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聖のイメージについて
- 聖のイメージには豪華な飾りつけが多く見られる
- 一方で質素な身なりの聖像も存在する
- 聖のイメージの源泉とその有益性についての意見を募集
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a_honaさん こんばんは。 ひとつは金銀装飾とありますが、キリスト教のカトリックの聖杯や、仏教における仏像に金が使われていて、昔は豪華絢爛でいやらしいと思ってましたが、世界遺産の奥州藤原氏の中尊寺金色堂に関するテレビで、なぜ金が使われたというと、金は永遠に朽ちない金属で、死後も光を与え続けてくれるという願いからということを知りました。 ですから、聖なるものとして「永遠の光」というものに、人間は、誰でもどこか渇望しているのではないでしょうか。 また、現在、お勉強中なので、どこまで、まとめられるかわかりませんが、回答すると、1757年にイギリスのエドマンド・バークは「崇高と美の観念の起源についての哲学的研究」を出版しました。 バークは「美」と「崇高」を区別し、「美」は種の繁殖に向けられる愛などの感情で「快」をもたらすものに対し、「崇高」は自己保存の感情で「苦痛と危険」を伴った、快よりはるかに強烈な「喜悦」としたそうです。 前者の「美」は調和や完全性によるものとし、例えば、絵画における、小ささ、なめらかさ、繊細さ、明るさなどで、私は秩序というものを考えると、これはこれで聖なるものではと思います。 また後者の「崇高」はバークによると「何であれ苦痛や危険を引き起こすに適したもの、つまりなんであれ恐ろしいもの、もしくは恐ろしい対象に通じているもの、もしくは恐怖と似たやりかたで作用するものは、崇高の源泉である。」とし、曖昧さ、欠如、広大さ、無限性、強烈な光などをあげています。 私の私見ですが、バークの言わんとする「崇高」による「喜悦」とは、雪山の登山で断崖絶壁を命の危険を顧みず登り続け、頂上に至った時の、神とか自然に対する畏れや神々しさのようなものではと考えています。もちろん私は山は素人なので遭難したら大変なので、想像するしかありませんが。 バークはこの著書の他は美術評論は書かず、その後、政治家になったそうですが、この著書の「崇高」という概念は、イギリスから大陸に渡り、カントに取り込まれ、「判断力批判」の中で崇高は「数学的崇高」(夜空やピラミッドなどの視覚感性認識の限界な絶対的に大なる数や量)と「力学的崇高」(雷、火山活動、大地震などの大自然の威力)の二種類からなるとして、感性的把握の限界、すなわち苦を経験することで、我々は自己の内なる理性を発見することになり、いっそう深い精神的な安らぎ、生命維持よりも高次の自己尊重の念がもたらせるとしたそうです。 このカントの考えは仏教の修行を経た悟りのような境地の考えのようにも思われ、洋の東西を問わず面白く、「崇高」も聖なるものと思いますがいかがでしょう。 しかし、「崇高」は戦争をしている当事者が、殺戮することで「喜悦」を覚えているとしたらいかなるものか。a_honaさんの見解をお待ちしております。 では、また、たまに顔を出します。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ (No.2お礼欄) 自然崇拝をする動機というのはどこから来るのでしょうか。神々しさという、言わば感性に由来するのでしょうか。 ☆ アニミズムの段階では 考えるイトナミを通り超えて《寄り憑いて行く》のでしょうね。 そこから 時間を知った《イリ(世界への入り)なる歴史知性》にとっては 自然現象として見ることができるものごとの背後なる〔と想像した〕時間的な事象や存在を超えた何ものかナゾの《神々しさ》 これへの《畏れ》からでしょうね。と思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ また、後者の日々欺かれつつも私は私であると言う立ち還り、これは、つまりは常人のこと、つまり普通であり、聖とは言えないかと思いますが如何でしょう。聖が奇特であるとは言わないですが、世に言う一般大衆が聖であるとは見がたい。 それとも、この立ち還る私は、広く一般の人々には存在していないものでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 日から日へ 家族の安定した生活 あるいは子どもたちを社会の中へ送ること これらを務めとしてその一定の時間を共に生きる人びとをおのれの心に引き受けること――配偶者どうしが互いにその身を引き受け と同時に子どもたちをも共に引き受けること 〔さらには子どもたちは 老いて行く親たちを引き受ける〕―― こうして無事に生涯を全うすることが出来たならば 《わたしがわたしであることが確立した(サンクトゥス)状態ないし動態》であると思います。 世の中が過ごしやすいようになるのは そういう夫婦と家族を基礎とするよりほかにないと考えますから。 つまり 《常人・ふつうの人たち》が 聖人でありうる。こう考えます。
お礼
ご回答有難うございます。 >つまり 《常人・ふつうの人たち》が 聖人でありうる。こう考えます。< ブラジュロンヌさんならそう言うかもしれないと予想はしていました。かなりの世俗主義でありますが、世俗の聖というイメージも、実はかなりポピュラーなイメージでしょう。また、普通の生活を有難がる気持ちというのは私にも分かります。一つの回答として受け取っておきます。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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聖者のイメージと言うより、私の理想は仮面ライダーだ。
お礼
人造人間ですか。ああいった種のダークヒーローに憧れる気持ちは分からないでもないですが、仮面ライダーが聖かというとそうではないように思います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんばんは。 《聖》については ふたつの概念に分かれるようです。 すでに非経験の場である神そのものの代理(依り代・補助線)として 目に見える山や木や岩がえらばれる場合。 つまりは 神神し=かむかむし⇒こうごうしいと感じられるモノをそれとして《聖別》したなら あとはナラハシとして 聖のイメージがつたえられる。 理念もあとからつけ添えられるでしょう。そういう議論にもなるかも分かりません。そしてそれは 次の場合です。 もうひとつの場合は 人間の境地としてです。 つねにあやまちを繰り返し 他人からは欺かれ続けているにもかかわらず 《わたしはわたしである》ところのわたしを保ち続ける状態ないし動態。 これは 或る意味ですでに何ものにも動じないことになります。 相対的な世界にありながらも 《わたし》を保ち続けるその安定性が確立する(サンキーレ)なら 確立された(サンクトゥス)と呼ばれることになる。これが サンタさんであり セイントです。 聖人という場合は どちらになりましょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 前者の、自然崇拝をする動機というのはどこから来るのでしょうか。神々しさという、言わば感性に由来するのでしょうか。 また、後者の日々欺かれつつも私は私であると言う立ち還り、これは、つまりは常人のこと、つまり普通であり、聖とは言えないかと思いますが如何でしょう。聖が奇特であるとは言わないですが、世に言う一般大衆が聖であるとは見がたい。 それとも、この立ち還る私は、広く一般の人々には存在していないものでしょうか?
- pigunosuke
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天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)通称「草薙の剣」は 日本に祀られている三種の神器の一つですが 剣という物は、そもそも人を殺める為の道具です 神を祀る為の神器であるなら、 聖なる物というイメージが有った方が良いと思うのですが なぜか人を殺める道具が神器として祀られています さて 神話に付いて語るなら「生贄」について語ってみましょう 「生贄」は神に捧げる供物であり その対象に選ばれるのは、大抵の場合「清らかな乙女」です この「清らかな乙女」こそが「聖」の根源ではないでしょうか? 「聖」は「せい」と読み、 「せい」と読む字は「性」とか「精」とかありますよね? 聖母マリアは処女なのにキリストを産んだのです 「聖」と「性」 何かしらの因果関係が、有りそうな気がしませんか?
お礼
生贄ですか。 清らかな乙女は、繁殖に最適な存在ですから、偶像化されても不思議ではないと思いました。 また、生贄の供物とされるのは乙女だけではなく、むしろ、他の動物や穀物、果物などの方がポピュラーな気がします。食べ物は人間が生存する上で欠かせないものですから、人間の生きたいという意志が、それらの食べ物を聖なるものとして扱わせたのかもしれません。 すると、原始や古代の人間は、生存という事に対して、なにか罪の意識を感じていたのかもしれない。だから、供物を捧げて赦しをこい、また感謝したのではないか。 そんな風にも思いました。 人間精神における革命、たとえばルネサンスなどに類するものが起こるまでは、この様な罪の意識と共存して暮らしていたのかもしれないと思いました。 天叢雲剣の剣について。 剣は、力、強さの象徴であるから、自分たちを守り、また敵を屈服させるものとして祀られたのではないかと思います。しかも、天叢雲剣は当時で言う舶来品の鉄剣であったのではないかという説も聞きます。敵の力を取り込むという意味でも、象徴化したのではないでしょうか。しかしこの時点では、悪を挫き世に平和をもたらす聖剣として扱われていたのかどうかは、私にはわかりません。 ご回答、とても参考になりました。 ありがとうございます。
お礼
金の性質と、聖の属性を重ねて、その永遠性などを表現したという説は 納得できます。と同時に、聖は永遠なるものであろうか?という問いも湧きました。 美しさと調和を重ねて、聖を表現しているという観点も、納得できました。整っているということは良いことであり、聖に通じるのかもしれないなと。 次に崇高と喜悦についてですが、これは威厳のようなものかなと想像しました。このアプローチを進めてみると、私の中で尊厳という言葉が浮かびました。尊厳を保っている、その様は崇高か?と自問自答すれば、当たらずとも遠くもない気がいたしました。カントに引き継がれた崇高という概念が、仰るような悟りに関わってくるというのはなんとなくわかります。苦を経験することで理性に気がつくというのは、一見すれば関係のないことのように見えるが、理性が一種の客観性を持っている故に、苦から離れる機縁を生じ得るのかもしれない、と私は考えました。 戦争における崇高さについて。 崇高さというのは、一種の独立性を持っており、果たして崇高なる人物が戦争するだろうかと考えると、それはしないだろうという結論に至りました。崇高なるものは智慧を発揮している状態に近く、世の中を観じて自らは平静の中に存すると思われるからです。 戦争において、喜悦を生じる者は、きっと人間ではないと考えます。
補足
勉強になります。ご回答ありがとうございます。 直ぐにはお返事纏まりませんので、暫くお待ち下さい。 崇高から喜悦、そして戦争の話と多岐に及んでいますので、一度には咀嚼できませんでした。よく読んでからお返事差し上げたいと思います。 お待たせいたしますがご容赦ください。