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旧日本軍の軍閥とは。

昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官・田島道治の「拝謁記」には、 昭和27年5月8日の拝謁では、天皇のご発言として 「私は再軍備によつて旧軍閥式の再抬頭(たいとう)は絶対にいやだが去りとて侵略を受ける脅威がある以上防衛的の新軍備なしといふ訳ニはいかぬと思ふ」と記されています。 旧日本軍の「軍閥」とは何ですか。 どんな軍閥があったのですか、教えてください。 陸軍と海軍との対立を指しているのではないですね。 よろしくお願いいたします。 参考:NHK政治マガジン https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/21572.html

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  • D-Gabacho
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回答No.5

https://kotobank.jp/word/%E8%BB%8D%E9%96%A5-58455 コトバンク「軍閥」より 精選版日本国語大辞典「軍閥」の解説 ①出身や閲歴などによる軍人の派閥。 ②軍事力を背景にして特権を握った軍人の一団。日本では、明治維新政府を樹立した薩摩・長州出身者による派閥とともに、統帥権独立の憲法上のたてまえのもと、軍が議会及び政府に対し、独立的特権地位を形成した。第二次世界大戦前にはその勢力は極点に達したが、終戦とともに崩壊した。 ご発言当時の状況や文脈からみて「軍閥」は、上記②の意味だと思います。No.4回答さんと同じです。 当時、再軍備にともなう「軍閥」復活への懸念の声は、昭和天皇に限らずいろんなところから出ていたようです。 たとえば、第十三回国会衆議院厚生委員会議録第十一号(昭和27年2月29日)によれば、厚生省の引揚援護庁に資料整理部長として勤務する服部卓四郎(旧陸軍大佐で参謀本部作戦課長。東条英機の陸相秘書官)らが再軍備計画に直接関係していると新聞報道されていることを社会党の岡良一が指摘したのに続いて、共産党の苅田アサノは服部卓四郎の勤務する資料整理部の業務内容に疑問を呈し、引揚援護庁が「何とかして旧軍人軍閥の勢力を温存したいという一つの逃込み場所」と想像できるとしています。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999337/19 また、雑誌記事検索で「軍閥」を検索すると "廻れ右"の政治―本質は軍閥下の政治だ!(『改造』1952年6月) 日本軍閥的亡霊を祓ふ(『文藝春秋』1953年8月) 軍閥官僚政治への赤信号(『文藝春秋』1954年) といったタイトルが出てきます。これらの「軍閥」も②の意味でしょう。

kouki-koureisya
質問者

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ご回答ありがとうございます。 戦後しばらく経ったころ、「軍閥」という言葉が②の意味で使われていたのですね。 よく分かりました。 陛下のご発言もこれで筋が通ります。すっきりしました。

その他の回答 (4)

  • jkpawapuro
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回答No.4

うーんここで陛下がいう軍閥とは、軍隊内の派閥のことではなく、軍の持つ政治力が政党の力や天皇大権を上回り、軍が政治を欲しいままにする状態を言うのだと思います。 だから、ここで言う軍閥は陸軍もしくは海軍そのもの(まあ特に陸軍でしょうが)、あるいは陸軍の持つ政治力全体かと思います。 そもそも大日本帝国憲法には”天皇は陸海軍を統帥す”とあり、軍隊が独自の意思や政治を持つなどあってはいけないのです。 軍部大臣現役武官制 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E9%83%A8%E5%A4%A7%E8%87%A3%E7%8F%BE%E5%BD%B9%E6%AD%A6%E5%AE%98%E5%88%B6

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 よく分かりました。同感です。 軍が武力を背景に軍政を敷いたことを「軍閥」と表現されたということですね。

  • pri_tama
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回答No.3

軍閥  軍人が本来の公的な職権を越えて、同僚や部下と私的に結合し、その軍事力を背景に政権に関与ないし掌握したり、特定地域の政権を独占した場合の政治・軍事機構またはその集団をいう。 代表的なのだと以下の事例かと思います。 艦隊派(海軍)  政府が締結したロンドン海軍軍縮条約に反発し、統帥権干犯問題引き起こし政府による軍の統制を拒否する流れを作り出す。  後に起きる5・15事件(海軍青年将校による内閣総理大臣犬養毅の暗殺)の首謀者たちの判決が軽いものであった事から、彼らを英雄として取り込むといったこともやっている。 皇道派(陸軍)  天皇親政の下での国家改造(昭和維新)を目指し、陸軍青年将校らが2・26事件(1,483名の下士官・兵を率いて実施した日本のクーデター未遂事件)を起こす。  陸軍には、2・26事件を起こした青年将校への同情心も強かったが、昭和天皇の鶴の一声で鎮圧を決定し、皇道派の首脳陣は予備役編入が決定し、後の統制派の躍進に繋がります。  (事件当時関東軍憲兵司令官だった東條英機によって、満州にいた皇道派が根こそぎ逮捕・獄舎に送られた事で、統制派の一派である満州派による関東軍の暴走を抑止できなくなります。) 関東軍[満州派](陸軍)  政府の度重なる不拡大指示を無視して満州国建国と統治を終戦まで続けてしまう。  これは、政府と軍の大元帥たる天皇の命令を完全に無視しており、明確な軍機違反(死刑)であるが、首謀者の逮捕はおろか追従者の抑止すら出来なかった…。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 3人集まれば派閥ができると言いますから、何百万人という軍隊に派閥ができるのは当然 ですよね。 旧日本軍は、一致団結の塊だと思っていましたが、派閥(軍閥)の中だけで団結していたという感じです。

  • eroero4649
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回答No.2

大日本帝国軍における軍閥とは「軍隊の中における派閥と、その派閥争い」のことを指しますね。もしかしたら質問者さんの中では企業と結託して日本を裏から支配しようとする闇の勢力みたいなイメージがあるかもしれませんが、実際のところは自民党の派閥政治みたいな感じです。 昭和の大日本帝国陸軍においての二大派閥が、「皇道派」と「統制派」でした。皇道派ってのは、「なんか政治家ってみんな腐っているから、そいつらを全部排斥して天皇の親政にすればきっと世の中よくなる」と思っている人たちです。ずいぶん単純な連中じゃないかと思うかもしれませんが、今の自民党も野党も腑抜けで責任感もまるでないから、こいつら全部クーデターでぶっ殺して天皇を中心とした新しい政治体制を作ったら日本もマシになる!・・・という気がしないでもないでしょう・笑?次の選挙は自民党に入れますか?それともどこか野党に入れますか? そんな皇道派に対抗した「反・皇道派」ともいうべき勢力が統制派でした。 皇道派の主な人物は、荒木貞夫、真崎甚三郎、山下奉文といった面々で、右翼活動家の北一輝らと非常に近い関係でした。 一方の統制派は、永田鉄山、東条英機といったような面々です。皇道派と統制派は時に激しく対立し、統制派というか反・皇道派の筆頭ともいうべき永田鉄山は皇道派の軍人に暗殺されるほどでした。ただまあ、このあたりは陸軍における主流派争いといったほうが実態に近いと思います。自民党の派閥争いと同じです。どこの派閥から首相を出すのか、みたいな。 さて皇道派の面々を見て、ちょっと詳しいならムム?と名前を見て思ったと思います。そう「北一輝」です。二二六事件の黒幕といわれたこともある人物です。 二二六事件は、皇道派の青年将校たちが起こした事件だったのです。青年将校たちは事件直前に皇道派の重鎮である真崎甚三郎に「もうこれ以上我慢することはできない」と決起を示唆する態度を伝えます。それに対して真崎は「お前たちの気持ちはよく分かった」といったといいます。 これを青年将校たちは「決起したら真崎が応援してくれる言質をとった」と解釈し、二二六事件を起こします。 真崎もこの事件をきっかけに自分の影響力を強めてやろうという下心がどうやらあったみたいですが、二二六事件は思わぬ方向に向かいます。なんと昭和天皇その人が事件を起こした青年将校たちに激怒し「朕自ら一軍を率い、奸臣を撃たん」とまでいったのです。これを知った真崎はびっくりして掌返しをします。青年将校たちに「あのな。なんか陛下がめっちゃ怒っとる。どうにもならん。諦めろ」といったのです。青年将校たちは自分たちを応援してくれると思った親分に思いっきり梯子を外され、またよりにもよって天皇が激怒していると聞いて驚いて「違うんです。僕らは陛下に忠節を誓っているからこそ奸臣(政治家たち)を排除しなけりゃいけないと思ったんです。僕たちの気持ちを聞いてください」と頼もうとしましたが、天皇自らによって逆賊指定されてしまったのでそれも叶わず、「お前らのせいで部下(何もわからぬまま付き合わされた一般兵士)も逆賊扱いになって殺されるんだぞ」と説得されて、青年将校たちは投降するに至りました。 事件後の裁判は非公開となり、青年将校たちは処刑されました。 この非公開の軍事裁判で、青年将校たちは真崎甚三郎との間のやりとりをいった「真崎に梯子を外された」と訴えましたが、真崎も「いやお前たちのそういう気持ちはよーくわかったってことをいっただけで、(反乱を)やれなんて一言もいってねえよ」とありがちな言い訳をしました。これ、現代の会社でもよくありますね。何かが失敗すると上司が「俺はやれとは一言もいってねえよ。いいね!とはいったけどさ」と責任をとらないこととかね。 この事件前の真崎と青年将校たちのやりとりは長い間知られていませんでしたが、当時の裁判官の一人がものすごく丁寧かつ詳細な裁判記録を残していました。彼は生前その資料があることを家族にも口外しませんでした。公的な裁判の詳細な情報を私的に所有することは裁判官として許されない行為だからです。 しかしその方がお亡くなりになった後に押し入れからその資料が出てきて、それがご遺族の意志によって公開され、研究者やNHKなどによって詳細に研究されたことで今まで分かっていなかった多くの事実が明らかになりました。「歴史の謎」が解ける瞬間ですね。 さて話を皇道派に戻せば、この二二六事件の失敗によって真崎甚三郎を始め皇道派は失脚し、統制派のリーダー的存在だった東条英機が陸軍の主流派となり、やがて彼の時代になって日本は日米戦争に進むことになります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、二二六事件の記憶が、戦後、このような発言につながったのかもしれませんね。 陸軍の軍閥の対立を憂慮されたというわけですね。

noname#252332
noname#252332
回答No.1

 藩閥政治とは特定の藩の出身者が政治の重要ポストを占めることです。軍閥とは開戦から終戦まで3代の総理大臣が軍人であったことを含め統帥権を盾に軍人が専制的に日本を支配したことを指します。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、文人に対しての軍閥ですか。 分かりました。