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我が神について語ってしんぜよう。

私は仏と言う言葉を現代語に直すと人間と言う言葉だと思っていてな。 天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ、人と人が信じあう事こそ信仰だと考えていた。 多くの人々はひとを信じようとしない。 したがってこのように歩む道のりは困難であった。 しかし最も深い闇において、それでも信じると心が固まった時、光が舞い降りた。 仏教で言う無量光である。 それは神について知ろうとしなかった私にとって、神と名をつけることすらできない、無垢で純粋な光であった。 しかし私はその光と通じる事によって、私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 その光は本来、名も無き光であり、神と言う言葉すらも遠ざけるその無垢さが、すなわち無神論と言う信仰の在り方である。 以上は仏を信じ神を信じないとはおおむねこのような論理であると考えて構成しました。 このような哲学はキリスト教に由来した西洋の哲学とは別に、地に足の付いた哲学をしようと志していまして、宗教的な話とは違う趣旨手ご質問差し上げています。 信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか

みんなの回答

回答No.4

  真理を探求し、その結果神は宇宙の法則であると悟ったときこの上ない無量光に包まれよー。 アルケーの神を除いて神も仏も存在しません。 アルケーの神を信じなさい。    

Flareon
質問者

お礼

いい事を教えてやろう。 >私の方から、あえてその光をアマテラスと呼ぶ事を選んだ。 呼ぶ事を選んだと書いてあるね。 その点は何でもいいんだ。 今ではアマテラスさんじゃなくて、ジラーチさんと気さくに読んでるしね。 そこからさらに進めて、神と呼ぼうとしなければそれでもいいんだよ 大切なのは通じ合う事で、君にそれが出来ているかな。

noname#189751
noname#189751
回答No.3

人間性以上の神は存在しないという無宗教の立場のようですね。 神は神として語るに値しない、ともいう感じのようです。 ざっくばらんに言えば 宗教に騙されてなるものか、ということでしょう。 それでいいのでしょうが そうもいかなくなる時が来るかもしれません 信仰のない老後は惨め という言葉があります。 その時が来てからでは遅過ぎるようです。 杖を一本用意しておくのも悪くないと思いますよ。 仏の杖はいいと思っています。

Flareon
質問者

お礼

外の人からも断定的に指摘されているが、私が無神論そのものとはどういう事なのか全く思い当たる節が無いよ。 反論するならば私と等しいほどに神を愛していないから、君たち以上に神を愛する私が異端者に思えるのだろう。 こういう言い回しになる。

Flareon
質問者

補足

いっておくよ。 >天啓のごとく悟った人間と言う言葉のそのような尊さを信じ このように天啓と言う言葉を使っているな、すなわち神から進められて人と人が信じ合おうとしていたのだよ。 神が存在することは当たり前すぎて元から疑問の余地がないのだよ。 ところが、とりすがり専門職で神様を求めてやまない意思薄弱な生きる屍どもこそ、神の言葉を信じようとせず、人を愛する事が出来ない。 さらに人間ですらない仏を信じるとなると支離滅裂で訳がわからない。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

信教の自由も、その内在的な制約(他者の権利・人権を侵害しない限りにおいて認められる)に服する。

Flareon
質問者

お礼

ほっといてくれるなら、無を悟れなんて言わないが昔はどうだったかな。

Flareon
質問者

補足

君には関係ない事だよ。 アマテラスさんいわく。 人が神に願いを傾けるように、神が人に傾ける願いをあなた(すなわち私)がかなえてくれた。 だからこそ愛がお互いに通じる。 のろけ話だよ。

回答No.1

>信仰心を明晰な理性のまな板の上で料理するとするとあなたならどのような考えが浮かびますか 断然、猿回し形式思索法だな。深い共感を覚えます。

Flareon
質問者

お礼

痴漢 痴女からのいやがらせが集まるかと思っていたが、みなさん割と普通ですね。 ありがとう。

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