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醍醐天皇と後醍醐天皇の関係
醍醐天皇 897~930 後醍醐天皇 1318~1339 1)二人の間には400年以上の隔たりがあり家系等何の関係がないの に、どうして後をつけて後醍醐天皇と名乗ったのでしょうか? 2)ほかにも同様な例があるようですが、皆同じ理由でしょうか? 3)後桜町天皇以降、後のつく天皇がいなくなったのはどうしてです か?
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醍醐天皇の在位中は「延喜の治」と呼ばれる天皇親政の善政の時代とされていました。通常、歴代天皇の「追号」は崩御後に追尊されるのですが、後醍醐天皇だけは生前にご自身で「後醍醐」を名乗っていました。醍醐天皇の治世を再現する意志を表明されたと考えられています。 他の方々は崩御後に追尊されたものです。後一条天皇が最初の例となり、26例ありますが、父親の追号に「後」をつけた方は5例です。兄弟間での天皇位の委譲や、皇統が二系統に別れた時期に多いようですので、基本的に「後」の字は皇統の正当性を表明するものだと思われます。 後桜町天皇のあとに後桃園天皇がいらっしゃいます。お二人とも父にあたる天皇の追号に「後」をつけた方です。その後は、光格天皇・仁孝天皇・孝明天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇・今上陛下と続きます。明治天皇以降は元号と追号を一致させていますので、「後」が加わる余地がないということだと思います。
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- pyon1956
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(1)後醍醐天皇は他の天皇と違い、後醍醐というのは諡号ではなく、今上天皇であるときからそう名乗っていました。醍醐天皇は村上天皇とならんで、平安時代関白・摂政のいなかった天皇です。(延喜・天暦の治といいます)つまり天皇親政。 これが実際には天皇家による藤原氏からの政権奪取ではなかったことはたとえば保立道久「平安王朝」(岩波新書)などで解明されていますが、後の東国政権との角逐の中で改めて、天皇親政という点がクローズアップされてくるわけです。で、そういうイデオロギーの元に天皇自らそう名乗った、ということですね。 (2)したがって他の天皇では後がつくのは死後の話なので、同じ理由ではありません。また後水尾天皇や後奈良天皇のように、天皇の諡号ではなく通り名(?といっていいのかどうかも学問的問題でしょうが)に後をつけたのもあります。前者は清和天皇、後者は平城天皇プラス後ですね。 (3)わかりません。ひょっとすると深い理由などないかも知れません。
補足
皆さんの説明で、後醍醐天皇は生前より後醍醐を名乗っていたそうですが、天皇の名前は数多くあるなかで、どうして醍醐天皇に注目して 後醍醐と名乗ったのかが知りたいのです、何かの本で醍醐天皇のような 天皇になりたいという願望をこめて後醍醐とつけたと書いてあった ような気がしますが、定かではありません、
- toshibonmama
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- kareki2006
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1)後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒し、天皇親政の時代を復活させようと尽力しました。 「延喜の治」と称され天皇親政の時代とされた、醍醐天皇の治世にあやかり、 生前自ら後醍醐の号を定めていました。 天皇の諡号や追号は通常死後におくられるもので、 もともと自分で決めるものではなかったのですが、 白河天皇以後しばしば自分で決めることも行われるようになりました。 これを遺諡といいます。 2)皆同じ理由かどうかはなんともいえません。 3)これはわかりません。ごめんなさい。
お礼
皆様ご回答いただきありがとうございました、 後醍醐天皇は相当醍醐天皇を意識していたようですね!