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なぜ宗教はひつようなのか?

タイトルのとおり人にとって宗教はなぜ必要なのか?教えてください。

みんなの回答

noname#76141
noname#76141
回答No.58

 本来宗教こそが人間を真に幸福にして行くものであり、人間はそのためにこそ生き・生かされているからです。  例えば、聖徳太子、空海、ナイチンゲール、マザーテレサ、は、周囲の状況に一喜一憂したりしない、不動の信念・心を持っておられると思いますし、その源は明確な信仰にあると思いますが、真なる幸福とは、このような境地にあると思います。  仏陀・神様の境地に近付くほど、幸福感は増して行きますし、人間が生き・生かされている理由・目的は、まさにそのためにあるとのことです。  仏陀・神様に近い心境の方々を、仏教では如来・菩薩といい、キリスト教では大天使・天使というでしょう。冒頭の方々はまさにこうした境地の方々であり、この世に生まれられても神仏の御心を見失われなかったからこそ、ああした不動の生き方をされたということです。  もちろん、宗教における争いや邪教の存在もありますが、冒頭の方々のように、真なる宗教を見つめることは可能ですし、更にそうした方を手本とし尊敬し続いて行った一般の人々の数は多大な累計になります。  こうして、神仏や神仏近き方々を尊敬し、向上して行くこと自体が真の幸福であり、真の幸福増進のために人間は生き・生かされている、ということであり、なので宗教こそ必要であると、本で読み、私は納得できました。    

noname#132831
noname#132831
回答No.57

 「宗教」という同じ“言葉”を使っても、どんな心象を抱くかは人それぞれでしょう。苦しい時や悩んだ時の精神安定剤としての「宗教」、いわゆる葬式仏教と言われるような冠婚葬祭の作法としての「宗教」、哲学と同様の内なる規範としての「宗教」という捉え方が一般的かと思いますが、中には自己を正当化する為の「宗教」、思考放棄・思考依存の末の「宗教」もありましょう。  正しく考えようとするとき、あるいはよく生きようとするとき、人は思うのです。過去にも同じような事を自分同様に真剣に悩み考えた人がいたのではないかと。先達の知恵を拝借して、その上に独自で考案した思想を積み重ねる方が、一から構築するよりもずっと効率的です。首尾一貫して矛盾の無い世界観を自分ひとりで一から構築するのは大変なのです。宗教も哲学も、規範を提供するという意味では同義であり、文体の違いです。そういう意味では資本主義も民主主義も最近のエコロジーも「宗教」と言えなくもありません。  時代と共にテーマは遷り変わります。昔は生老病死(しょうろうびょうし)が中心テーマだったのでしょう。現在でもその意義は失われていませんが、昔にはあまり考えられてこなかった新たなテーマも出現しています。それは、「必要とされない」という悩みです。生産性の向上した現代社会では、人や社会に「必要とされない」ことで、多くの人が心を病んでいます。一度増大してしまったエントロピーを元に戻すのは、もはや不可能と思えるほどに一筋縄ではいきません。  一神教と多神教の違いによる誤認から、日本人は無宗教だと欧米人からよくいわれます。確固とした内なる規範を持たず、代わりに周りの顔色を窺って規範とするようなところがあり、その態度は自意識過剰に陥らざるを得ません。NOと言えないに日本人、恥ずかしがりやな日本人では、神との契約のみを念頭に自己主張する欧米人には太刀打ちできません。無宗教が世界で軽蔑される所以です。  一方で、強固な一神教の信仰は排他的な性格を内包し、深刻な対立を生むことは周知の通りです。聖徳太子爾来のいいとこ取り精神は、日本人の懐の深さでもあり、争いを避けるという優れた面もあります。私は無宗教でも構わないと思いますが、それなら自らの努力で内なる規範を築く必要があると思います。また、宗教を持つのも良いと思いますが、同時にしなやかさも兼ね備え、自らの頭で考えることを放棄しない態度も必要だと思います。

回答No.56

人生に救いが無いからです。人の意識は子供でも大人でも、あまり変わらないと思います。ただ体の変化とか、自分の後輩とか、子供達、孫達が大きくなってゆきます。その事を思う時に自分の年を考えます。しかし、自分の心は、確かに分別も付いてきて年相応の考え方も出来ます。ですが、50歳になっても、60歳になっても、心に聞いてみる時に、20歳の心も残っていて、「心」そのものは年を取らないような気さえします。 人間の性格によるものかもしれませんが、心の何処かで「永遠性」「確かなもの」「本当の人生」に対する憧れが在ります。目の前の絶えず変化し続けている環境に対して、「変わらないもの」「普遍性」「永遠なるもの」に対しての「希望」を抱かせるものが心の何処かで芽生えているような心持を感じる時があります。 又、何時訪れるか判らない「死」と言うものに対する恐れと言うものも在ります。一寸先もわからない人生で、もう少し確かな「何か」というものを「心が」希求しているような気持ちになる時があります。 人生という有限の世界の中で、何時か死んでゆく事が決まっています。それが何時なのか、誰も知りません。その事で人間は「永遠」のものにある種の憧れを抱きたいという希望を持ちます。 その事を、強く「希求」する時に悩みが生じます。「死」と「永遠の命」その対立するもの。矛盾と云っても良いかもしれませんが。その矛盾を「悩み、人間苦」と云ますが。その悩みを「超越」して「安心」の世界で生きてゆく事を強く望む時に「宗教」が生まれます。 「この無常の、移り変わってゆく世界の中で、自分も滅びてゆく世界の中で、永遠の命を得て安心したい。」というありふれた、叶わない自分の悩み、苦しみから「宗教」が出発したように感じられます。誰もが思い描くことかと思われます。普通の人は叶わない事として諦めます。ところが諦められない人達がいました。お釈迦様を始めとして日本では空海、道元、白隠、その他大勢の人達です。 そしてその望みが叶えられたのです。それが、膨大なお経の内容です。 又その教えを、代々行動を通して、師から弟子へ受け継いで来たのが「禅宗」というものです。

  • yumejiro-
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.55

そんなこと簡単です。 死者の慰霊です。この地球のどこに住む人々も、人が 死んだら肉体は滅んでも魂は不滅と考え、霊魂に語り かけたり、いろいろと儀式をするものです。 すべての宗教はここから出発します。 それにしろ,皆難しいことを言って、なんでこいう ことは説かないのだろう。

回答No.54

少々長くなるかもしれませんが、アドバイスになれば。 宗教は、魂や精神、それに類似したものの浄化を目的としたものがほとんどです。 浄化は人によって解釈があると想いますが、魂を無垢の状態に戻すことではないでしょうか。 つまり、人間は精神の解放に飢えている故に宗教を必要とするのでしょう。 種類が多くあるのは、人によって波長が違うからだと想います。 ですが焦ることは無いのです。 必要なときに、必要だと感じるでしょうから。 話しはそれますが。宗教がなぜ必要か、日本には国教がないので、その疑問に至るのは当然だと想います。自分もその疑問に到達したことがあります。 人に言われるよりも、関係した本を読むことが回答への道だと想います。自分も、いや人類の多くが宗教とは何たるものか、その全貌をうまく語ることは不可能なのです。 雑文、乱文失礼しました。

回答No.53

 必要であるかないかは観察者による。宗教が必要であると言った人に聞くべきなのでは?  そもそも逆に宗教がなくて困るかを考えればいいのではないだろうか?

  • world7046
  • ベストアンサー率18% (8/43)
回答No.52

人類に備わった「自己破壊機能」の一部ではないかと思ってます。 人類には天敵がいません。そうなると人類がどんどん増殖していき、しまいには食料もなくなり絶滅してしまいます。 そうならない為に「種の保存」の機能として宗教が存在しているのだと思います。 歴史を紐解くと人は皆宗教の名のもとに戦争を繰り返してきてます。これにより人類の増殖が抑制されたとも考えらるからです。 「疫病」が定期的に流行するのも同じような理由だと思います。 何しろ人が大杉なんです。

  • yokko3
  • ベストアンサー率100% (1/1)
回答No.51

私は一度、友人に新興宗教に誘われました。ぶっちゃけ、引きましたが・・・参考までに集まりに行ってみたら、なんだか、宗教ってか、道徳の修行のような感じで悪い感じはしませんでした。でもやっぱり、私はそうゆうのには入らなくていいな。と思ってます。 大きな団体になると道を外したりもしそうだし・・・ なんで人は宗教が必要なのか、やっぱり自分を保つためだと思います。 信じるものがあると人は強いといいますが、それの代表的なのが「宗教」ってゆうんだと思います。八百万の神を信じても美術を信じてもキリストを信じてもいいのでは?と思います。

回答No.50

 私は中学生ですが、自分の考えている内容を書きます。  宗教とは心のバランスをとるものではないでしょうか?一人で不安なとき「大丈夫。神様がついている」などと考えればある程度落ち着くことが出来ます。  それに、結果が人の力が及ばないことに挑戦するとき神頼みをするというのも落ち着いてそのことに取り組むことが出来るようにする薬のようなものだと思います。  このようなちょっとした神への信仰が、宗教につながっているのではないでしょうか。  また、キリスト教やイスラム教、仏教などの宗教が生まれた時代の背景には当時の人々の社会不安があります。前にも書いた「結果が人の力が及ばないことに挑戦するとき神頼みをする」というのと同じように社会がどんな方向に向かうかわからないとき、人は宗教を求めると思います。 宗教とは社会に対する鎮静剤のような役割だと私は考えます。  

回答No.49

仏教では 哲学の実践的方法となっています。 ですから 仏に有無を論じる人はいません。 仏は仏教の生命論で絶対的幸福の境涯となっています 人生の目的は幸福になること と定義されます。 質問に対しては「幸福な人生を築くため」が解答です。 なおスタ-ウオ-ズやスタ-トレックのようなアメリカ のSF作品には「神を超えるもの」との主題があり キリスト教の神を超える存在を模索しています。 余談ですが。

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