うーん。私の一件しか、レスがつきませんね…。
以下、大雑把(不正確)なので、。岩波文庫で読んでいただきたいですが…
浄土三部経の中で一番短いお経は阿弥陀経(小経)です。簡にして要。成立は最も古いのではないかと言われているようです。概略イメージでは、極楽浄土はこんなに素晴らしいところですよ、環境もすばらしいですが(娑婆のインドだったら蒸し暑いとかあると思いますが涼しい等でしょうか…)、なんと言っても、すばらしい人々(師匠、先達、等)に会えますから、修行がするする進みますから、極楽浄土に行くことをみんな願うべきです…みたいな感じ(イメージ)。
成立が二番目に古いと言われていると思うのですが、無量寿経(大経)は、概略イメージでは、とほうもない昔、法蔵菩薩というすばらしい修行者が、誰もが極楽浄土(※註)に生まれ変わらないなら、仏にならないという、絶対的に利他的な誓いを立てました。今、実際に、法蔵菩薩さんは、阿弥陀仏となって、極楽浄土に仏様としておられるのだから、誰もが救われる…[ないし、法蔵菩薩さんが、全ての人を救おうという誓いを立てた、そう言ったというスピーチアクト、実際に言ったという、約束したという行為で、もう、救済の全ては完成している…]といったイメージ。
成立が一番新しいと言われていると思いますが、観無量寿経(観経)には、王舎城の悲劇という物語が出てきます。アジャセ王子という人が、父王を殺害して王権を奪い、母であるイダイケ夫人も幽閉。イダイケ夫人は、仏様!なんでこんなことに!と言うと、仏様は精神を統一して、阿弥陀仏とその極楽浄土を観想しなさい…というドラマチックなお経。
※註:ここはちょっと私の文章が分かり難いかと思いますが、古代インド人は「無始」ということを考えていたようです。宇宙の始まりはないという考え方となると思います。鈴木大拙さんは子供の頃、もしも神様が宇宙を創ったのならば、その神様は誰が創ったのですか?と質問して、本人が納得いく答えが得られなかったらしいのですが、たとえば、神様は宇宙で一人ぼっちだったので退屈だったから、寂しかったから、宇宙を創りました…とすると、神様が始まりなのではなくて、退屈や寂しさが始まりになります。すると、ある日、神様が退屈になったり、寂しくなったわけで、その日以前は、退屈でも寂しくもなかったことになり、退屈になったり寂しくなった原因が、退屈や寂しさ以前に遡って考えられます。このように始まりの原因が無限に後ずさりしてしまうので無限後退の誤謬と言われるはずです。コップの底が底かというと、コップに底があるなら底より下が考えられるため、本当の底は「底なし」というようなものでしょうか。同様に本当の始まりは「無始」となると思います。つまり、最初から、そして、今も太陽系は非常に多数あるとなります。大地があってから生き物が生まれるのではなく、ある太陽系の生きとし生けるものが、こんな世界に住みたいなという多数決の願望によって、別の太陽系が生まれると考えます。阿弥陀仏は極楽浄土という世界を願ったわけで、別世界、たとえば娑婆世界に今生きているものが極楽浄土に生まれたいと願うと、娑婆で一生懸命、全身全霊で生きた後、力尽きて、天寿を全うした瞬間、極楽に生まれるわけです。人気のない太陽系は、ゴーストタウンになり、消滅するのだと思いますが、一方で、新たに望まれて生まれる太陽系もいっぱいあるため、結局、大宇宙全体では、全生命が生きるのに飽きてしまわない限り、より良い生活を送りたいと願う限り、”ある時点では”、娑婆とか、観音様のいらっしゃる補陀落とか、阿弥陀様のいらっしゃる極楽とか……多数の世界がいつでもある…という理屈なのだと思います。