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後醍醐天皇はいかにして隠岐の島を脱出した?
後醍醐天皇は倒幕計画がバレて隠岐の島に流されますが 名和氏の協力を得て脱出に成功しています 協力があったとは言え そう簡単に島から脱出できるものなのでしょうか?
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塩冶と富士名では近い一族と言えども勢力に大きな差があり、船上山の参着についても塩冶1000騎、富士名200騎(500とも)としています。 これに対して『名和氏紀事』は名和泰長・成田小三郎の企画説です。『名和氏紀事』の著者の門脇重綾は、伯耆の神主の子として生まれ、伯耆の歴史・地誌等について地元での調査・史料採集し、当時としてはその道の専門家として鳥取藩の扶持を受けています。ですから、名和氏関係の史料については地元を中心に精力的に採集したことだと思います。ただ、『名和氏紀事』の成立が、後醍醐天皇の隠岐脱出から約500年経過しています。名和氏は地元の英雄ですし、500年の内にはいろいろな話が付会されることは無きにしも非ずだと思います。特に、名和泰長は精力的に後醍醐天皇の脱出に向けて活動していたとなっていますが、名和泰長が自害後、名和氏の影がなくなることです。脱出に備えて海賊を仲間に引き入れたとの説もありますが、実際に脱出する際には『名和氏紀事』を見ても商船を使用しています。また、この部分は太平記の記述をもとにもしています。地元にも舟・海上のことについては特別な話はなかったようです。もし、名和氏が脱出に関与していたのならば名和長年は「三木一草」の一人という大忠臣とされていますので、もし後醍醐天皇の脱出に関与したとするならば、天皇との結びつきが古くなることでもあり、脱出に関与したという功績も加わるはずで、針小棒大に伝わることがあっても、『増鏡』・『太平記』・『梅松論』のいずれにも採録されていないということは、ありえないのではないかと思います。 そのように考えると、後醍醐天皇の隠岐脱出には、警固の武士の協力があり、その武士は富士名三郎であった可能性が高いのではないでしょうか。 以上、参考程度に。
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- fumkum
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後醍醐天皇の隠岐脱出の状況について、同時代に書かれたとされる一級資料はないと思います。ただ、『増鏡』・『太平記』・『梅松論』のみが言及していますが、三書共に文学作品であり、正確性については疑問符が付くことがあります。その他の資料については、後世に書かれたものですので、両書に比べるとより正確性・信頼性について落ちることになります。ですから、『増鏡』・『太平記』、特に『太平記』を中心に扱われているのが現状です(『梅松論』はさらに評価が低い)。 例えば、後醍醐天皇の配流地についても、『増鏡』は島後の国分寺と記載し、『太平記』は島前の黒木御所と記述しています。この件については、島前の黒木御所説が、後世の史料にも記載が多いために、ほぼ間違いはないとはされるのですが、やはり確実な資料が無いために、両説があるという記載に留まります。この例のように、『増鏡』より『太平記』の方が若干信頼性は高いとされてはいます。しかし、『太平記』は、異本も多く、異本によっては記述に大幅な違いがある場合もあります。 『増鏡』 ・天皇のもとに海人(あま)の便りに託して連絡されることが絶えずあった。 ・世の中はまだまだ鎮まっていないということで、天皇は警固の者の油断を狙って(脱出しようとして)いた。 ・警固の者も、天皇のようすをさとって、天皇に従がおうと思う心になった。 ・24日の夜明けに、同心の者だけが相談して、天皇をお隠しして、お連れ申上げ、粗末な漁師の釣舟の有様に見せかけて出船させた。 船は午後四時ごろに出雲の国に着き、翌々日に伯耆の国の稲津の浦に移った。 ・追手については記載されていない。 『太平記』 ・反乱が相次ぎ、幕府は隠岐の佐々木隠岐前司清高に、くれぐれも後醍醐天皇を警護するように命じた。清高は近国の地頭・御家人を招集して警固を厳重にした。 ・閏2月下旬の当番である佐々木富士名(布志名)三郎は、天皇を奪い取り、幕府に謀反して、一家繁栄をしたいと思うようになった。 ・ある夜、官女を通じて天皇から御杯を頂いたときに、チャンスと思い、官女を通して、各地の反乱の状況を話し、「私が当番の内に、密かに抜け出して千波の湊から船に乗り、出雲・伯耆あたりに着き、しかるべき武士を頼られて、しばらくお待ちください。私が攻撃するような形で、味方に参ります。」と、話した。 ・天皇は富士名の話し半信半疑で、かの官女を富士名に与え、様子を見たが、富士名は官女を与えられ、ますます忠義の心を強くした。天皇も信じられた。 ・2月二十三夜のに、六条(千種)忠顕が恋した官女のお産が近いということにして、官女が御座所から出るついでに天皇は輿で忠顕と脱出された。その後、天皇も輿を棄て、徒歩で湊を目指した。途中の家で男に湊への道を尋ねると、男は天皇を背負い、湊に着く。 ・男は走り回って伯耆に行く商人の舟の屋形に、天皇・忠顕を乗せて別れる。 ・船頭の様子に身分を明かす。隠岐清高の追手の舟には、船頭が天皇と忠顕を船底に隠し、上に干魚・俵を積み上げてごまかし、追及をかわす。 ・名和の湊に着く。 *異本(前田家本ほか)には、天皇が富士名に、「一族を同心させて、迎えに来させろ」と命じたので、出雲にいる塩冶高貞を説得するために出かけるが、逆に塩冶により軟禁された。との記述があります。また、上陸地点についても、神田本は伯耆国名和ノみなと、徴古館本は伯耆国那和の湊としています。 『梅松論』 ・隠岐国守護佐々木隠岐清高は、一族を当番制で御所の警固に当らせた。佐々木富士那三郎左衛門尉というものが、天皇の命令に応じて、「君ヲヌスミ出し奉ル」。 ・海上の記載は太平記に同様。 ・船は、伯耆国奈和庄野津ノ郷に着く。 『名和氏紀事』 ・天皇の侍医(文中では雑色)である成田小三郎と、名和泰長(名和長年-文中では長高-の弟)が、天皇の脱出、佐々木隠岐清高の誅殺について相談・計画を進める。 ・警固の当番の富士名義綱を仲間に引き入れる。 ・名和泰長は、塩冶三郎高貞を説得するも不調に終わり、六波羅の下知で大社国造の郎等が泰長をからめ捕ろうとして、泰長は自害。 ・(閏2月)23日に、六条(千種)忠顕と成田が相談して明朝密かに天皇を脱出させることにする。 ・六条忠顕・富士名義綱・成田小三郎・金吾(仕丁)の4人が、天皇を配所より脱出させ、湊まで供奉する。 ・海上の記載は太平記に準拠 ・25日に出雲の野波浦に着く(伯耆国の片貝との説あり)。 『名和氏紀事』=門脇重綾(1826~1872)が、文久2(1862)年9月に上梓した書籍。名和氏を中心に事績を蒐集したもの。 上記の記述をまとめると、警固の武士の中に天皇に心を寄せるものがあり、その武士の具体的な名前については、『太平記』・『梅松論』・『名和氏紀事』は佐々木富士名三郎としています。ただ、『太平記』は、富士名三郎は脱出当日にはいなかったような書き方です。これに対して『梅松論』・『名和氏紀事』は、富士名三郎を脱出の実行者としています。 『名和氏紀事』はより具体的で、侍医の成田小三郎と名和泰長が計画、六条忠顕・富士名義綱・成田小三郎・金吾の4人が実行としています。 ただ、配所の場所についてだけではなく、脱出後の本州の到着地点についても、出雲国あり、伯耆国あり、さらに湊はバラバラで、どれを信じてよいのか分からなくなるほどで、脱出の協力者が誰であるのか確定しがたいものがあります。しかし、ほぼ全ての史料に登場する佐々木富士名三郎が、後醍醐天皇の隠岐島脱出に協力したのはほぼ確かなのではないかと思います。 佐々木富士名三郎は、史料により「佐々木富士名三郎判官」「布志名判官」「義綱」と書かれたものがあります。宇多源氏の佐々木氏の流れで、出雲国意宇郡富士名(布志名)郷の武士で、二郎左衛門高雅息、義綱とされていました。ところが、近年の研究で、佐々木次郎(八郎・三郎説もあり)定清(信清説あり)の息、雅清(義綱)であるとの説が提出され、脱出以降の功績により、建武新政で、若狭守護職に任じられたとされます。 ところで、佐々木富士名三郎を雅清だとすると、天皇の隠岐脱出に関連する佐々木氏三名(布志名・塩冶・隠岐)の関連がわかります。 宇治川の先陣争いで有名な佐々木高綱の弟の佐々木義清が、承久の乱後に出雲・隠岐の守護(後に国守兼任)に任じられ、山陰地方に地歩を築きます(この一流を出雲源氏とすることがあります)。その子佐々木隠岐太郎泰清がその地位を継承します。泰清の子の代に布志名・塩冶・隠岐氏などに分かれます。隠岐氏は泰清の子時清が隠岐守護を継承し、宗清-清高と続きます。ただし、宗清については系図に「隠岐守」と記載されますが、守護職については、確認されていません。清高についても隠岐守護職の任命について、元弘(1332)年の後醍醐天皇の隠岐配流に合わせての任命との有力説があります。また、清高以前の守護については、塩冶高貞との説が提起されています。 塩冶氏は、時清の同腹の兄弟とされる頼泰が出雲守護となり、子の貞清、孫の高貞と守護職を継承します。 富士名(布志名)氏は、泰清の子の頼清に始まり、定清(信清説あり)-雅清(義綱)と続くとされます。出雲国富士名に居住していることもあり、守護の塩冶氏と行動を共にすることが多かったようです。 つまり、隠岐清高・塩冶高貞・富士名雅清(義綱)の三者は、従兄弟の子=又従兄弟(はとこ)だということになります。ただ、隠岐清高は元弘二年までは幕府引付衆として鎌倉に在住していたようで、隠岐守護は塩冶高貞に奪われており、元弘の変に態度が曖昧であった塩冶を幕府が更迭して、清高に変更したとの説があり、そのため清高は天皇の隠岐脱出後、船上山での合戦に敗れて六波羅に逃げ、近江番場宿で六波羅探題以下と自害しています。逆に、塩冶・富士名は船上山に駆けつけ、天皇の京都還幸に供奉し、建武新政で恩賞等を得ています(塩冶は後に足利尊氏につきます。富士名はその前に天皇方として戦死)。このような背景から、出雲源氏の中において、親幕府北条の隠岐と、非幕府北条の塩冶・富士名が対立していたのではとされます。このように考えると、後醍醐天皇の脱出の背景に塩冶がおり、実行者として富士名がいた可能性はあるのではないかと考えられます。 ごめんなさい。字数オーバーなので、追記します。
お礼
ありがとうございました
- kame2342623
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名和氏は帆掛け船を家紋とする海運業者一族です。彼らが佐々木氏と組んで 事を起こせば、案外たやすく隠岐脱出出来たものと考えます。
お礼
ありがとうございます
>そう簡単に島から脱出できるものなのでしょうか? ご質問の趣旨が今一つよくわかりません。 隠岐の島は地図でも分かりますように小さな入り江が沢山あります。 手引きがあれば、どこからでも船に乗れたでしょう。 名和氏は元々対岸の伯耆の国で海運業を営んでいた一族です。 船にも船頭にも事欠かなかったでしょう。 船を御心配ですか? 下記サイトの後醍醐天皇よりも約150年程前に壇ノ浦で使われた船の復元図があります。 Kobe University Repository : Kernel - 神戸大学附属図書館 www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005753.pdf これでも海上50kmぐらいの航海は充分可能です。 鎌倉時代には小型船のデザインは著しく発達して江戸時代までの和船の基本デザインが出来上がった時代です。 後醍醐帝も安徳天皇や義経よりも頑丈な船に乗っておられたでしょう。 海上へ出た後は崇徳帝の怨霊が、我が恨みはらせ!と吹き寄せてくれたかもしれません。 その際に後鳥羽帝も加勢したかもしれません。 後白河の息のかかった北条平氏の鎌倉幕府など潰してしまえ!というとこですかね~
お礼
は? 後醍醐天皇は犯罪者として流罪にされたのですよ? 「やっぱ戻るわ」って言って簡単に都に帰れるような立場ではなかったのですが もう少し勉強してチョン
- nipxizt
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『太平記』によれば、監視役の役人が逃したと言われています。その頃は赤松円心など悪党や、楠正成らが挙兵して暴れまわっており、噂は隠岐島まで届いていました。ただ運が良かったのだと思います。
お礼
ありがとうございます
- Pinhole-09
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もうひとつの創作らしいブログがあります。 前答とは大分違うようです。
お礼
ありがとうございました
- miasansan
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簡単だったかどうかはわかりませんが・・ 伝承(創作?)ではこんな話があるようです。 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2014/02/224-eda7.html 隠岐の島に行った人の印象では・・ http://www.tabicommon.com/contents/?p=947
お礼
あがとうございました
お礼
ありがどうございます やはり仮にも天皇ですから強力な取り巻きが居たのでしょうかね