• 締切済み

信仰とはどんな感覚なのでしょうか?

自分は無宗教です。信仰に対して理解が乏しいですが、宗教を持っている人とうまく接していきたいので理解を深めたいと思います。 宗教を持っている人はむしろ多数派ですし、信仰心というものを持ったり神仏や宗教指導者を崇拝する性質を多くの人間が持っているのは疑っていません。自分も本当に追い詰められた時に「神に祈る」という精神状態になったことがあります。ただし、それは現存する特定の宗教の神仏ではありませんでした。 宗教指導者や教典にはまったくあこがれやありがたみを感じません。善悪や正義、愛といった価値観は宗教がなくとも養えるものであり、逆にそうした倫理の根拠を宗教に求めることで柔軟性を失ってしまうことには危機感すら感じるので、自分は受け入れることは出来ません。また、科学が世界の仕組みを明らかにしていく上で、宗教に基づく説明、たとえば「お空の上には神様がいる」といった説明がまったくウソであることが判明してしまったりして余計に信用に足らず、ありがたいどころか真実を見失わせる胡散臭いものとしか感じられません。そのためか、自分には信仰という感覚がまったく理解できません。信仰心を持つというのは、いったいどんな感覚なのでしょうか?とくに根拠のない宗教的な説明に価値や説得力を感じる人がいるのは、どんな理由によるものでしょうか? どなたからの回答も歓迎いたしますが、「以前信仰心を持っていたことがあるが、現在はあらゆる宗教に対してまったく信仰心を失っていおり、客観的に信仰を説明できる」「自然科学的な演繹に基づく事実と、宗教に基づく非科学的な概念の両方を受け入れ持ち合わせている」といった方のコメントを特にお待ちしています。

みんなの回答

  • ikiruimi
  • ベストアンサー率25% (2/8)
回答No.13

宗教とは、生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」と向き合うために存在すると思います。 私は実際、生きることが大変苦痛で、宗教を求めた人間の一人です。 信仰とは、まだ見たことのないことを信じて求める行為であると思います。 たとえば、神、愛、救いなどをです。 既存の宗教の旧態依然とした教理には、科学的な解明が全面的に欠如していると思われます。 生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」は、 宇宙の第一原因者たる神について知らなければ解くことができません。 本来人間は、神が人間に与えた祝福、すなわち喜びを実現するために生まれてきます。

  • lotus64
  • ベストアンサー率23% (3/13)
回答No.12

創価学会の者です。私も意見を述べたく思います。 まず、宗教といえば、「神や教祖様におすがりして、多額のお金をお布施すれば救われると説く、単なる気休めに過ぎない」といった固定観念があります。しかし、他の方も言われていたように、宗教には正邪があるのです。 正しい宗教とは、決してそういうものではなく、「自分自身に内在する無限の可能性を引き出す」ものなのです。また、教祖とか絶対者といった「外部のもの」に頼るのではなく、だれの内面にも秘められている、限りない知恵と生命力を開発していくものです。そこには「自分自身で自分の行動を決定付ける」という自律性があります。他の者に盲従して、自分を見失うといったものではないのです。そして、その引き出した「知恵や生命力」があれば、目前の課題や困難があっても、それらに立ち向かい、乗り越えていくことができるのです。あたかも山登りで、体力、脚力が弱ければ、登ること自体大変で、辛く感じられますが、体力も脚力も強ければ、周りの景色を悠々と楽しみながら登っていくことができるようなものです。 しかし、そのためには「生命と宇宙とを貫く根本法則」に基づく必要があります。それを仏法では「妙法」といいます。「妙法」とは「南無妙法蓮華経」のことです。正しい本尊に向かい、「南無妙法蓮華経」と唱えることが、その「知恵や生命力」を引き出す具体的な実践です。これによって、生活上の行き詰まりが打開され、不可能だったことが可能となり、自在の境涯になれるのです。これを「宿命転換」とも「人間革命」とも言います。 また、真の力ある宗教には「文証」「理証」「現証」の三証がなくてはなりません。文証とは、ある教義・主張が経文等の文献上で裏付けられているか否かという基準。理証とは、その教義が道理に適い、また理性のうえから普遍妥当性があるか否かという基準。また現証とは、教えを実践した場合、現実のうえでその通りの結果(功徳)が現れるか否かという基準のことです。三証の中でも「現証」こそが重要です。 実際の生活のうえに、幸福の「現証」を引き出し、人生の勝利者になる。これこそが、信仰の最も重要な意義と言えます。

Foxtrot_OW
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。新たな方のご意見を拝聴でき、たいへん嬉しく思います。 >教祖とか絶対者といった「外部のもの」に頼るのではなく……限りない知恵と生命力を開発していくものです。 もし宗教によって知恵や生命力を開発できるのであれば、最先端の研究を行う研究者や、プロスポーツ選手や長寿の方々が創価学会員で占められていることになるでしょうが、そのような話は寡聞にして存じ上げません。「宗教は気休め」という主張は単なる固定観念ではなく、特別な才能を発揮する人々の創価学会員の割合は一般人に比べ有意に大きくはないという事実から導かれる結論です。 「教義に従う」ことと「自分自身で自分の行動を決定付ける」ことは矛盾しているように見えます(自己決定の結果、学会の教義と同じ行動をとることになった、という説明をすると矛盾は生じませんが、その場合「自分自身で自分の行動を決定付ける」という主張自体がそもそも無意味になります)。その主張によると、足がかりとして既存の教義に沿うことは有効でしょうが、すべての既存の教義から抜け出して自分自身が作り上げた信条に従って行動するのが最終的な状態になります。つまり、やがて創価学会を脱会してご自身の新たな宗教を打ち立てるのがあなたの現在の宗教活動の目的ということでよろしいでしょうか? >「文証」「理証」「現証」の三証 自分の知らない新しい概念が登場して、たいへん興味深いです。新しいかたに参加していただけたおかげです。 >実際の生活のうえに、幸福の「現証」を引き出し、人生の勝利者になる。これこそが、信仰の最も重要な意義と言えます。 信仰の意義をこれ以上なくわかりやすく表現して頂けたと思います。大変参考になると同時に、自分の予想通りであったことを確認できました。あとは「現証」を自分が確認できる形で知りたいと思います。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.11

No.2です。 >どんな活動や体験をし、どんな疑問を持ち、それにどんな回答を得られ、そして教義を信ずるに至ったのか。 ・私の生まれ育ったた環境は、やっと一台のテレビが我が家に来て、村中の人が夜になると我が家に集まり、何かの番組を見ているような、丁度、3丁目の夕日的な時代背景を幼少の頃生きてきました。 歳の近い叔母は、当時の歌謡曲のレコードを買ってきては、私と一緒に聞いていました。曲を覚えた私は、日頃から茶ぶ台の上に乗っては、一曲歌を披露しては、拍手を浴びたものです。もの心付いた時にはエンターティナーというか「人を喜ばせる」といった心情が有りました。これは今でも変わっていないかもしれません。 17歳の頃に、オートバイに乗り、何気なく田んぼ道を走っている時に、一匹の子犬が飛び出してきて、撥ねてしまったのです。当然、子犬は体を震わせていましたが、まもなく死んでしまいました。もちろん、きちんと埋葬はしました。いくら泣いても子犬の命は戻らず、自分の犯してしまった事に対して、悔やみ続けました。 その時に、初めて、「あの子犬の生命はどうなったのだろう?」という疑問に出会いました。それまでは、蚊などの「虫」を殺した記憶はあっても「生き物」として認識していた物を殺したことはありませんでした。 ・22歳の時に、音楽の師匠から「創価学会」の話を聞き、仏法というものが生命状態を顕したものだという事に強い興味を抱き、入信いたしました。最初は私も、組織の先輩から色々な話を聞き、活動の内容について指導を受け実践してきました。勤行から始まり、協議会、座談会、同時中継、そして折伏、選挙支援等、青年部時代より壮年部になった今日まで続いています。 今回のご質問の中での私の冒頭の回答にも書かせていただいたように、宗教という「基準」を持つ事で、生きる意味だったり、自身と環境の関連性だったり、明確に思考できるようになりました。 「一念三千」といった瞬間瞬間の生命状態は、書籍の活字ではなく現実の私の生命の中にあり、その生命状態を変革し、現象として現れる事を良い方向へと向かわせる事も体験しています。 ・十数年前にあるところに写真を撮りに行き、その風景に感動を覚えたものです。「あぁ、こんな所に住みたい。」と瞬間に思った事が、数年後、結婚を機に、居住こそしてはいませんが、「奥さんの実家」という形で顕われてきました。事あるごとに、その素晴らしく気に入った所に帰っています。 ・折伏をした数ヶ月後、幼少の頃から続いていた中耳炎の症状が止みました。酷い時には、頭が激痛に襲われ、立っていられません。耳からは悪臭を伴った耳垂れが流れ出してきます。病院での検査結果は、聴力こそ元には戻ってはいませんが、症状は現れてはおりません。止んでから、もう10年くらい経過しています。それまでは、30年間、毎日続いてました。 その他、小さい体験は多々存在します。

Foxtrot_OW
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。返答が遅くなって申し訳ありません。ご自身の体験を詳しく語っていただきありがとうございます。今回頂いた回答は、自分が求めていた回答にかなり迫るものです。 >宗教という「基準」を持つ事で、生きる意味だったり、自身と環境の関連性だったり、明確に思考できるようになりました。 基準を持つことは物事の判断を的確にしたり、他者にその判断を説明する上でたいへん重要なことだと自分も思います。ただ、基準が間違っていれば判断を誤ってしまうのは自明です。やはりここでその基準が正しいと判断する理由が必要になってきます。 >折伏をした数ヶ月後、幼少の頃から続いていた中耳炎の症状が止みました。 自分は小学生のころに発症したアレルギー性鼻炎の症状が、近年になってとても軽くなっています。また、軽い貧血もなくなりました。ところが折伏どころか仏教の教えにも当然何の関わりも持っていません。むしろ創価学会の方のいうところの「邪教」であるキリスト教をわずかにかじっていたにも関わらず、それについて目立った罰は受けていないようです。 「折伏したあとに病気が良くなった」というのは「折伏したから病気が良くなった」とは異なりますし、頂いた回答を見る限り折伏と病気が快方に向かったのを結びつける理由は見当たりません。数ヶ月という間隔を考えても、両者は無関係でしょう。 小さい体験はたくさんお持ちのようですが、「決定的な体験」はなにかお持ちではないでしょうか?

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.10

No.2です。 私の入信動機も、入会時に深く創価学会や仏法について理解したうえで入会しているわけではなく、その後、様々な活動や学習、体験を通じて疑問に想い、調べたり、尋ねたりして現在に至っております。もちろんこれは「信仰」ですから、「信ずる」ということが大前提になります。 >あなたはなぜ家族と言葉を交わす時間を削ってお題目を唱えるのでしょうか。 ・確かに、仏前に端座して御題目を唱える時間を考えれば、その分他の事に時間を当てることは出来るでしょう。 しかし、御題目を唱える事に意義があれば、それを行うでしょうし、逆に御題目を唱える事で、家族との会話が出来ていないということはないと思います。 これには、信者である人と信者でない人の価値観の違いは当然あると思いますので、質問者様にそう感じられても仕方の無い事だと思います。 そこで、信者側として、お題目の意義について、お話をさせていただきます。 そもそも、「南無妙法蓮華経」と唱える唱題行は、自行として天台大師、伝教大師もされていた事が明らかになっていますが、御本尊に向い御題目を唱える事によって、自身の生命状態を変革させる事を目的としています。あくまでも、自身の生命状態です。他人の生命状態ではありません。 生命状態とは、命の傾向性とも言いますが、大きく分けて 1.地獄界・・・怒りや苦しみの状態 2.餓鬼界・・・利己的な欲望に支配される状態 3.畜生界・・・本能にまかせて行動する状態 4.修羅界・・・自己中心的で、自我を優先させる状態 5.人 界・・・欲望や衝動を理性によって抑制し、調和を保てる状態 6.天 界・・・満足感や喜びの生命状態 7.声聞界・・・過去の教えを紐解き、自己の向上を図ろうとする状態 8.縁楽界・・・自然界の現象や周りの縁に因って自己変革を起こそうとする状態 9.菩薩界・・・他の生命の尊厳に対し奉仕しようとする、慈悲の状態 10.仏 界・・・自然の哲理を極め尽くし、大善の行動を進める状態 といった、十界というものがあります。 これを更に細分化したものが、一人一人の生命に等しく備わり、瞬間瞬間に縁に触れ変わっていくのが生命であるといわれています。(一念三千法門:天台大師) そして、その生命状態を変革し、より善い状態へと高めていく為に、御題目を唱えているのです。 また、私たちの周囲で起こる出来事は、その生命状態に連動して起きてくるのです。全て一人一人の生命状態の現われが現在であり、未来であると説かれています。 この生命状態の中に、戦争も、平和も、飢餓も、安穏も厳然と存在するのです。だから、私達創価学会員は日蓮大聖人の教えの通り、日々御題目を唱え、仏法を語っているのです。 これこそが、日蓮大聖人の遺言であり、釈尊の末法への提言であり、広宣流布の姿なのです。 今、現在、日本だけでなく、世界200ヶ国地域で、同じ御本尊に向い、世界の同士が24時間途切れることなく、平和と安穏の祈りを込めた御題目で地球を包んでいるのです。

Foxtrot_OW
質問者

補足

>様々な活動や学習、体験を通じて疑問に想い、調べたり、尋ねたりして現在に至っております そこです。そこなんです。ks5518さんがどんな活動や体験をし、どんな疑問を持ち、それにどんな回答を得られ、そして教義を信ずるに至ったのか。それが知りたいのに、 >そこで、信者側として、お題目の意義について、お話をさせていただきます。 >そもそも、「南無妙法蓮華経」と唱える唱題行は という方向にまたもや話がそれてしまいました。「十界」なんて自分も聞いたことがありますし、資料をあたればいくらでも調べることが出来ます。そんなことをわざわさこのサイトで質問したりしません。知りたいのは御書やら教学の書籍の内容ではありません。ks5518さんについてです。それはks5518さんにしか答えられないでしょう。ioukaさんからはご自身のご懐妊についての経験をもとにした回答を頂きました。欲しいのはそういう回答なんです。 >これは「信仰」ですから、「信ずる」ということが大前提になります 人間は生まれたときから仏法についての前提をもって生まれてきているわけではありません。それは世界の大半が仏法者ではないばかりか、仏法とはまったく異なる前提をもとに生きているかたがほとんどであることからおわかりになると思います。ks5518さんは数十年もさまざまな活動を通して仏法における前提が真実であると確かめてきたと思いますが、それで得られた根拠はたったひとつ、「信じているから」しかないのでしょうか? 自分は猫こそがもっとも美しく崇高な動物だと「信じて」いますが、このような「信じる」ということに基づくものは「信条」に過ぎず、猫を可愛がるという自分の行動の指針になるにしても、自分以外の人間と常に共有できるようなものではないと思います。逆に言えば、「信条」の根拠としては「そう信じているから」で十分だと思います。 自分は「地球は丸い」という「仮説」を真実だと考えていますが、その根拠は「信じているから」ではなく、沖に出た船が下から水平線に隠れていくことからそう考えているもので、そうやって確かめられた仮説は誰にとっても真実であるといえるはずです。逆に言えば、「そう信じているから」ということはそうした「仮説」の根拠にはならないと思います。 そのふたつを区別して考えますが、「人間の生命状態は10に分けられる」は他者の内面にまで客観的に説明している以上、「信条」ではなく「仮説」だと思います。仮説は確かめてこそ意義があります。確かめられない仮説はフィクションと呼ばれるものです。したがって「そう信じているから」という説明はとくに意味がないでしょう。 十界のような説だけでなく、世界には「世界は神様が七日間で作った」とか、「アダムとエヴァの罪がすべての人間に受け継がれ、人間は永遠の命を失った」とかいう説もあります。ks5518さんはこれらの説を信じますか?信じないとしたらなぜ信じないのでしょうか。このような説を主張するかたがいたら、どのように反論しますか?

  • iouka
  • ベストアンサー率25% (8/31)
回答No.9

まだ信者さんからの回答はないようなので、引き続きまた私が回答させていただきますね(^^; >ファンタジー小説の内容を事実だと主張しはじめたり、ただの人間を本気で「救世主」とか「預言者」とか思い込みその指示に盲目的に従うようになったら、それはもはや個人の趣味や楽しみとして認識できる領域を超えていると思う これは全く同感です。この代表的な例がオウムでしょうね。盲目的に教祖を信じて殺人さえも犯してしまうというのはとても怖いことです。宗教戦争についても私も理解できません。例え、その先に彼らの描く幸せがあったとしても、目の前の人たちを殺戮によって不幸にしているということに気づかなくなってしまっている・・それが宗教の恐ろしさだと思います。最初に言ったように私は神・仏については信じていますが、宗教というものには嫌悪感を抱いています。その理由がこれです。盲目的に何かを信じることの恐ろしさ・・これが宗教にはありますよね。何故ここまでなってしまうのかは私も知りたいところですね・・。 >本気で体を鍛えるためだと息巻いてスポーツのテレビゲームソフトで遊んでいる人に、それは違うだろうとつっこむのはお節介ではないと思うのです これは明らかに間違っていることをしていると証明できますよね?座ってゲームをしていてもどこの筋肉も動いていないのだから鍛えていることにはならないと。だからお節介ではないと思います。 ただ、信仰に関してはちょっと意味が違ってきます。今の幸せは神・仏のお陰であると信じている人に、「いや、それは間違っている」ということを合理的・科学的に説明することはできますか?おそらくできないでしょう。UFOと同じで、神・仏など霊的なものが存在するか否かということは科学的には説明できないものですから。ですから、これを信じることが非合理的だということにはならないと思います。 >幸せとは、生きていること、あした食べるものに困らないこと、帰る家があること、自分の夢を追えること、信頼できるひとがいること まさしくその通りです。信者の方もおそらく幸せとはこういうものを思い描いているでしょう。信者の人にとってはそういう幸せな生活を送るためには宗教をする、普段このような幸せな生活を送っていられるのは宗教のお陰だという解釈をするわけです。決して目先の満足のためだけに宗教をしているわけではないと思いますよ。信者にとって幸せと満足は同じ土台にあるものだと思います。つまり、宗教の先に幸せを思い描いているからこそ、宗教活動自体に満足を得られるのではないかと思います(私は信者じゃないのでこれは推測です)。 Foxtrot_OWさんはおそらく神・仏などの存在自体を信じていないのですよね?その存在を信じられないうちは信者の気持ちは理解できないのも当然だと思います。信者は神・仏の存在を信じているのですから。「何故、存在するかどうかも確認できないようなものを信じられるんだ?」と言われれば、信者側は「何故、存在するかどうかも確認できないものを否定できるんだ?」と言うでしょうね。 先にも述べたように、宗教に盲目的に没頭する人の気持ちは私にも分かりません。しかし、私のように自分の中で自分の信じるものに密かに信心するという気持ちは少しは理解できたでしょうか?私にとっては今の幸せはご先祖様のお陰もあると思っていますが、他の人から「そうじゃないと思うよ」と言われたところで、それは納得できないわけです。何故かというと、ご先祖様のお陰ではないということを誰も証明はできないからです。証明ができないのだから否定もしてほしくないと思うわけです。 今回の回答はほとんど一つに論点を絞ってみました。 神・仏・霊的なものが存在するという根拠もないけれど、存在しないという根拠もないのだから、否定も肯定もできないということです。 従って、信じるものと信じないものとに分かれるのだと思います。

  • iouka
  • ベストアンサー率25% (8/31)
回答No.8

>信仰を持っていても大仏にご利益があることを合理的に説明するのを無理にでも迫られます。ここでどう説明するのかがこの質問の焦点になります(もちろん「大仏」はもののたとえです)。 今までいろんな大仏が建てられてきましたし、○○さんの銅像みたいなのもいくつか建てられてきましたが、どちらにしても現実的な意味はないものだと思います。もちろんお寺が自分の寺の資金で建てたものは問題ありませんが、なかには国の予算や市の予算などで建てられたものもありますよね?これらを建てるときに合理的な説明があったのでしょうか?ないですよね・・。おそらく“国の守り神”“市の守り神”“象徴”みたいな感じで建てられたんじゃないでしょうか?こういう分野に関しては理論的な意味は必要ないと思うのですがね・・。それを一般市民も暗黙に了解しているからあのような像を建てるときに「納得のいく説明しろ!」なんて言う人はなかなかいないでしょう? >信心は広範に影響する非常に現実的な問題にもなりうるということです。 ここなんですよね!私が問題視しているのは・・。何かを信じることは個人の自由だと思うんです。それこそ信じている人に「信じるな」というのは、人の部屋に勝手に入ってきて「この部屋おかしい」と言って部屋を荒らしていくようなもんだと思います。 ただ、信仰をすることによって周囲に迷惑がかかるということは問題だと思います。宗教をしながらも合理的な判断を忘れていない人は周囲の人も分からないぐらいひっそりと宗教を行っているものです。ですが、宗教にはまってくると合理的判断基準が狂ってくるみたいなんですよね・・。これは私も理解できないことなので信者の方の意見を待ちましょう。 >信者のかたに「賽銭箱に放り込むお金があるなら、そのお金で家族におみやげでも買ってあげなよ」と勧めるのはお節介なのでしょうか? お節介でしょうね(^^;一般的にみると確かに正しいこと言っていますが、宗教をしている人からみればお節介だと思います。今まで議論してきたように価値観が違いますから、“お土産を買って家族の喜ぶ顔を見る”というのはFoxtrot_OWさんの価値観であって、“宗教団体にお布施をして徳を積んで家族が幸せになる”というのが信者の価値観かもしれません。ちなみに家族がFoxtrot_OWさんと同じような価値観を持っているのにお布施にばかりお金を遣うのは明らかに家族を不幸にしていると思われますが、家族みんながお布施をしたいという価値観であれば家族はそれで幸せなわけです。 例えば、宗教でなくても“ゴルフにお金を使う旦那”と“エステにお金を使う妻”はお互いに理解できませんよね?どちらも合理的な利益はありません。(接待ゴルフやモデルをしている妻は別ですよ(^^;))どちらも自己満足だと思いますがそれでもお金を使ってしまいます。なんのためでしょう?自分が楽しいから、自分が満足するから、そんな感じでしょうか?賽銭箱にお金を入れるのも同じ次元だと思いませんか?そうすれば本人が満足するんですよ。宗教なんて趣味みたいな感覚だと思います。趣味にはまりすぎて借金をしたり、家族に迷惑かけてる人もたくさんいますしね・・。 >信者でないひとがふたりで話し合っていても、片寄った意見した生まれない気が……。 私も思っていました(^^;同じ質問を新たに提示してみては?また目立つところに出て新たな回答者がでてきてくれると思いますよ。その際にこのページをリンクしておけば今までのいきさつも分かりますしね!

Foxtrot_OW
質問者

補足

>こういう分野に関しては理論的な意味は必要ないと思うのですがね 税金をわけのわからない銅像なんかを買うのに使われるのは自分はイヤですね。機会があれば抗議に行きたくなります(実際は面倒なので行かないでしょうが)。 国分寺建立の詔によると、国分寺なんかはちゃんと疫病や不作を改善するのを目的に建てられているらしく、単なる象徴でもなさそうです。聖武天皇は本気で信じてたっぽいです。とはいえ、聖武天皇に「ちゃんと根拠を説明しろ!」と抗議するガッツのある人はいなかったでしょうね。 "【金光明最勝王経】には『もしもこの経を読誦すれば、我が四天王が常に擁護くださって、一切の災難を消し去り、病気も取り除き、常に歓喜に満ちあふれた生活を送ることができる』と書いてある。そこで諸国に七重塔を建てて、金光明最勝王経と妙法蓮華経を十部(誤記らしい)ずつ写すようにするものとしたい。" (http://members.at.infoseek.co.jp/bamosa/mikotono.htm のページより引用) >家族みんながお布施をしたいという価値観であれば家族はそれで幸せなわけです。 ここを読んでいるときに思いついたのですが、もしかして宗教って「手段」ではなく「目的」なのですか?体を鍛えるためにゴルフをする人もいるでしょうが、ゴルフで楽しむこと自体が目的の人もいます。信者のかたは宗教を幸せになる手段として利用しているのかと自分は思いこんでいましたが、実際は「幸せになれるから」なんて建前で、単純に信仰を楽しんでいるのでしょうか。そういえば「宗教楽しいよ」って言う人は結構いますね。楽しいとかの問題かよ!とは思っていましたが……。 >宗教でなくても“ゴルフにお金を使う旦那”と“エステにお金を使う妻”はお互いに理解できませんよね?どちらも合理的な利益はありません。 「ゴルフをするのは楽しい」「エステにいくとすっきりする」などの自己満足は十分合理的な理由になる思います。他人からは理解しがたいでしょうが、それが自体が目的である以上否定しようがありません。逆に、「学力を高めたいからゴルフをする」のは非合理です。同様に、「幸せになりたいから信仰する」のは非合理だと自分は考えていますし、「楽しいから信仰する」は合理的だと思います(そのコストを考えると決して効率的ではないとは思いますが)。ioukaさんが「流産を免れたのはご先祖さまのおかげだと思っている、そのご先祖様に感謝すると満たされる」と信じるのは十分合理的だと思いますし、コストもほぼゼロなので、“赤ちゃん自身の生命力”や“産婦人科の先生のご尽力”をないがしろにしないかぎりは問題ないとおもいます。 汗水垂らして稼いだお金を、自分の欲しい物や家族友人へのプレゼントも我慢して赤の他人に寄付するのが楽しみ?これはさすがに理解しがたいし、たとえ実害がなくとも不安を感じます。ましてや、ファンタジー小説の内容を事実だと主張しはじめたり、ただの人間を本気で「救世主」とか「預言者」とか思い込みその指示に盲目的に従うようになったら、それはもはや個人の趣味や楽しみとして認識できる領域を超えていると思うので、そのような人たちに強い違和感を感じるわけです。客の価値観や生き方にまで口出しするゴルフのコーチやエステティシャンがいたら、自分ならそんな趣味やめてしまいますね。とはいえ、この質問ではそれを否定することが目的ではなく、理解すること(もしくは理解しようがないと理解すること)が目的です。 それに対して、宗教を「手段」として考えている場合もあるわけです(自分は今までこの場合だけを考えていました)。たとえば、本気で体を鍛えるためだと息巻いてスポーツのテレビゲームソフトで遊んでいる人に、それは違うだろうとつっこむのはお節介ではないと思うのです。 また、「満足」と「幸せ」はまったく異なると思います。極端な話になりますが、たとえば歴史上何度も見られた宗教戦争で、宗教指導者の教えに基づいて戦争に臨んだひとたちには、それが世界を救うと信じその身を捧げることに満足感を得た人もいるでしょう。でも、自分には信心にしたがって戦ったひとに幸せだったひとがひとりもいるとは思えません。死ぬこと、相手の命を奪うことが幸せであるとはどうしても思えないからです。これは個人の内心に留まるレベルの信仰にもいえます。幸せとは、生きていること、あした食べるものに困らないこと、帰る家があること、自分の夢を追えること、信頼できるひとがいること、そういった具体的なものであって、満足は一時的な感情に過ぎないのです。満足も人間には必要ですが、目先の「満足」を得るために宗教を持つのはあまりに効率が悪く、本当の意味で継続的な満足を得られる「幸せ」は遠のくばかりだと思います。だから、宗教を求めるひとが自分には理解できないのです。

  • iouka
  • ベストアンサー率25% (8/31)
回答No.7

>「根拠はないけれど、なぜかそれを肯定したいと思う気持ち」を「信じる」というのでしょうか。 この考え方が一番近いと思えます。物事を信じるにはそれなりの根拠がいると思っている人はおそらく宗教に入ることもないでしょうし、宗教的な行動をすることもないのではないでしょうか。従って完全に理解することも難しいかと・・・。宗教というものは“科学的”根拠のないものですから。例えば私の前回の意見を例にあげると“赤ちゃんが助かったのはご先祖様のお陰とは思えない”と考えるのは現実的な考え方をする人の見方です。逆に“ご先祖様のお陰だったかもしれない”と思うのが宗教的な考え方をする人の見方です(これが宗教的な考え方をする人にとっては立派な信じる根拠となり得るわけです)。もし宗教をする人の気持ちを理解したいのであれば後者の考え方をまず理解する必要があります。 人間というのは人それぞれにいろんな考え方を持っています。Foxtrot_OWさんのようにきちんとした根拠に基づいて物事を考え、全ての事柄には理論的に説明がつくと思われている方もいらっしゃいますし、理論ではなく物事を感覚で考える方もいらっしゃいます。宗教という分野を完全に理論的に説明をつけようとするのは無理です。感情的なものですから。ジンクスの話においても、Foxtrot_OWさんのような方であればダメだと思えば簡単にやめられますよね?でも、宗教にはまっているような方はこれを簡単にはやめられないタイプだと思います。「何故やめられないのか?」を理解したいのであれば、上記にも書いたようにそういう性格の人もいるのだということをまず理解することです。 現実的な人:「宗教なんてなんの根拠もないんだしやめれば?」 宗教的な人:「今まで起きた良いことは宗教のお陰かもしれない。宗教をやめたら辛いことが起こるかもしれない・・」 現実的な人:「どこにそんな根拠があるの?」 宗教的な人:「根拠はないけど絶対に宗教のお陰でもないという確信もないし・・」 こんな会話はいつまでたってもかみ合わないですよね?お互いの価値観・考え方がまるで違うわけですから。 話はそれますがUFOは信じますか?あれも科学的な説明がつかないものですよね?科学者は科学的説明がつかないからと言って批判する人も多いですが、宇宙はとても広いものです。あれだけ広大な宇宙の中に地球人よりも高い知能を持っていて、星と星の間を自由に行き来できる人類がいても不思議ではありません。それを説明できないのは私たちの知能が足りないだけであり、UFOが絶対に嘘だということにはならないわけです。例えあれが宇宙人でなかったとしてもUFOは“未確認飛行物体”ですから否定すること自体おかしな話です。自分の物差しの範囲で説明ができないからと言って物体自体を否定をするのはおかしいですよね? 元の話に戻りますが宗教・霊的存在についても同じことが言えます。そのご加護があるかどうかということは現在の私たちの知能では確認のできないものです。確たる証拠がないから信じる余地もないだろう!という人もいれば、宗教のご加護・霊的存在がないということを実証することもできないのだからいるかもしれないだろう!という人がいるのも当然なことです。 私はもともと現実的なものの考え方をする方ですが、昔から霊的現象と思われる経験を何度かしたことがあるのでこちらの方面も否定はできないと考えています。Foxtrot_OWさんの意見はとても理解できるし私も一方ではそういう見方をしているのですが、やはり私たちが知り得る以外の存在にロマンを感じたり救いを求めたりする人たちもいるということです。

Foxtrot_OW
質問者

補足

再びのご回答ありがとうございます。 答えが少しずつ見えてきましたね。いくつもの補足とご回答を重ねた甲斐がありました。 ちょっと本件とはズレますが補足しておきます。よく誤解されているのですが、科学者は「UFOや霊は存在しない」と主張しているのではなく、「根拠もないのにUFOや霊が存在と主張するのはやめてほしい」と言っているのです。UFOや霊がいるかどうかは科学者にもわかりません。ただ、間違った主張が広まるとやはり間違った判断が増え公共の利益を損ねますし、いったん広まってしまった説を訂正するのはひと苦労ですから、間違いないとわかったものから取り入れていくべきで、根拠のないうちから取り入れるのを認めるわけにはいかないのです。十分な根拠が示されれば科学者はUFOや霊の存在を認め、既存の理論に加えてUFOや霊の存在も説明できる新たな理論の構築に取り掛かります。少なくとも公の議論の場において、これらは信じるかどうかという問題ではありません。 >宗教という分野を完全に理論的に説明をつけようとするのは無理です。感情的なものですから。 「大仏建てれば国が豊かになるから予算くれ」と「道路作れば国が豊かになるから予算くれ」という二つの主張があった場合、公共団体がどちらに予算を割くかは誰もがその信仰に関わらず納得できるよう、十分な効果が望めるほうに予算を割り当てなくてはなりません。そこでもっともらしい根拠をもって説明することが絶対条件になります。「感情的なもの」では他の信条をもつかたは納得しませんから、ここで信仰を持っていても大仏にご利益があることを合理的に説明するのを無理にでも迫られます。ここでどう説明するのかがこの質問の焦点になります(もちろん「大仏」はもののたとえです)。これを信仰を持っているかたにぶつけてどんな反応が返ってくるのか知りたかったわけです。 それが埋めようのない価値観の大きな違いだとしても、意見を擦り合わせることは避けられないのです。それでよく戦争が起こるわけですから、平和裏に同意を得るためにもちゃんとした理屈に基づくのは絶対に必要です。もし「感情的なもの」で多数の同意を得ることができ多数決で押し切ることができたとしても、それで国が存続できるかとても心配です。 >お互いの価値観・考え方がまるで違うわけですから 「赤より青が好き」「カレーよりのシチュー方がおいしい」といった価値観はまさに人それぞれだと思いますが、普遍的な価値観というものもあると思います。信仰を持つかたがその教えを「真実だと信じている」ということから、信仰を持つかたもウソより真実に価値を見出しているのは間違いないと思っています。真実を知ること、そして真実にしたがって物事を判断すること、これらが大切である点はどんな信仰を持っているかたでも同意を得られる普遍的な価値観なのではないでしょうか。そしてその真実を見分ける方法論として、根拠のない教えはあまりに頼りないと思います。 >やはり私たちが知り得る以外の存在にロマンを感じたり ロマンは自分も大好きです。でもロマンは現実とは別に楽しむべきだと思うのです。救いも現実にしかなく、根拠もないのに心の中に現れるのは救いではなく「気休め」だと思います。気休めも大切ですが、まずは救いが欲しいです。 ioukaさんの場合は信仰が個人の内心の範囲に留まっている例だと思いますが、信心は広範に影響する非常に現実的な問題にもなりうるということです。そして、誰もが合理的な判断と衝動的な感情を持ち合わせていますが、信者のかたは信心を合理的判断とどう折り合いをつけているか、ということがこの質問のもうひとつの焦点になります。今日のラッキーカラーの青い服を着るか、気になるあの人が似合うと褒めてくれた赤い服を着るか……信心と合理的判断の綱引きは誰にでもあるはずです。そして、それは宗教を持っている人ではより顕著でしょう。 ところで、信者のかたに「賽銭箱に放り込むお金があるなら、そのお金で家族におみやげでも買ってあげなよ」と勧めるのはお節介なのでしょうか?相手の利益に確実になることをアドバイスすることはお互いのためになることだと思うし、そうしたほうが神頼みより確実に家族の喜ぶ顔を見ることができると、誰もが納得してくれるかと思うのですが……。また、もし身近なひとが自分の理解しようのないデタラメな考えを吹き込まれているとしたら、(それまで実害がなかったとしても)それは不安で仕方ないことです。 (ここらでバリバリの信者のかたが答えてくれたりしないかなぁ。ioukaさんが物足りないという意味じゃありませんが、信者でないひとがふたりで話し合っていても、片寄った意見した生まれない気が……。もちろんよろしければioukaさんをはじめ無宗教のかたもご意見いただきたく思います)

  • iouka
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回答No.6

No.3です。 ふと気づいたことがあったのですが・・・ 私は宗教団体に対しては不信感を抱いているので信じない側の意見として書いていましたが、実は私も“神・仏”の存在は信じており毎晩お祈りもしています。そういう点では、十分に信者側の視点にたった意見ができますよね(^^; 改めて、そちら側に立った意見を書かせていただきますね。 私は神・仏というものを昔から信じていましたし、霊的現象も信じていたのですが、毎晩お祈りをするようになったのは2年前からです。その時は待望の赤ちゃんを妊娠したものの流産の危機に陥ってワラにもすがりたい思いでした。だからと言って人間ごときが作り出した宗教に頼りたいとは思っていませんでしたので、ただただご先祖様に「赤ちゃんを助けてください」とお願いしていました。結局のところ、流産の危機を乗り越えたのですが、その一番の理由は“赤ちゃん自身の生命力”と“産婦人科の先生のご尽力”のお陰だったと思います。ですが、ご先祖様の助けがあったのかどうかということは形に見えるものではありませんから分かりません・・それこそ、信じるか信じないかの世界です。私はご先祖様の助けもあったのだろうと信じたので、それから毎晩ご先祖様に一日無事に過ごせたお礼をするようになりました。ここで信じるか信じないかが、今まで論じてきた思考回路の違いになるのではないでしょうか? それでも私は日常生活を脅かす程の入信には否定的な考えを持っていますので、お祈りは寝る前の2分程度です。それ以外のことは何もしていません。もちろん、宗教にハマっている人のように時間やお金を費やすことは全くありませんが、根本的な部分では私のこのような考えと宗教にハマル人とでは似ているのではないかと思います。 毎日毎日お祈りを続けていると、そのうち問題が解決されろうがされまいが関係なくなってきます。お祈りしていること自体が日常生活になってきて、お祈りをしなかったらなんとなく気持ちが悪いというか・・・止めたらバチが当たりそうな気さえします。宗教を辞められない信者の気持ちはまさしくそれと同じではないでしょうか。 どうでしょうか?少しは信者の気持ちをご理解いただけたでしょうか? 現実的な人は「なんで、形もないような神や仏を信じられるの?」って思うかもしれません。でも、信じる人にとっては形がないからこそ信じ込んでしまうのかもしれません。はっきりとした形・答があれば「これは間違ってる」って分かりますが、形がなければそれが本物なのか間違っているのか分かりませんよね?分からないからこそ裏切られることもありませんし、信じられる対象になり得るんでしょうね。

Foxtrot_OW
質問者

補足

>毎日毎日お祈りを続けていると、そのうち問題が解決されろうがされまいが関係なくなってきます。お祈りしていること自体が日常生活になってきて、お祈りをしなかったらなんとなく気持ちが悪いというか・・・止めたらバチが当たりそうな気さえします。 なるほどです。"ジンクス"みたいなものでしょうか。知り合いの信者のかたも、朝にお祈りだとかお題目をあげるだとかすると、その日は調子良くすごせるとか言っていましたね。詳しいデータは取っていないのに、自分が毎朝ヨーグルトを食べると胃腸の調子がいいような「気がする」のと同じ感覚なのでしょうか。でもこの習慣は止めようと思えば止められるし、止めることが恐怖や違和感に繋がるほど強迫的じゃないかな。 >ご先祖様の助けがあったのかどうかということは形に見えるものではありませんから分かりません・・それこそ、信じるか信じないかの世界です。 信じるか信じないかは人それぞれなのでそれ自体を肯定したり否定したりはしませんが、ご先祖様の助けがあったという説明には客観的に見て納得はしません。流産を乗り越えたのはお子さんの生命力はもとより、ioukaさんご自身の力によるものではないかと思います。たとえば自分が「流産の危機を乗り越えたのはドラえもんのおかげだ」などとわけのわからない主張をしたとしても、あなたはそれを信じることはないと思います。「ご先祖様のおかげ」にも「ドラえもんのおかげ」にもまったく根拠はありませんが、それでもあなたは「ご先祖様のおかげ」は信じるのに「ドラえもんのおかげ」は信じないでしょう。このあたりの違いがなぜ生まれるのかを知りたいと思います。自分は物事を信じるにはそれなりの根拠が必要なのではないかと思いますし、根拠のない事柄は自分の考えに組み入れたりはしないのが普通の感覚だと思うのです。それとも、「根拠はないけれど、なぜかそれを肯定したいと思う気持ち」を「信じる」というのでしょうか。

  • iouka
  • ベストアンサー率25% (8/31)
回答No.5

No.3です。 >実際に宗教が問題解決に結びついた例は少ないように思えます。 そうでしょうね(^^;実際には宗教で事実的な問題解決に繋がるはずはありませんから。あくまで入信のきっかけです。ただ、解決されたように感じる人、悩みが幾分楽になった人は多くいると思います。 私は身近にいる信者のことしか分かりませんから、その人を例にあげると・・入信のきっかけは皆、悩みがあったからです。しかも人間関係でした。離婚・子供のいじめ・子供との生き別れ・子供の非行など・・。それらで受けた心の痛みはなかなか解決できるものではありませんが、宗教が何らかの形で救いになったのは事実のようです。 実際に悩みが解決に向かったと言っている人もいました。もちろん私は宗教のおかげではないと思っています、悩みだって時間がたてばいつかは解決します。その時間がたっただけだと思いますが、信仰をした人は信仰のおかげだと思います。そこから抜け出せなくなるのでしょうね・・。本当かどうか知りませんが久本雅美も売れない時代に創価学会に入ったそうですね。それから売れ出したので信仰のおかげだと思っているそうです。 また、ある信者の人はこんなこと言っていました「自分の人間性を磨くために宗教をしている」と。私から見れば宗教で磨かずとも自分の努力でいくらでも磨きようがあるだろう・・と思ったのですが、少なくとも宗教はそういう方向に目線を向けてくれるようです。悩みがあっても「自分が未熟だったんだ。もっと精神修行しなければ」と思えば、悩みの痛みは薄らぎますよね。 また「宗教は楽しいよ~」と言っていた人もいました。私の分析では、この人は友達がいないので宗教というサークル内で仲間とお話することが楽しいのだと思います。もちろんこの人は宗教について質問をしても何も分かっていません。でも、本人が楽しく生きれるのであればそれもいいかなと思います。宗教に対する思いも人それぞれですよね。 >自分の宗教だけを尊重する理由がそれでは説明しにくく思えます。 No.2の方のように深く考えていらっしゃる方は別として、私の周りの信者の人たちは自分の宗教の教えに添ってしか他宗教を理解していません。つまり、自分の宗教の中で他宗教は邪宗だと教えられていれば何の疑いもなくそう思っているのです。もちろん、他宗教のもっともらしいことなんて見てもいません。私は仏壇に般若心経を唱えるのですが、創価学会の知人から「般若心経はダメだよ~内容に意味がないからね」と言われました。もちろん般若心経にも意味はありますが、創価学会の人からはそう見えるのでしょうね。他宗教に関する知識はそんなもんです。 >難しいことを考えず投資するには、宗教は時間的、金銭的および精神的なコストがあまりに大きすぎます。 精神的コストという面では上記にも書いたように「自分の人間的成長のため」と思っている人にとってはあった方がいいものです。 時間的コストという面においても、私達から見ると全く無駄なことに時間をつかっている・・と思えますが、宗教をしてる人にとっては無駄な時間という感覚がありません。例えば、私としては仏壇に拝む暇があったら仕事や勉強をした方が余程自分の力になると思うのですが、信者は仏壇に拝むことの方が精神修行になると思っていたりするので・・これは思考回路が違うのでしょうね。 金銭的コストという面でも同じです。彼らにとって宗教につかうお金は無駄金ではありません。また私の知人を例にあげますと・・自分の幸せ・家族の幸せを願ってお布施をします。自分の宗教団体の教えを得るために本を買っています。幸せな成仏のために団体のお墓を購入しました。いつのまにか目的が自分の精神修行ではなく、幸せの為になっていますね(^^;つまり私が言いたいのは、信者の究極の願いは“幸せ”ではないかと思います。何のために宗教をしているのか?と尋ねるといろんな答えが返ってきます。へぇ~すごいなぁ!と感心するようなことを言う人もいます。でも実際の行動を見ていると「所詮、幸せになりたいだけなんでしょ」って言いたくなります。当然ですよね、人間は誰だって幸せになりたいです。それを現実世界の中で見出すか、宗教という媒体を借りるかの差じゃないでしょうか?

Foxtrot_OW
質問者

お礼

ふたたびありがとうございます。 ioukaさんのご意見を見ていると、どうも自分は信仰には何か深い理由があると考えすぎなのかも思えてきます。 >信者は仏壇に拝むことの方が精神修行になると思っていたりするので・・これは思考回路が違うのでしょうね。 ここなんですよね。ここを「思考回路が違う」として追究を止めるのは面白くないけど、どうにも答えに近づけない、まったく理解不能なんです。知りたい。それでもまだまだ知りたい。 あと、どうにも理解できないことは、信者の方は報いがなくとも宗教活動を止めたりはしないという点でしょうか。医者は効果がなければ投薬を止めます。しかし、「お金が溜まる」「病気が治る」といった非常に具体的な効能が唱えられていて、信者の方はいつまでも自分の望みがかなわなくとも教えを疑いません。「信じる」ということには、疑問は深まるばかりです。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.4

No.2です。 補足をいただきましたので、回答をいたします。 >表面的に捉えると胡散臭く思える方便とその真意の例を、、、 「妙法蓮華経 比喩品第三」 三車火宅の譬え ・ある長者の家が火事になり、屋敷内で遊びに夢中になっていた子供たちは火事だといっても気が付かず、逃げ出そうともしない。長者は知恵をしぼり、門外にある三車(羊車、鹿車、牛車)を子供たちに与えると言い、屋敷の外に出した。そして、実際には等一の大白牛車を与えた。・・・という話。 ■煩悩の火に包まれた三界の衆生にたいして、仏が権経を説いて導き出し、一仏乗の法華経を説いたという事。・・・開三顕一の法門の譬えとされている。 >「縁」や「衆生」といった、、、「生命状態」「善のリズム」といった言葉も、、、 ●縁・・・自身が影響される、外的要因の事。 ●衆生・・・一般的には人間の事。 ●生命状態・・・生命は三千の状態からなる事を説く。「一念三千」(中国:天台大師)。一念は瞬間の生命、三千は現象世界の全てと説く。 ●善のリズム・・・生命は縁に触れ、それを因として果をもたらす。良いものに縁すれば良い因を踏み、良い果となる。 言い換えれば、「南無妙法蓮華経」の御本尊に縁し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることで、自身の生命にある仏性が開かれ、所願満足の生命状態になる。 >その教えは真実であるがゆえに、、、ぜひとも教えていただけませんか? ・「妙法蓮華経」(鳩摩羅什訳)には、「妙法華経を説くべし」、「法華最大一」、「広説妙法華経」、「我有大乗、名妙法蓮華経」等。 ・妙法蓮華経の開経である、「無量義経 説法品第二」の中で、「四十余年、未顕真実」といって、今まで説いてきた権経の教えを仏自ら否定し、法華経を説き始める。 ・中国:天台大師、日本:伝教大師も自行として『南無妙法蓮華経』の唱題行(題目を唱える修行)をしていた事が明かされている。 ・日本の仏教各宗派の教義に於いて、釈尊の本意である法華経に基づくものが無い事。 ・そうした中、日蓮大聖人は末法の一切衆生の為に、「南無妙法蓮華経」の大御本尊を残された事。 >そこを是非とも省かないで教えて頂きたく思います。 ・元々、仏教思想というものは、人々の苦悩の救済のために誕生しています。 人間の生命状態と取り巻く環境や自然現象との関係を関連ずけ、正しい法に帰依することにより、自身の生命状態を変革させ、災害や病、争い事など無い安穏で平和な世の中の実現を目的としています。 人々が幸せになり、豊かな心で社会的生活し、地域、国土に豊かで平和な毎日が潤う事は万人の望む事ではないでしょうか。 しかしながら、日本の仏教史においては、先師の教えに背き、自我の教義を勝手に立てたり、元々が実体の無い、いい加減な教えを「真実」ととらえ、邪義が国中に広まってしまいました。 そんな中、鎌倉時代に入ると争い(戦)は激しさを増し、天災は多くなり、作物は実らず、飢饉が続き、疫病が流行り、巷には屍骸が散乱するようになります。 当時の鎌倉では、念仏(南無阿弥陀仏)が大流行し、時の権力者でさえも念仏の僧を擁護し、寺を寄進していました。 そうした中、徐々に念仏を捨て日蓮大聖人の法門である『南無妙法蓮華経』に帰依していく民衆が現れてきました。 自分の檀家が減ってしまう危機感を持つ念仏の僧侶は、信徒である権力者に取り入って、デマを作り上げ、権力を味方につけ、命を狙います。 此処に、聖職者と権力者とジャーナリズムといった、悪の三位一体の虚構が出来上がるのです。そこには、貪り(聖職者)と怒り(権力者)と愚か(ジャーナリズム)の生命の三悪道の状態がハッキリと顕われていることに注目するべきでしょう。 また、釈尊は「妙法蓮華経」の中で、正法(正しい法、妙法蓮華経のこと)を流布すると難や迫害が競い起こる事を経典に文字として残しています。 日蓮大聖人は、時の権力者最明寺北条時頼に提出した「立正安国論」の中で、邪義邪法を国が改めなければ、同士討ち(自戒叛逆難)と他国からの侵略(他国侵逼難)が起きると経文より示され、これを無視した鎌倉幕府に兄弟の謀反による同士討ちとモンゴルによる侵略戦争が現実のものとなります。 長くなってしまいましたが、こんなところでしょうか?

Foxtrot_OW
質問者

補足

方便の例を教えていただいてありがとうございます。なるほど、表向きにはただのとんち話ですが、実はこれは仏様の勧誘テクニックのたとえなわけですね。面白いです。またまた「権経」とか「一仏乗」とか専門用語がいっぱいですね。 >邪義邪法を国が改めなければ、同士討ち(自戒叛逆難)と他国からの侵略(他国侵逼難)が起きる 世界的にはキリスト教やイスラム教がなど、回答者の方がいう「正法」とは似ても似つかない「邪法」が大勢ですが、それらの国がすべて大きな災難に見舞われて滅亡もしくはその寸前かというとそうでもないし、幾らか「正法」が普及している日本が他の国に比べて安定しているかというとそうでもないように見えます。何にでも宗教が影響していると考えるのは僧衣さんのわるいクセです(いや、創価学会は在家集団か)。 >生命の三悪道の状態がハッキリと顕われていることに注目するべきでしょう。 うーん、自分にはハッキリとは見えませんね……。このご三方はいいこともしたり、わるいこともしたりと、その影響の良し悪しを一言では言い表せそうにありません。そういえば、創価学会さんも聖職者と権力者とジャーナリズムの全てをその身に宿していましたよね。 >人々が幸せになり、豊かな心で社会的生活し、地域、国土に豊かで平和な毎日が潤う事は万人の望む事ではないでしょうか。 自分もそう思い、家族や友人を愛し、社会に貢献し、平和を尊ぼうと思います。だから家族の話に耳を傾け、お客様を第一に最高の商品とサービスを提供し、テロや過剰な軍拡を非難しようと思います。そこにどう見てもお題目や御書が入り込む余地は見つからないのです。あなたはなぜ家族と言葉を交わす時間を削ってお題目を唱えるのでしょうか。