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信仰のお誘いについて
- プロテスタントの方々との関係を通じて、信仰のお誘いについて悩んでいます。自身は無宗教でありながら、信念に対する理解と興味を持っています。しかし、クリスチャンになる気はなく、参加することで罪悪感を感じるようになりました。また、贈られる書籍にもプレッシャーを感じています。
- 仕事の関係でプロテスタントの方々と交流している私は、信仰のお誘いに迷っています。私自身は無宗教ですが、信念に対する一つの道徳観としての信仰に興味を持っています。しかし、自分がクリスチャンになる気はありません。参加することで罪悪感を感じてしまい、また贈られる書籍にもプレッシャーを感じています。
- プロテスタントの方々との関係を通じて、信仰のお誘いに悩んでいます。私は無宗教ながら、信念に対する理解と興味を持っています。しかし、クリスチャンになろうとは思っていません。参加することで罪悪感を感じ、贈られる書籍にもプレッシャーを感じています。これまで適当に対応してきましたが、悩みが募っています。
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質問者が選んだベストアンサー
私もそうですが、クリスチャンと呼ばれる人は、伝道することを使命と考えています。 折があってもなくても伝道するようにと聖書には書かれています。 それでも私は、宗教に関しては人に押し付けられるのもいやだし、押しつけるのも嫌です。 子供の時から学校までキリスト教主義だったこともあり、 私は自分が信じたいから教会に行きました。今も教会はオープンマインドで、 どんな人でも分け隔てなく迎え受け入れるそれだけでいいのではと思っています。 仕事柄クリスチャンの方々と親しくなるのは必須ってどんなお仕事なのでしょう。 あなたが教会の方々を利用して利益を得てらっしゃるとは考えにくいですが、 何らかの需要と供給の関係でしたら、ビジネスとして割り切るか相手を、顧客として、 通常程度の気遣いでいいのではと思います。 こう云う事は目に見えない、えにしの糸に導かれるようなところがあります。 あなたが率直に質問して下さってよかったと思っています。 信仰はあくまで個人の自由です。
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- 雪中庵(@psytex)
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仏教のような多神教なら、別の神への包容力もありますが、キリスト教やイスラム教のような一神教の排他性は、世界の状況が示す通りです。 一神教信者相手に、八方美人は無理です。 ただ、同じ断るのにも、イスラム教だの無神論者だの、彼らが直接対峙してる相手を名乗ると角が立つので、僕は、海外で信仰を問われた時には、「仏教徒だ」「先祖代々、同じ墓に入る習慣なので、宗旨変えするとファミリーと縁を切られる」と説明すると、納得してもらえました。
お礼
経験からくる回答をありがとうございました。 ですが海外では通じても、同じ日本人では 仏教徒=たいした信仰は持っていませんよという意味になるか、あからさまな断り文句に聞こえるのではないでしょうか。
- Mokuzo100nenn
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>仕事がらクリスチャンの方々と親しくなるのは必須で この部分に引っ掛かったのですが、質問者さんはクリスチャンをターゲットにして利益を上げるビジネスをされているのでしょうか? それとも、クリスチャンを研究対象として利用する様な仕事ですか? 普通だあれば、後ろめたさを感じる必要のない緩急拒絶に関して、後ろめたさを感じる背景があるのかと疑問に思いました。 もし、質問者さんが純粋な好意からでなくクリスチャンに接近しているのであれば、先方の純粋な好意が重荷に感じられるのは仕方のないことでしょう。
お礼
回答(ご意見?)ありがとうございます。 わたしの仕事は英会話講師で、幼稚園会場に派遣されているのですが、そこがクリスチャン系幼稚園なのです。 幼稚園の先生たちもそうですし、生徒のお母様たちにもクリスチャンが多くいます。
私も無宗教なので、相手方の気持はわかりませんが・・・。 >「キリスト教の良さを知ってもらって、ゆくゆくはクリスチャンの仲間になってもらいたい」という期待は絶対あると思うのです。 おっしゃる通り、お誘いしてくるクリスチャンの方々は期待満々でしょう。 プレッシャーですね。 仕事がらみとなると逃げ場がなくなるので、さらにお辛いと思います。 宗教に限らず、あまり興味のないことを人から積極的に誘われると困ることは多々あると思います。 どうでもいい飲み会だったり、気の進まない会社のレクリエーションだったり・・・。 そういったときは、どのようにお断りしていますか? そのときと同じようにお断りするのは難しいでしょうか? これまでも、上記のようにお断りしても、しつこくお誘いを受けるようでしたら、やはりきちんと自分の考えを伝えた方がよいと思います。 「私には今現在、信仰心は必要ありません。しかしながら、あなた方の親切心はとても嬉しいです。もし今以上に興味をもったら、礼拝に行くときなどはこちらからお声掛けしますね」とか。「こちらから」がポイントです!あとは、穏やかに笑顔で応えた方がいいと思います。 もしこれで、不快なことをされたら、それは本物のクリスチャンではないと思います。腐った(歪んだ)信仰心の持ち主だとしか思えません。 信仰は個人の自由だと思います。 あなたの考えも、クリスチャンの考えも正しいと思います。 お互いが尊重できるといいですね。 頑張ってください!
お礼
回答ありがとうございます。 興味無いことに誘われた時は「用事があるので」でだいたい切り抜けるのですが、日曜日がだめなら平日の会に・・・昼がダメなら夜の部もある・・・などきりがありません。 なかなか「信仰心は必要ありません」とか「興味なくて」が言えません。相手を不快にさせるか「信仰心というのはね・・・」という話が始まるかどちらかな気がして。 でもこちらから、と笑顔で応えていきたいと思います。 お誘いくださっているのは本当に人間のできた方々で、不快なことをされたりはこれからもないと思います。他の回答者がおっしゃっているように、善いものを勧めるのは当然という考えなんだと思います。 だからこそ断り続けて期待を裏切るのが心苦しいです。。。
- michael-m
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人でも自然でも、自然とその存在に感銘を受け、頭が下がる、仰ぎ見る、尊敬するという心の発揚を「信仰」といいます。我々が普段信仰と言っているのは、誰か或いは何らかの教義或いは定義を信じることを言いますが、これは実際には信仰ではなく「信心」と言います。信心は思想哲学でも同じことであり、元々仏教は思想ですから信仰ではなく信心なのです。 で、本題ですが、キリストは一言も私の教義を信じろとは言いませんでした。神を信じ、神の教えに従って生きろといいました。それはキリスト教に所属することでは有りません。 旧約聖書にのみ生きるユダヤであればいいでしょうが、ユダヤには種族差別があり、どんなに改宗したところで純粋なユダヤにはなれません。 キリストはその旧約聖書を超えたところに神の教えを説きました。だから洗礼を受けるか否かの違いとは「原罪」の有無だけなのですが、キリストは自らの死を以って、人々の原罪をも許すようにしました。 すなわち、天国には入れるか否かは教徒であるか否かではなく、如何に神の教えを守って生きるかにあります。 より積極的な教えによる生活を使うために洗礼を受けます、そしてそれを勧めることに何の悪意もありません。善いものを勧めるのは当たり前のことです。でもそれは本を読むとかミサに出ることではなく生き様です。 そのことを理解していれば、そして実践していれば、特に洗礼を受ける必要もないし、理解した上で断れば次第に勧める回数も減ると思います。それでも勧めてくるようであれば、少しご友人の信心というものが違っているのでしょうね。本を読んだりミサに出ることで救われると思ったら大間違いです。 普通に生活していれば、誰でも天国に入れますよ。
お礼
回答ありがとうございました。 キリストの教えを理解しているとは言えません。本当に上っ面しか知りません。 だからこそもっと知ってもらいたいとみなさん誘ってくださるのでしょうね。
お礼
回答ありがとうございました。 伝道することが使命なのですね。 迎え入れるそれだけでいい・・・なるほど。わたしが礼拝に行った時はまさにそんな雰囲気だったと思います。 わたしが知るクリスチャンの方々の行動についてとても納得できました。 わたしの仕事については下の回答者さまのお礼に書きました。 通常程度の気遣いで、あまり深く悩まずにいこうと思います。 おっしゃるとおり、こういうことは目に見えない何かの力が導いてくれるものだと、わたしも思います。 今は必要ないと感じていますが、いつか聖書の中の言葉が心に響いてきたりするのかもしれません。 そういう意味でクリスチャンの方々と親しくなれたのは、とてもよかったことだと思っています。