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御醍醐天皇、隠岐の島へ護送された道。
一行は、元弘2年3月7日に六波羅を出発し、鳥羽離宮で昼食しています。 ここから隠岐の島への道順を簡単でよいですから教えて下さい。 舟で瀬戸内海へ出たのですか。 また、京から北へ山陰道を選ばなかったのは何故ですか。 よろしくお願いします。
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陸路か海路かに関しましては、 『増鏡』、『梅松論』、『花園天皇宸記』などで確認しましたところ、 『増鏡』の「第十九 久米のさら山(元弘二年)」の記述を信じれば、 陸路であった事が伺えます。 「昆陽野の宿」(現:伊丹市)は海岸線から遠く、 「広田の宮の渡り」「布引の滝」は海岸線から近いとは言え、毎回乗下船は考え辛く、 明石手前の「大倉谷と言ふ所少し過ぐる程にぞ、人丸の塚は有りける。」などからも ほぼ陸路が推定されます。 ・『国史大系.第17巻/経済雑誌社編/経済雑誌社/1901.12』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991107/631 「増鏡/第十九 久米のさら山(元弘二年)」<630~641/652>(1229~1250頁) <631~635/652>(1230~1238頁) 〇増補本系増鏡・全二十巻 http://www.j-texts.com/sheet/msk.html HTMLファイル(読み仮名なし。増鏡・全二十巻) http://www.j-texts.com/chusei/gun/masukall.html P301~ 第十九 久米の佐良山 P302/…三月の初めの七日に、都を出でさせ給ふ。… P304/…六波羅より、七条を西へ、大宮を南へ折れて、東寺の門の前に御車抑へらる。… P305/…鳥羽殿に御座しまし著きて、御よそひ改め、破子など参らせけれど、… …淀の渡りにて、 (昔八幡の行幸有りし時、橋渡しの使ひなりし佐々木の佐渡の判官と言ふ物、 今は入道して、今日の御送り仕れるに、其の世の事思し出でられて、 いと忍びがたさに賜はせける。) P306/…先帝は今日津の国昆陽野の宿と言ふ所に著かせ給ひて、… …昆陽野より出でさせ給ひて、武庫川・神崎・難波、住吉など過ぎさせ給ふとて、 御心の内に思す筋あるべし。広田の宮の渡りにても、御輿止めて、拝み奉らせ給ふ。 葦屋の里、雀の松原・布引の滝など御覧じやらるるも、古き御幸共思し出でらる。 生田の森をば訪はで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿に著かせ給へるに、… P307/…播磨の国へ著かせ給ひて、塩屋・垂水と言ふ所をかしきを、問はせ給へば、 「さなん」と奏するに、「名を聞くよりからき道にこそ」と宣はせて、差しのぞかせ給へる… …大倉谷と言ふ所少し過ぐる程にぞ、人丸の塚は有りける。明石の浦を過ぎさせ給ふに、 「島がくれ行く舟」共、ほのかに見えてあはれ也。… …野中の清水・ふたみの浦・高砂の松など、名ある所々御覧じ渡さるるも、… P308/…十二日に、加古河の宿と言ふ所に御座します程に、… …十七日、美作の国に御座しまし著きぬ。 御心地悩ましくて、此の国に二、三日休らはせ給ふ程、… P309/…二十一日、雲清寺と言ふ所にて、いと面白き花を折りて、忠顕少将奏しける。… P311/…出雲の国やすぎの津と言ふ所より、御舟に奉る。… 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- takeruhiko
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承久の変の後鳥羽上皇と同じ、山陽道から出雲街道、のようです。なぜ山陰を行かないのかわかりませんが、江戸時代の江戸と山陰の大名の参勤交代も、山陽道から出雲街道だったそうです。街道の難路状態や、大人数が通り易いかなどの問題があったのかな?と思います。 下のサイトからの転載、引用ですが、 京都・・・加古川・・姫路・・津山・・(久米・・久世・・美甘・・新庄・・日野・・南部・・米子)・・安来・・美保・・隠岐 このルートのようです。 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/otayori8.html
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ご回答ありがとうございます。 素晴らしいサイト「鎌倉時代の勉強をしよう」ですね。 全部読みました。たいへん参考になります。 このサイトの回答のなかに「輿は加古川を超えて美作に入ります」とあります。 加古川を越えてという表現から陸路を通ったことになります。 が、疑問もあります。 この回答に示された太平記には加古川の地名が出てきません。 私もネットで太平記を読みましたが、加古川は出てきません。 また、加古川を越えて美作に入るというのもおかしいですね。 加古川は播磨一の川ですが、播磨の中ほどより東にありますから。 加古川あたりで御醍醐天皇の伝承があるのかも知れませんが、“美作”に引っ掛かりました。 美作に拘ると加古川ではなく、少し西の夢前川かも知れません。 太平記「備後三郎高徳事付呉越軍事」には、 臨幸余りに遅かりければ、人を走らかして是を見するに、警固の武士、山陽道を不経、播磨の今宿より山陰道にかゝり、(以下略) とあります。 今宿は、現在の姫路市今宿です。今宿を過ぎると夢前川で、美作に近付きます。 「今宿より山陰道にかゝり」もおかしいですが、出雲路と解釈することにします。 この地に来たことは分かるのですが、ここまで陸路だったのか、あるいは途中どこかで舟を利用したのでは、という疑問です。 女房3名を含む一行が、都を出てから出雲の見尾の湊まで13日間要しています。 >承久の変の後鳥羽上皇と同じ、山陽道から出雲街道、のようです。 そうでしょうね。
- papabeatles
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太平記でその話は読みました。 山陽道を通ったと思います。当時治安が良かった地域を選んで言ったのだと思います。 反政府勢力に後醍醐天皇を誘拐されるのを恐れたのだと思います。
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ご回答ありがとうございます。 海路ではなく陸路を選んだのですね。 湊川、須磨の浦、明石の浦、高砂等の地名が出てきますので、どちらかと思いました。 山陰道を避けた理由は分かりました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり陸路のようですね。 山陽道を選んだ場合、天皇の奪還を企む勢力もいたそうですから、また一行には女性が3人いましたから、舟を利用してなるべく早く姫路あたりに着いて、そして山越えの美作路へ進んだのではないかと想像していました。 太平記には、 …五百余騎にて、路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て、弓箭帯せる武士共、前後左右に打囲奉りて、… とありますから、天皇とはいえ謀反人を護送する態勢です。 こんな先入観念があったものですから、「野中の清水・ふたみの浦・高砂の松など、名ある所々御覧じ渡さるるも」とは意外でした。 「御醍醐天皇、隠岐へ配流」という字面からは思いもせぬ様子が分かりました。 『増鏡』も『太平記』も後世の回想記ですから、山陰道は物騒だったからとは書けず、山陽道を悠々と護送された、という筋書きになったのかもしれません。 とはいえ『増鏡』で決まりですね。 すっきりしました。