全く必要はないと考えます。
少なくとも日本の中世に誕生した新仏教の中には他宗を邪教として位置付ける原理主義的色彩の強い宗派が一つだけあります。彼らが日本近代で採った政治活動はファシズムと連動していることも歴史上明らかです。どの宗派とはいいませんが、少なくとも僕は彼らの政治姿勢を評価することはできません。井上日召のことです。彼は血盟団事件の思想的バックボーンとして北一輝・大川周明を煽動し、さらには実行部隊として西田税や石原完爾を育てた罪を逃れることなどできません。宗教家として平和を口にしながらもその実はテロ行為を煽るなど以ての外です。
こうした話をしますと、その宗派の一部である巨大な宗教組織の人が必ず口にする言葉があります、曰く「私達は○○大聖人の教えを守って活動しています。だからあの人達とは違います」。世間一般の常識的な見地からすれば「それは単なる言い訳にしか過ぎない」と言っても彼らには理解が出来ない様です。
信仰はあくまでも個人の内面に関する問題であり、自分が信奉するからといって相手にもそれを強要する様な姿勢は現に慎むべきである、と僕は考えます。自分の考え方を相手にも押しつけるような姿勢を持つ限り、宗教が自らの殻に閉じ籠もり他の考えを知らずに排撃するだけで対立を招く、これでは対立の要因と呼ばれても反論の余地は何処にもないでしょう。
また神道も同類です。本居宣長や国学の様に他の価値を認めない偏狭なスタンス、これでは「八百万」を標榜する資格など全くありません。