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旧日本軍は、仏領インドシナに飛行場をつくりましたか
東京裁判である判事が、東條英機に「飛行場が南向きにできている。これは南方(シンガポール方向)へ侵攻したかったからだ」と質すと、東條は「南方からの攻撃を迎撃するためだ」と答えたそうです。 質問ですが、 1.軍用飛行場をどこにつくったのですか。その飛行場の滑走路は南向きですか。 2.そもそも、滑走路の向きは地形や風向きで決めると思いますが、そうではないのですか。 判事が“向き”について質した意図は何ですか。 よろしくお願いします。
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こんにちは 日本軍の仏印進駐後は、フランス(ビシー)政府と交渉して、飛行場の使用を認められて使っています。新規に飛行場を造成したのではなかったと記憶しています。ただし、拡張工事はしています。マレー侵攻作戦、マレー沖海戦の、航空基地としては、南部のサイゴン基地(タンソニュット空港)、ツドゥム基地が利用されたことが記録に残っています。マレー沖海戦では、両基地共に、プリンス・オブ・ウェ-ルズとレパルスの行動海域との距離が、作戦航続距離ぎりぎりで、戦闘可能時間が短いことが、事前に予想されいました。英国側に掩護の飛行部隊がなかったために、短い戦闘時間でも撃沈できた要因の一つであるとされます。ともかく、マレー進攻に伴う記録の中に、仏印の日本軍の基地については出てきます。滑走路の向きについては現在の地図・航空写真で見ると、タンソニュット空港は東西に主滑走路があり、南北には昔滑走路があったような跡が見えます。ツドゥム基地についてはそれらしき跡(滑走路は東西)があるのですが、基地跡と特定できませんでした。 ところで、「戦跡の歩き方」というHPがあって、その中に、仏印のサイゴン・ツドゥム基地についても記載がありますので、ページのURLをコピーしますので参考に。 サイゴン・ツドゥム基地 http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/vietnamhochimin/area11.html 戦跡の歩き方 http://sakurasakujapan.web.fc2.com/index.html ともかく、イギリスは日本軍にシンガポールの陥落と、プリンス・オブ・ウェ-ルズとレパルスの撃沈を許したことがよほど名誉を傷付けられたと感じたようで、言いがかりに近い言辞をすることがあって、判事の質問も、そのようなことに発するのではないでしょうか。答えた東条も良く分かっていないーフランスから借りたことーように思えますが。 簡単ですが、参考まで。
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- fumkum
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追記になりますが。 南部仏印に進駐したときに、航空基地(飛行場)8箇所、海軍基地2箇所の使用を協定したとの記述がありました。サイゴン・ツドゥム・そして、ソクトランの空軍基地以外に5箇所借りたことになります。なお、海軍基地の一つは、カムラン湾で、バルチック艦隊も停泊し、ベトナム戦争ではアメリカ海軍の最重要軍港であったことを思うと、何か、感慨があります。何しろ、私の世代では、戦争と言えばベトナム戦争なので。 別の金800枚の質問について、回答で気になったので、言わずもがなの回答ですが、追記をしました。今後も、気になさらずに質問を続けられますように。期待しています。 なお、譲葉金だけでなく、戦国時代は、武田信玄の碁石金・太鼓金(単位は両・分・朱で江戸時代の原型)などのように、金を鋳造するようになっています。また、金の枚という単位についても、三条西実隆(1537年死亡)の日記に、今川氏から金五「枚」を贈られたとする記述があります。
お礼
再度のご回答真にありがとうございます。 南部仏印に航空基地(飛行場)8箇所、海軍基地2箇所も使用の協定を結んでいたのですね。 カムラン湾とトンキン湾を思い出しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 よく解りました。 新規につくったのではなく、フランスがつくった飛行場を利用したのですね。 これをヒントに調べてみますと、ツドウム基地は、滑走路を200m延伸したが、工事がうまくいかず、12月7日まで海軍航空隊は待たされたそうです。 新規につくるのは大変です。 >言いがかりに近い言辞をすることがあって、判事の質問も、そのようなことに発するのではないでしょうか。 そうですね、結局“言いがかり”、この一言に尽きますね。 >答えた東条も良く分かっていないーフランスから借りたことーように思えますが。 なるほど、そういうことでしょうね。 「戦跡の歩き方」のサイトは、とても参考になりました。