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《わが時》を離れ天使を演じようとすると獣を演じる
信仰は 動態である。 だから 日から日へ送る生活の中でそれを確認する《わたしのとき》があるかも知れない。 その時は あやまちから我れに還るわが固有の時でもあるはずだが パスカルに言わせれば この時を心の外側において社会的な制度として持つ場合があると言う。字面に現われるほどには必ずしもよいと言っているのではないと思うのだが 特定の宗教のこととして次のように言っている。: ▲ (パスカル:信仰を保とうとする・心の外なるいわゆる《告解》の制度) ~~~~~~ 恐ろしいことだと私はおもうのだが。 カトリック教は 自分の罪を誰にでも無差別にうちあけるようにしいはしない。ほかの人には誰に対しても匿していてかまわないといってくれる。 ただし唯一人例外がありこの人に対してだけは心の奥底をうちあけ自分のあるがままを見せるように命ずる。カトリック教はただ一人この人にたよってのみ迷いを解くがよいと命じ またこの人は 知っていても知らずにいるかのようにしていてくれる。 これほど愛に富んだやさしいことがほかに考えられようか。そうであるのに人間の堕落した心は この定めをさえ苛酷なものと見るほどに 甚だしい。 (『パンセ(瞑想録)』 100 津田穣訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 早い話としては あやまちを侵した自分自身の惨めさを打ち明ける相手は――恥づべき真実を他人には知られたくないとすれば―― 《己れたるわたし》であればよいわけだ。 ところがそれは内に籠もりやすく この自分自身について自信も信頼も持てなかったり さりとて外側で懺悔を聞いてくれる告解師の制度もない場合には あたまの中で思考をとおして処理しようとする。らしい。 要するに 理念の追求だとしても総じて観念をもてあそぶかたちに成りやすい。と言う。この観念によって《わたし》が 《わが固有の時》を離れるなら どうなるか?: ▲ (心の内において《告解》を展開するばあい) ~~~~~~~ 徳(* 自信でもある)を大小二つの極端にまで推し進めようとすると もろもろの悪徳があらわれる。 小さいほうの端では 人に知られないような道をとおって 人に知られないように忍びこんで来る。 大きいほうの端では 大きな塊となって現われる。 こちらの場合では 人びとは その悪徳の中に迷いこみ 徳がもはや見えなくなる。 そこで人は 完全なもの〔という理念〕にしがみつく。(『パンセ』 357) 人間は天使でもなく獣でもない そして不幸なことに 天使を演じようとする者は獣を演じる。(358) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 徳ないし自信が へんな自信となって現われる。:《わが○○なる神は 唯一絶対の神なり。○○神を措いてほかに神はない》と言ってアマのイハヤドに閉じこもる。 お出ましとなったときには 精神 充足 平和 人権 協力を声高にさけぶようになる。 以上のようではないかと問います。
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- 畑 茂夫(@Flareon)
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読後感だよ。 その何とかさんは自己を哲学しないで、社会を哲学したんだ。 すなわち単なる分析だ。 ケモノがどーのこーのは、私が単刀直入に要求している例のやつだ。 悪魔すらも愛せ。 かの死刑囚を立てるとき、そもそも君達は悪魔として愛されるのだ。
「人間は天使でもなく獣でもない そして不幸なことに 天使を演じようとする者は獣を演じる。」←これを重んじるのなら あなたも獣 そして あなたに回答するものも獣 それだけの事・・
補足
結論は 分かりました。 その理由は どういう推論になりますか?
お礼
そう言えば このところこのカテは 低調ですね。 ピタッと動きが止まったように見えます。 さて どうなりますか。実際は どういう動きになっているのか。 ご回答をありがとうございます。