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信仰とは?
- 信仰とは何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの?皆で一つの教えを信じて仲間になること?
- 現代に生きる我々は何を信じるべきでしょうか?科学?人間?愛?お金?神?家族?自分の心?
- 人は全く何も信じないでは行動できません。哲学として皆さんが考えた結果、信じられるものは何ですか?
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ささくれた心を整えて、世間に溺れず、眼を備えて、耳聡くして、物事の真相を観察すること。 次第次第に明らかになる物事の真相を判じて、自分の人生の有様を決定する。 正しい信仰を持っている人にもし遭遇したならば、信仰について真に知ることができると思う。知らないことについては知らない、それに遭遇する迄は分からないことです。 しかし、自ら起こす信仰と言うのはあるはずであり、それは、自らのこころが指し示すところで、その対象は内的な光かもしれないが、確かに存在するものと言える。たとえ目が見えずとも、耳が聞こえずとも、こころが活きているならば、その人は光を得ているのであり、輝いているのだと思われる。 信仰とはその対象が主役ではなく、起こした人が主役なのではないか。 自ら起こした信仰が、自らに力を与える。 そのように私は思います。
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- cincinnati
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プロテスタントのクリスチャンです。昔、マルチンルターという方が「聖書に帰ろう」と述べて始まった運動の流れの中にいるものです。なぜプロテスタント(抵抗する者)と呼ばれるようになったのかと申しますと、それまでの聖書に書かれていることから離れてしまった従来のキリスト教からの決別、あるいは抵抗から生まれたからでした。聖書に返るとは聖書を神の言葉として其の儘受け入れるという事を意味しております。 聖書の言葉には多くは極めて不可解なたとえ話や、起こりそうにもない事件で満ち溢れています。この書物を読みますと、読者は自分の知性や理性や感情や希望や自分の存在までも脅かされるように感じます。通常の理性や知性のある方はその段階で聖書を放り投げてしまうものと思われます。(そのような方が多くいることを知って私どもクリスチャンが無力を感じ、祈らざるを得ないと感じる時でもあります。) しかしながら神はイエスキリストを通して、私どもに上にのべましたように知性から始まって自分の存在までも放棄するようにと勧めています。なぜならそれこそが神の目的であり、イエスの十字架における死の意味だからです。なぜ神はそのような出来もしないような決断を人々に要求するのでしょうか。それは神はあなたがご自分を捨てたときに、あなたに最高の生き方を用意しているからです。「それは禍でなく、あなたに将来と希望をあたえるものだ。」と述べています。今まで以上のよいものを用意しているので、不要な物は捨てなさいと述べているのです。 キリストを知った時、回答者の人生が180度変わりました。意志の力でなく、自分の望みの結果でもなく、ある意味自動的に変えられました。その結果自分は即座にありのままで生きるようになり、クリスチャンだから正しい生き方をしようとか、人にやさしくしようなどと努力することなく、より正しい生き方、人に対してもやさしい対応をするように変えられました。強制ではございません。内側が変わると外側が変わってくるだけのことです。なにも繕う必要もなく現状のままで自分はこの世に存在して良いのだという感覚であり、クリスチャン的な言い方をすれば、自分は神に100%受け入れられているという感覚と言えます。神が自分の味方ならばこの世に恐ろしいことなど確かにないと思います。 真理はあなたを自由にすると聖書は述べています。また私は真理であり、命であり、道であるとイエスは聖書で述べております。聖書は目に見えないところでつじつまが合っています。イエス=真理=命=道だと述べていますので、イエスのみに目を止められますようお勧めいたします。
お礼
私も教会はプロテスタントに行きました。 高校の頃もらったのが新約聖書だけだったので イエスに興味がありました。 幼稚園はカトリック幼稚園でしたが プロテスタントがいいと思っていました。 しかし教会に行ってみると しばらく言ってると急に 「あなたは何で洗礼を受けないのですか 悔い改めなさい!」と一喝され 面食らって逃げ帰りました。 そんな分かってもいないのに言われても何が何だか分かりません 聖書も旧約も付いた聖書を持っています。創世記とか幾らかは読みました 憶えていて面白かったのは(^^ゞ 牧師さんが「私は40日40夜の断食に挑戦します」 と言って 実際にそれを始めてしまったのです。 聖書にイエスがそれをしたと書いてあるので それが出来ることを証明するという 事だったのですが・・・牧師さんはだんだん弱り始めて 奥様が心配されて 「スープだけでも吸ってください」とかそれでも立って説教され これが信仰かと驚きました。教会は逃げ帰ったのでそこにはそれ以来行ってませんが アーメンハレルヤの賛美歌は楽しかったです^^ 仰ること大体分かるような気がします。聖書にはくすしき教えの知に満ちています 人間は霊だ 例が新しい命とならなければ 肉(体)だけでは死人と同じだ 人間は精神を守るために生きているのであって 動物は生命を守るために生きている。 人間はたまたま肉体がないと精神を維持できないから肉体を守ることで精神(人間存在)を守るのだ。と言う様な事も書いてあるように思いました。 他にも喩えによる様々な教えがあります。或いは一番大切な教えは?との問いに 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」 「隣人を自分のように愛しなさい」 とイエスが答えています。これも大切な教えだと思います。 イエスの葡萄の木に世界中の人が集まれば世界は天国の様になることでしょう ところがそうはなりませんでした。キリスト教国は異邦人の人々を植民地化したり 戦争をしたり酷い事をして イスラム教も離れてゆきカトリックとプロテスタントも別れたままです。 それらの神がみんな同じ神なのだと誰か書いていました。 私はそれはどうか分かりませんが クリスチャンに立派な人、尊敬すべき人、優秀な人が多いのは確かです。 いつか私も幼子のように「アーメン」と言える日が来ればいいのですが・・・ どうも大変ありがとうございます。
- 177019
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題目の効果?簡単に貴方に分かりやすく言うなら、「貯金」と言いましょうか。普通お金を銀行に貯金しておくと、いざ急な出費の時に何とか乗り切れるものです。それと同じ事で、お題目も日頃1時間2時間と唱えておくと、日頃の生活の中で窮地に陥ったときに、例えば交通事故これは相手からぶつかってくる事もありますし、こんな事は予測は出来ません。そんな時に自然にその事故を避けられたとか、後は、常に流れようとする自分の命の傾向性、私の場合はいくら信心を真面目にしていても常にお金に困るという、これは私個人の宿命です。この常に悪いほうに流れようとする命を自然に正しい流れに戻して、お金に困った事を、他人に迷惑かける事無く、自分の力で自分で解決できる。私はいつもこのお題目で助かっています。難しかったですか? 「日蓮の教えを三行で?」これは「一生成仏」つまりは、今、生きている間に成仏する。普通のお念仏は死んでから成仏ですが、我々は今、生きている間に成仏、宿命の転換をしてそして死を迎える。そうする事によって又来世も人間として生まれる。ごめんなさい。うまく書けませんが。ちなみに今月7日8日、富士宮市の本宗総本山大石寺において、本宗を開いた「日興上人御生誕770年奉祝大法要」に参列して参りました。
お礼
題目というのは「南無妙法蓮華経」ですね。確かにこれを1時間2時間と唱える人を何人か知っています。 大概は学会の人ですねえ。 宮沢賢治もこの「南無妙法蓮華経」は宇宙のリズムだと書いていたと思います。 雨ニモマケズは僕のバイブルでもあります。そういう者になりたかったですが なかなか役に立ちません。体調も悪くやりたい事も出来ません 「一生成仏」ですか。生きてる間に成仏する。修行がいるのでしょうねえ 悟るのでしょうか それとも只管題目を唱えるのでしょうか? 貯金ですか 天に宝を積むというのはキリスト教絵も言いますねえ 現世利益があるかどうかは分かりませんが(^^ゞ 日興上人御生誕770年奉祝大法要ですか それは凄いですねえ 大事です。 来世ですか 私には分かりませんねえ。前世も来世も千の風のように広がっているように思いますが・・・・ どうも大変ありがとうございます。
No.15です。 いやー。 酔っぱらいの言葉心から陳謝します。 内容に誤りは無いかもしれませんが、言い方が悪すぎます。 繰り返しますが質問者さまは私から見て一般的な水準よりも素敵な方ですからね? 何とかしようと思っているのに何もできないのは私も同じです。 日本はキリスト教宣教者の間では宣教の墓場と言われる事があるみたいです。 確かに日本は難しいです。 これほど自らの思考停止状態に疑問を持たない民族は珍しいです。 私はファザコンですが、私の父はかなり厳しい人でした。 厳しくても意味が分かっていたので酷いと思った事はありません。 殴られて頭から血を流しても専門家なのでけがの具合は見ればわかり、流血しながら殴り続けられたのを覚えています(笑) さすがにすげーなと思いながら殴られ続けましたが、それでも父を酷いと思った事はありません。 もちろん、父にもカスなところはあります。 でも、誰にでもカスなところはあります。私にも。 でも、カスでありながらも敬意は失っていません。 神も同じです。 子が親を選べない様に、この世の生きとし生けるもの全ては神から出ているのですから、神がどんな酷い存在であろうがどんな素敵な存在であろうが、父なる神である事実は変わらないんです。 父が厳しくて嫌だという理由で家出できたとして、そのDNAから逃れられるでしょうか。 法からはどりょくして抜け出せるかもしれません。でもDNAは無理です。 だから、酷な一面を見ても神は神なんです。 だから「信仰は既に賜物」なんです。 自力でたどり着けるならそれは何かの間違いです(笑) …言い過ぎか…(笑) 自分がカスである事を知るのは「現状認識」のためであって、決して自分を責めるためでもなんでもないのではないでしょうか。 現状を把握しなくては改善のしようがない。だから先ず自分がカスである事を知る必要があるだけ。 そこでへこんでしまったり無意味に責めたりする人情は解りますがあまり意味が無い行為に思えます。 開き直るのではなく、向き直るんです。 謙虚とは己の善し悪しを自覚し、その自覚に真摯に向き合って生きる事ではないでしょうか。 決して「いえいえ、私はそんな大したものでは」などと一生やってろと言いたくなる様な心にも無いセリフを言う輩の事では決して無いと。 善人ほど悪いやつもあまり見ません(笑) なんで善人たちはあんなにはずかしげも無く横暴を繰り返しながら自分を善人だと思い込めるのでしょうか(笑) 自分で殴った人の治療をするのは善行でしょうか(笑) 善人たちとの付き合いほど意味不明な思いに駆られる事はあまりありません。 ※今日は酔っぱらっていません。 基本的に口は悪いんですね…私は。。。失礼しました。
お礼
実は私は今日 貴方が記されたように 凹み落ち込み 人間失格なのでは?悪人だ と自分を責めていました。その様な世代でもあるのですが 「いえいえ私は大したものでは」も私もやります。 実際に大したことないからです。誤解されるんですよね 僕は知能指数が90もないと思います。何でも遅いのです。 そして親が我が儘の塊だったので その影響が体に染み付いています DNAにもあるでしょうね。何を言ってもいつかは失言します。 そのたんびに顰蹙を買い シーンとなって無視される その様な事がよくあります 私の父は我儘+残酷でしたから・・・繰り言ですねえ 善人ですか アメリカ人とか善人ですねえ。世界の正義を代弁しているのでしょうから ほかの国はみんな悪党か岡っ引きになってしまいます。 >謙虚とは己の善し悪しを自覚し、その自覚に真摯に向き合って生きる事ではないでしょうか 己の善し悪しがわかるように見つめ直したいです。開き直るのではなく向き合いたいです。 よく書いてくださいました。 どうも大変ありがとうございます・・・・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.25です。 じっさいにもっとも大事なことは 神がすべて同じひとつであるということです。 ゴッドもアッラーフもヤハヱーも ブラフマンもブッダも みんな名が違うだけで まったくおんなじだということ。 梵我一如だと受け留め受け容れるなら いわゆる宗教どうしのあいだで よほどその関係は変わってくると思いますよ。風通しがよくなるはずです。 信仰は 目に見えませんから そういった具体的な事柄が問題になると思います。 そして神がおんなじだだけでは かたちが落ち着かないとすれば インタムライズムをみんなで形作って行くとよい。こう考えます。ゆにこさんも いっしょにやる口ぢゃないの?
お礼
インタムライズムですか。あれは直ぐには難しいですねえ 良い事だし 理想的なことですが。 人間のやることですから なんかの関係とか切っ掛けとか、謂れがないとなかなか始まらないでしょうね。 お金のない社会も同じで まず人が内部から変わらないと 形を作るのは難しいです 楽しいとか 愛とか 儲かるとか 充実向上するとか そういうものがないと マザーテレサも まず日本の皆さんは日本で困っている人を大切にして下さい と言っています。 日本から愛を持って隣人として村に働きかける土壌が必要なのです。 お金のない社会も それはいい という人もいる一方で そんなこと無理無理 忙しくてそれどころじゃない と言う人が多いので なかなか実現しません。 子供と年寄りから始めるといいと思うんですがねえ 子供には夢があるし お年寄りには暇があります。お金持ちもいるし(^^ゞ 私も何かを信じてるのでしょうねえ。自分では分かりませんが 多分「真理に近づけば、人間は救われるだろう」と言うような事を信じてるのでしょうねえ 私は人を変えたいです。人々がもっともっと認識を深めれば、真の認識を深めれば 自然と上手く行くと思うのです。インタムライズム そんなにいいですかねえ? どうも大変ありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.2です。 さらに詳しく哲学すれば 信仰とは: 【Q:神 信仰ならびに宗教についての一般理論】 ~~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8893227.html 哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
そうですか う~~~む・・・ しかし 私の知る限り では神は精神に根拠を置いてるように見えますが。 精神抜きに自然を見渡すと 何処にも神はない様な ただ大自然の摂理と宇宙の法則があるような。 宇宙の法則にはエントロピーが増大するか減少するか、安定するか 組織化、意識化 この意識化によって神なる人格神が生まれたような。 宇宙の法則は飽くまで人間なぞ居なくてもいい様なものですが しかし確かに梵我一如 宇宙は形ある永久的な組織と精神・コンピュータの様な意識を 求めてる様でもあり。 人間が神になるのを待ってるような気も。梵我一如になる時を。 神でないなら 何を信仰していらしゃるのでしょうか? 何を信じて 何を信じられないのか? 非知もどんどん開拓されているわけでしょう? 貴方なら宗教を統一する事も出来そうですが 如何でしょうか? どうも大変ありがとうございま。
- 177019
- ベストアンサー率30% (1039/3444)
「有名な団体?」、創価と思われますが、私は平成12年に脱会しております。平成2年まで創価は本宗の信徒団体でしたが、創価の横暴激しく平成3年に本宗は「破門」処分としました。今の創価は、完全なる「新興宗教団体」で、度重なる内部の会則の変更を経て、教えの根本の根本である日蓮直筆の大御本尊を否定する決議を行い、いわゆる貴方が言う「信仰の対象」を否定したという事は、そこに何の意味も無く、会員は、選挙で「公明党」に投票する事が「聖戦」であり、宗教を信仰する事と、選挙に行く事は全く関係が無い事で、それは「洗脳」であると思います。そういう公明党の動きは自民を批判するように見えて、最終的には集団的自衛権に賛成した。これは公明党としてのパホーマンスで、「政教一致」の批判を避けるために自民に従順しているのです。話が反れてしまいました。宗教に関する質問をまたお寄せ下さい。
お礼
日蓮宗、日蓮正宗の事はあまり知らないのですが・・・ 題目を唱えますよねえ。南無妙法蓮華経 でしたっけ あれを唱えるとどのような効果があるのでしょうか?日蓮の教えを想起するのでしょうか? それとも気分が良くなり 集中力が高まり 心に力が湧いてくるというような そのような効果があるのでしょうか? 創価学会のことはあまり書けません マジで怒られるので怖いです。 日蓮の教えを二、三行で書くとすれば どの様なものなのでしょうか? この機会に教えて頂ければありがたいです どうもありがとうございます。
- kurinal
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yuniko99様、こんばんは。 黙示録を「奥義」とする方も、居ます。 (信教の自由かもしれませんが) (・・・いや、「オウム」や「アレフ」じゃないですよ)
お礼
黙示録はなんですかねえ 私には滅茶苦茶なことを書いてるように見えますが 意味があるんですかねえ その喩えのような暗喩が? あれを奥義としたら、どの様な信仰になるのでしょう 心配ですねえ。 オーメンの様にならなければいいですが どうもありがとうございます。
こんにちは♪ No.15です。 因に、私は聖書を真理の書だとは思っていますが、事実(史実)の書だとは思っていません。 進化論?何の問題もありません。 進化という過程を経て神が人間を作ったとしても何の問題も無いからです。 メシアでもない人が死人を蘇らせたり、etcなどは聖書をよく読めば「その権能を与えられているから」と解ります。 隅々まで読んでもまだ白熱議論止まない聖書を斜め読みでどうこう言うのは少しアレですよ? バスが土砂に埋まった時、遭難や地震、後藤さんや湯川さんの件を上げていらっしゃいますが、神はノアの時代にノアの家族以外の全人類を自ら滅ぼしているんですよ? また、イエスもたかがイチジクの木に実がなっていなかっただけで木を枯らしていますし、イエスの直弟子ですらイエスの言う事を聞かなかった民に対して「天から火を落として滅ぼしましょうか」という発想を持っている。 旧約に至ってはエリアという大予言者の力を受け継いだエリシャという予言者はガキんちょにハゲとおちょくられただけで呪いで熊をけしかけて殺している。 たかが子供にです。 神に最も愛されたかのソロモンも色欲にかられて人妻を抱え込むためにその夫を戦地に向かわせ死ぬ様にけしかけている。 ヨハネの黙示録だって、死人の数が一定数満ちるまで悪魔が人を殺すに任せています。 このように挙げれば切りがありません。 人主体ではないんです。 あくまでも神が主体なんです。 イエスに向かって「良い先生」と呼びかけた人に対して、イエスはこう言っています。 「なぜ私を良いと言うのか、良い者は神しか居ない」と。 思考停止ではなく、思考が及ばない範疇なんです。 とここまで書いた時点で思い直しました。 あなたはある程度の答えが内にあり、それに沿う答え、もしくは自分の知能レベルの範疇で乗り換えようと思える様な知恵を求めているのであり、必ずしも真実を求めているのではないんですかね。 今日は酔っぱらいです。 まーお好きになされば良いが自分の答えがある以上真実が見えないのは当然と言えば当然ですよ。 人は答えを求めるが、人生で得られるものは答えに至る道のみであり、答えはえる事ができないと思います。 人々が「答え」と言っているのは私に言わせれば「暫定意見」です。 言葉は正しく使ってほしいし、自らも使うべきだと思っています。 あなたは見た感じ一般的な水準よりも真摯で誠実かもしれませんが、上記に適合するのであれば所詮一般的な水準の範疇内です。 桁というか次元が違うんですよ。信仰は。 上司と同じ考えを持っている部下が居たとしたら、その部下の心は自分の心でしょうか、上司の心でしょうか。 信仰がある程度のレベルまで極まるなら神と人との間で同じ事が起こります。 その時その信仰者は「自分を信じている」のと同義です。しかし同時に自分のことなどどうでもよく、神を信じているのです。 同じなのですから。 質問者さまは軽々しく「愛」という言葉を使っていますが、「愛」とは何の事でしょうか? どういう認識を「愛」に与えているのでしょうか。 もしあなたが本気で知りたいと望んでいるのならあなたは信仰に根を持つ者である可能性が高いので、その内得られると思います。求め続ければ。 信仰も悟りも得たと思っても次の信仰、次の悟りがあり、一人前と言う事はありません。 死ぬまで不完全な存在なんです。 強いて言えばどうしようもない存在である自覚を伴いながら明るく希望と喜びと感謝と愛とをもって活きられる事が信仰でしょうか。 自分がどうしようもない存在である自覚すらできない内はひよっこ以下です。 すみません(^^;) たぶん大分口が過ぎていますよね。 少しはお分かりだと思いますが真摯に生きようとするとストレスフル極まりない世界ですから溜まっているものがこういう時に出てしまうんです(笑) カスがカスの自覚無く自分は立派だとかオッケーだとか考えながら生きている姿を見るともう感想としてカスの2文字すら出てこないほど飽きれるのみなんです。 質問者さんの事を言っているのではありませんからね?くれぐれも。 質問者さんは一般的な水準よりも真摯で良い意味で真面目だと見えていますから。
お礼
これはまたどうも カスでもボケナスでも糞転がしでもゴミムシダマシでも何でもいいですよ そう言ってくれた方が楽です。何とかしようと思っていたのに 何も出来なかった訳ですから・・・ 僕は最初、新約聖書だけ貰ったのでイエスに興味をもちました。 いろんな知恵持ち主だったからです。四福音書を何度か読みました。 旧約の神は苦手です。同じ神だというのなら 愛の神とはとても思えないことを許しますねえ それで信仰できない人も居るのではないでしょうか? 酔っているんですか?まあ酔ってる方が本音が出ていいのではないでしょうか? 貴方が真摯に生きてることは分かりますよ、聖書を全部読んでるみたいですし クリスチャンかもしれない。 自分がどうしようもない人間である。人間と言えるのだろうか?人間失格か? 僕の世代はそう思う人が多かったですよ。自分を責める時代でした。 人間は罪深いものなので 謙虚な心で生きたいです。悪人正機説というのもあります 私の父も酷い父でした。 そのDNAと影響を多分に受けているので・・・お恥ずかしい。 どうも大変ありがとうございます。わざわざどうも^^
- amenhotep2000
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yuniko99さん こんばんは。 キリスト教はご利益宗教ではない。 キリスト教の神は慈悲深い反面、厳しい面も持つ。 yuniko99さんはどこまで聖書を読んだか知りませんが、パウロの言葉に 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら主は愛するものを鍛え、子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである。」 ヘブライ人への手紙12章5節 と言っています。 ここでマザーテレサについて添付します。 http://plaza.rakuten.co.jp/tsukipink/22002/ ここに1970年において、ベイルートにおける内戦のことが、書かれてますが、yuniko99さんは、マザーテレサの祈りが神に通じたので、奇跡が起り、砲弾が止んだと思いますか? それとも、内戦を行っている双方の良識のある幹部が、マザーテレサが来ていて、私たちの同胞を救うため、いったん砲撃を止めようとしたことで、偶然、砲弾が止む時間があったと思いますか? 私は「祈る」という行為もひとつの行動と思ってます。 yuniko99さんの他人の為に祈るということができるということはすばらしいことと思います。 しかし、ひとつ尋ねたいのは、自分の周りのあたりまえの小さなことに感謝し、祈ることはあるかということです。 例えば、食事の時、ひとこと「いただきます。」ということもひとつの祈りと私は思いますよ。 しかし、不完全な私はそれさえも忙しくできず、あたりまえのように食事をすることがあります。幼稚園の頃「ご飯だ、ご飯だ、さあ食べよう♪」などと感謝の歌を歌って食べていたことが、懐かしい。 添付したマザーテレサの素顔をみると、そのような、小さなことをも大切にした上で大きなことをしていたと思います。 大事の前の小事ということわざがありますが、これは、大きなことを成し遂げようとする時は、小さなことを軽んじてはならない。という意味と、大きなことを成し遂げようとする時は小さなことは、いちいちかまっていられないというふたつの意味がありますが、どちらが正しいと思いますか?yuniko99さんは、大きなことを成し遂げようと、日々努力していると思いますが。 信仰とは、私は、小さなことも出来ない不完全なちっぽけな人間だと認識することから生まれると私は思います。 東日本大震災が起きたとき、科学立国の日本でも、まさか、マグニチュード9.0などという地震が複数の断層が連鎖し起きるとは、思ってもいなかったですし、地震の備えは完璧と思われた安全神話の原子力発電所も、まさが堤防を上回る、大津波が来るとは思っていなかったでしょう。 私は大いなるものの存在を信じます。それは、神や仏や自然に見出されるかもしれない。ひとそれぞれと思います。 特に日本は、地震や台風や火山の噴火など自然災害という、普段は美しいが、時には牙をむくという自然があり、これを科学的になんとかコントロールしても、現在においても自然にはかなわない。不完全な人間は、謙虚になるべきと思ってます。 さて、無神論者の中に、神は人間が作った概念であるとして、自分自身でマイ神様を作るという人がいますが、これらの人が、上述のように、自分自身は不完全な人間と認識していれば問題ないと思います。しかし、おごり高ぶって、自分は完璧な人間であると思ったら、危険です。 キリスト教やイスラム教では、偶像崇拝禁止であり、原始仏教においても仏像は造られなかった。なぜかというと、人間が神を作ったならば、所詮神は人間において作りえる自己と同等のものであり、人間が神となることが出来るからです。これが、人間における最大の罪であり、ヒトラーのような独裁者が生まれるでしょう。 キリスト教においては、イエス・キリストは神なので、聖書を肯定するなら、何の罪も犯さない完璧な人間と描写されています。だから、奇跡ができる。しかし、人間は不完全で、間違いを犯すものです。 長文になりましたが、とりあえず私は、今日一日、生き延びて、日記のような記録を回答できたことに感謝して寝ます。 おやすみなさい。
お礼
僕は1年だけカトリック幼稚園に通ったので 「天にましますわれらの神よ アーメン」と言ってお弁当を食べてた様に思います。 その幼稚園も転園し、全く違う世界で孤独になり、劣等生になって惨々でしたが 今は一人暮らしで買ってきた惣菜を、あたかも動物が餌を食うように食べていますが 人前では「頂きま~す」を言うこともあります。 レジでは「ありがとうございます」とかいちいち相手の言葉に答えてますねえ(^^ゞ 一事が万事といいますから 小さなことを大切にしないと行けないのでしょうけど ついつい誤字脱字も出ますねえ。 マザーテレサの信仰は「声が聞こえた」と言うのも大きかったのでしょうねえ あのような素晴らしい信仰を持ってみたいものです。 貧しい人、苦しんでいる人に少しでも力を貸して上げたいものです。 その事で自分が救われるのでしょう。 僕の知り合いにもマイ神様を信心してる人がいますねえ それで力が入るなら その力をどう使うかが問題ですねえ 良いことに使うならそれもいいのかもしれません。 偶像崇拝というか・・・像は文字の様なものでしょうからねえ 言葉のようなものですから まだ清らかなマリア像は忘れてないですねえ 偶像崇拝にこだわる必要はないと思います。 素晴らしい言葉の数々 日記とすれば見事な日記ですねえ^^ よく分かりました どうも大変ありがとうございます。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
>哲学として皆さんが考えた結果 これは信じられるというものはなんですか 迫りくる自分の死です。 こればかりは、どうにも避けられそうもない。信じるに値する未来です。 メメント・モリ。 限りある命ではあるが、この世に生まれ、有限の生を全うできる僥倖に感謝し、今日は晩酌でもしようかな。
お礼
まあ 一杯飲んで 来し方行く末 そして昇天を想像してみてください その時に皆がどう思い 後に何が残るか。 死ぬまでに自分の出来ることを 悔いなき様にやって置かないと 生きた意味が薄れますからね。 肴は何ですか?刺身ですか?焼き鳥でしょうか^^ どうもありがとうございます。
お礼
何と言うか 正論だと思います。信仰とは本来そうあるのが良いのでしょう。 よく分からないまま 薬師如来に手を合わせ 念仏を唱えるというのもありますが 心を澄まして知り得たことに信を置き 自分が主役の人生に力を得る事の出来る信仰を持つのが 信仰のあらまほしき姿であると僕も思いました。 成る程流石ですね どうも大変ありがとうございます。