明確ですから。 ご回答の中から「大工間尺」を指標にして最大の木造荷船を選ぶと「嘉永元申五月新造 一千六百石積 觀晃丸」ですね。 『大阪市史.第5/大阪市編/昭和2』の「菱垣廻船歡晃丸圖解略說」によれば、 「船長サ 五丈壹尺五寸 船幅三丈一尺 深サ 壹丈壹尺五寸 五尺ヲ以テ壹尋ト稱ス  此才千五百六拾九石五斗實積量貳千參百石余」とあります。 ところが、『船の科学館 資料ガイド10 弁才船 菱垣廻船/樽廻船』によれば、 「航長51尺5寸(15.6m)、肩幅31尺(9.4m)、肩深11尺5寸(3.5m)でこれらを掛け合わせて 10で割って積石数を求める大工間尺によると1836石となりますが、(以下略)」とあります。 同じ船でも何故か約3百石近い差があります。 一方は、「船長サ 五丈壹尺五寸」であり、他方は「航長51尺5寸」です。 「船長さ」は、見た目で分かる“全長”だと思います。 「航長」は、船底の前後方向の長さですから、全長よりはかなり短いです。 どちらかの記録(計算)が正しいのですが、おそらく大阪市史の「船長さ」は「航長」を指していると思います。 下記の「大弊丸」と比較すると、一千六百石積だと推定します。 私がネットで調べた中では、舞鶴市神崎の湊十二社に奉納された「大弊丸」の雛形から推定した 「実船に換算して、航長さ五九・一尺、肩二七・九尺、深さ九・○尺で、大工間尺石数は一四八四石」が最大です。 因みに、この船の全長は121.1尺です。 日本海事科学振興財団「雛形から見た弁才船 下 付録」 http://fields.canpan.info/report/detail/16319 しかし、大弊丸よりはるかに大きな船が、たくさんあったのですね。 「九店仲間の結成と廻船支配/柚木学」 『商學論究 22(3/4)/関西学院大学/1975-02』(63-77頁) には、積石数1600~1900が並んでいます。 >なお、「大和形船製造寸法書」に引用された「讃岐国小豆島造船書ノ抜粋」によると、 >実在したかどうかは別として、船大工は弁才船の規模の上限=最大級の弁才船は >航長80尺(24.2m)、肩幅40尺(12.1m)、肩深14尺(4.2m)で大工間尺4480石の木割り >(船部材寸法書)を示していたようです。 こんなに大きな船を作る技術があったと言うことでしょうね。 接岸できる湊があったのか、沖合いでの荷積み・荷降ろしの作業性を考え始めると、またまた深みにはまってしまいそうです。 先送りしておきます。 次に、遣明船。 Wiki「遣明船」には次のように「500~2500石の船」と記載されており、これが質問の発端です。 「また、『入明諸要例』では同次遣明船について500~2500石の船が門司、富田、上関、柳井、尾道、鞆、田島、因島、牛窓に配されたとしている。いずれにせよ、遣明船には相当の大型船が用いられたと考えられる。」 「戊子入明記」に2500石の船の記録があるのですね。 記録の上では、これが史上最大の木造荷船になるのでは、と思います。 『続史籍集覧.第1冊/近藤瓶城編/近藤出版部/昭和5』を見つけ出してこられるのは、私には及びもつかぬことで、大変参考になりました。 数々のご教示、真にありがとうございました。

  • ithi
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回答No.2

kouki-koureisya さん、こんにちは。 織田信長が九鬼嘉隆に作らせた安宅船はいかがでしょうか?その中でも日本丸は2,500石積載できたようです。 詳細は下記のURLを参照ください。 安宅船 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9 日本丸 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%B8_(%E5%AE%89%E5%AE%85%E8%88%B9)

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 軍船は、どでかいのがあったでしょうね。 ただし、木造荷船でさがしています。

  • kia1and2
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回答No.1

日本で最初に作られた太平洋横断もできる外洋船は、1612年仙台藩主伊達正宗が建造させた横5間半(約10メータ)、長さ18間、高さは14間1尺5寸、帆高は16間3尺の松の木の船で、弥帆柱も松で9間1尺5寸、で現在風の総トン数に換算すると約500トンの船です。船名は日本名でなく「サン・フアン・バウティスタ号」で日本人が太平洋横断の航海技術なしでスペイン人によって航海。日本人でこの船の初航海で太平洋を渡ったのは140数名です。 これを後援したのが、69歳の爺さんになっている徳川家康です。 この船の復元されたのが1612年の初航海に出た日と同じ平成10月28日に16億円の費用で作られています。 これ私の頭の中にある記憶だけで書きましたので、70過ぎの婆さんになっているので記憶間違いがあるかと存じます。これを機会にもう一度調べなおしてみます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 これは大きいでしょうね。 太平洋を横断するために作ったのですから。 外形寸法が分かる当時の図面か記録があって、復元したのでしょうか。 ちょっと調べてみます。

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