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信仰や精進って自己の為?
信仰や精進。 此れって教えや教理を大切にし、自己の為(多様でしょうが)ということは直接目的としないと思います。 その自己の為っていうのが人さまざまで、レベルや性格も決して一義的ではないと思います。 でも信仰や精進って反省したり分析すると、自己の為に努力しているように思えてきます。 またどの宗教もご利益やら効益などをうたっています。 人類や自己の至福や幸福の為とか。 或は神とは至福であり、幸福であるという宗教もあります。 *その神たる至福や幸福って何たるかでしょうが。つまり酒や色欲などではないでしょうが。 宗教の信仰や精進って、結局、自己の為なのでしょうか?
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宗教についてはあまり詳しくありません。 それでも、「ブッダのことば」や「臨済宗」「禅語」 「新旧聖書」「コーラン」等、一応当たってはいます。 そして、現在、ウィリアム・ジェイムズの「宗教的経験の諸相」を再読中です。 「宗教的経験の諸相」については、神秘体験による神との合一が主たるテーマにように感じます。 これは、仏教における悟りに近い印象を受けます。 そこで、世俗の煩悩から大きく離脱します。 この感覚は一流のアスリートが到達する感覚に似てるように感じます。 たぶん、芸術家もそうでしょうね。 さて、それを自己の為と呼ぶのはどうかとも感じます。 勿論、自己の為になる訳ですが。 実際、仏教は一切の衆生を救うことを願っているようです。 そうしようとする人を菩薩と呼ぶようです。 そして、SDGsの理念にも、「誰も取りこぼさない」という項目もあるそうです。 これは、仏教で言う大悲心やキリスト教の隣人愛に近いのかなと感じます。 後、アリストテレスの、「幸福とは自分が得た知識や技術で人の役に立つこと」というスタンスにも近い気がします。 つまり、人はまず自分を幸福にして、尚且つ、他者の幸福にも貢献しないと真の幸福は得られないのではないかと思います。 ただ、これは、世間に大見得を切って大層なことをしなくても ごく身近でささやかなことでも十分であり、問題は量ではなく行動の質なんだと思います。
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- kaitara1
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夏目漱石も言っていますが、自分んとは何かと考えてみると結局わからないものだということなのでは。漱石の異色の弟子、物理学者だった寺田寅彦も同様のことを言っています。ほとんどの人は錯覚して自分というのが何だかわかったつもりになっています。信仰は、ほんとうはわからない自分を何とか意味づけようとする無意識の努力のあらわれだろうと思います。宗教が簡単に大衆を操る道具に使われてしまうのも同じ理由でしょう。若くして華厳の滝に投身自殺を試みた藤村操の苦悩は象徴的です。人生不可解と!
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ありがとうございました。 その通りなんですね。
- qwe2010
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宗教は、自分の欲望のためです。 お金を出して、いろんなことを要求します。 欲が少ない人には、信仰する気持ちはわきません。 お金、健康、幸せ、精神的な安らぎ、危険な人の排除、等。 ドラえもんの、ポケットのように、あらゆるものに対応できます。
お礼
なるほど。 そういう宗教、そういう宗教側面を云うことはできるかもしれませんね。 ありがとうございました
お礼
ありがとうございます。 ”宗教についてはあまり詳しくありません。”はご謙遜だとはっきり分かりました。 素晴らしいコメントです。