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信仰とは?
- 信仰とは何でしょうか?死人が蘇ると信じる事?祈るより他無い時に頼るもの?皆で一つの教えを信じて仲間になること?
- 現代に生きる我々は何を信じるべきでしょうか?科学?人間?愛?お金?神?家族?自分の心?
- 人は全く何も信じないでは行動できません。哲学として皆さんが考えた結果、信じられるものは何ですか?
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ささくれた心を整えて、世間に溺れず、眼を備えて、耳聡くして、物事の真相を観察すること。 次第次第に明らかになる物事の真相を判じて、自分の人生の有様を決定する。 正しい信仰を持っている人にもし遭遇したならば、信仰について真に知ることができると思う。知らないことについては知らない、それに遭遇する迄は分からないことです。 しかし、自ら起こす信仰と言うのはあるはずであり、それは、自らのこころが指し示すところで、その対象は内的な光かもしれないが、確かに存在するものと言える。たとえ目が見えずとも、耳が聞こえずとも、こころが活きているならば、その人は光を得ているのであり、輝いているのだと思われる。 信仰とはその対象が主役ではなく、起こした人が主役なのではないか。 自ら起こした信仰が、自らに力を与える。 そのように私は思います。
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- 雪中庵(@psytex)
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宗教は、人の意識が肉体に付属した感覚器官によって 発生するために自己中心的になりがちなところを、社会 性の発達に付随して社会性を持たせるために、その社会 生命性の自覚を育成せずに、アメ(お金や出世といった 馬車馬の目の前のニンジン)とムチ(法規や宗教などの 外的権威)を発達させたのだ。 生きる目的が物質的豊かさや衝動的快楽であるならば、 そうした自覚の伴わない達成でも良いが、心の豊かさに よる精神的充足量の最大化が生きる目的であるならば、 社会生命的自覚(=自己の生の社会的拡張をフォロー できるだけの認識の深まり)による自律的社会行動 (=愛による助け合いとしての労働)=生きること自体 による喜びの方が優る。
お礼
え? 何が何に優るんですかね?分りにくいと言うか 構文がよく分かりませんねえ。 精神的充足量の最大化が生きる目的だろうと言う訳ですね。 成る程 それを信じていけば良い訳ですね 分かりました。 どうも大変ありがとうございます。
- 177019
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所詮は「掲示宗教」の欠点だと私は思います。「原因と結果」から言うと、自分が信じる宗教、教え、それを拝む信仰の対象物、これは一体であるからこそ、祈り修行すれば結果が出て、願いが叶えられる。そこに欠陥は無い事、私たちの宗派においては「文証、理証、現証」と言って、今の時代に文献的に正しいか、主張の内容が道理に叶っているか、現実の証拠として正しいか、この事が宗教を信仰する上において第一に考えなければならない事です。この一つの法則が他宗では間違っているから、苦しい時の神頼み、結婚式は教会で、七五三は神社で葬儀はお寺でが世の中の常識のようになってしまいましたが、これでは本来の宗教の姿とは言えない訳で、風邪の注射もガンの注射も皆同じという事になってしまいます。物事の道理として先ほどの「原因と結果」ではありませんが、私の宗派は例え信徒であっても朝夕の勤行、唱題は修行の根本中の根本であり、またその教えを住職と共に学びあい、又この信仰の素晴らしさを知らない人達に教えて上げる。このような行動があってこそ、原因として自分に家族に幸福がもたらせるのです。
お礼
成る程。文証、理証、現証ですか。なかなかいい考えですねえ 仏教系でしょうねえ。よくは存じませんが朝夕の勤行、唱題というと有名な団体かなとも思いますが 1理も2理もありますねえ。 成る程です。 文証というと お経のことでしょうかね? どうも大変ありがとうございます。
- 田場 隆司(@taba4316)
- ベストアンサー率40% (23/57)
キリストの愛に報いて生きるとは キリストがあなた自身の罪の身代りに十字架で死んだと言う事を認めて、そのことを人々に伝えることです。 これがキリストの愛に報いることになるのです。 「イエスキリスト様は私の罪の身代りに死んでくださったのよ、」と人々に伝えることができる人をキリスト者と呼ぶのです。 信じていない人はそのことを伝える事はできません。
お礼
成る程 私の罪の代わりにイエス様が死んでくださった と言われたら なんか信じないと悪い様な気がしますねえ。 そして述べ伝えることが報いること よく分かりました。 あの時代にはその様な役目を イエスはしたのでしょうねえ。 どうもありがとうございます。
N0.15です。 この時に、全体を知らない限り一部を知ったところで無意味な可能性が多分に含まれている可能性を否定しなければなりません。 は「肯定」の間違いです(*^^*):P
お礼
そうですね 首をひねりました。僕が分からないのかと考え込みました なんか信仰もそういう部分があるのかもしれませんね どうもありがとうございます。
こんにちは。 子供の頃から真理を知りたいと探求を続けています。 真理の会得に関する現段階の私の暫定回答は以下の喩えの通りです。 ------- ある子供が砂浜に穴を空け、海からバケツで海水を汲んではその穴に入れています。 そこへ、悟りを目指して修行している僧侶が通りかかり、その子に「何をしているのか?」と聞きました。 その子はこう答えました。「海水を全部この穴に移そうと頑張っています」。 その僧侶は微笑みながらこう返す。「こんな小さな穴に海水は入らないよ」と。 するとその子は正体を現し、天使の姿になってこう言いました。 「あなたの小さな認識能力の中に森羅万象の真理を詰め込むよりは遥かに容易い事です」 ------- まーその通りです(笑) 海水の全てを知る事はできないかもしれないが、一滴やバケツ一杯位なら研究しその一部を知る事ができます。 この時に、全体を知らない限り一部を知ったところで無意味な可能性が多分に含まれている可能性を否定しなければなりません。 ルービックキューブの一面を揃えて満足し、その事に異常に固執していては、その揃った面を壊さなくては整える事のできない全体に至る事は決してありません。 我々の認識能力に感知できる類いの多分全ては流転しながら形を変えて行きます。 今この瞬間の地球の状態を知るにはどこで誰が何をしているか何を話しているかを含めて知らなければなりませんが、それを認識している間にも既に変化は起こっており、その瞬間の認識が完了した時点では既に変わってしまっている。 このように、頭で理解してまとめる(体系つけて記憶する)事ができる事柄の中には本当に大切と言えるものを閉じ込める事ができない。 私たちは自分が良く知りもしない事を軽々しく否定しますが、その行為がなければ世界に起きている諍いの大部分は消えてなくなるでしょう。 自分は何も知らない、知り得ない者である事を知り、謙虚と尊敬を持たなければそこに愛が生じるのか疑問が残りますし。※愛はそれが真実の愛である限りにおいて信仰よりも重要の様です。 幽霊の存在を否定する人は何を根拠に否定しているのでしょう? 別に幽霊の存在の有無に私は興味がありませんが、こんな身近なところにも「根拠の曖昧な信心」がゴロゴロ転がっているのが我々の現状です。 人が死後復活しないと何を根拠に否定できるのでしょう? 手で触れるだけで傷が癒える事がありえないと何を根拠に主張するのでしょう? 因に私はこの点にあまり重きを置いていないので議論するつもりもありませんが。 書きたい事は山ほどあるのですが、きりがないのでそろそろまとめます(笑) これも私の暫定意見ですが、信仰は自らたどり着く事はできないと思います。 子供の頃から「何か大いなる者に守られている感」は持っており、故に神様を信じていましたがクリスチャンという形式ではなく、よくいる漠然と信じているタイプでした。 ところが、悟りには非常に興味がありずっと探求していたところ、ある時「与えられた」のです。 (もちろん森羅万象の全知という意味ではありません。) その時、自力で信仰にたどり着こうと努力していた自分を振り返り、アリが自力で太陽に行こうとしている行為に例える事ができるなと思いました。 先ず不可能だし、何かの加減で近づけたとしても太陽の熱で自身が解けてしまい、認識の主体そのものが消えてなくなってしまう。 信仰はそれそのものが既に「大いなる賜物」です。 何が起こるからとか、何ができるからなどとは必ずしも関連づける事はできません。 外からあの人は真の信仰があると明確に解るものでもありません。 「そう見える」と窺い知る事ができる程度です。 その人の生き方、考え方、物事に対する姿勢、etc。 これを頭でっかちの狭量な視点からではなく、ゆったりと大きく謙虚でかつ遠慮なく洞察し、その結果を自分なりに信じる。 人と人との間に於ける信仰はこれが大切で、神と人との間に於ける信仰はもう他人には全く及ばない範疇です。同じ宗教の信者でもです。 よく世界観は人それぞれ違うとか価値観が違うなどと言いますが、私に言わせれば日々会う人会う人ほぼ全ての人が似た様なものです。 究極まで掘り下げて相手の世界観などを検証しないからそういう考えになるだけ。 信仰云々以前に相手が何をどう認識していて、それを何のためにどう運用しているのかを知ろうともせずに「人それぞれ」などと言っている人たちの知能水準はどのへんにあるのかと思っています。 信仰は責任感や忍耐、思いやりや親切などなど人間が「徳」とするものの多くを教えてくれます。 それが究極大事なものではないかもしれませんが、重要な要素の一つです。 いきなり信仰とはと考えるより、とことん話せる人ととことん話してみてはいかがでしょう。 そのためには自分自身が先ず軽率な判断を改めなければなりませんし、相手に対する敬意などもなければ最後まで話すのは難しいでしょう。 この点は信仰があろうがなかろうが同じ筈です。 人事を尽くして天命を待つではありませんが、信仰があろうがなかろうがいずれにしろ大切な事を積極的に日々開拓していくだけでもそんじょそこらの信仰を持っていると自負している人よりも有意義な人生を歩く事ができるかもしれません。 超~~長くなってしまいました。(^^;) ※こういう事に関して短い文章苦手
お礼
成る程 成る程 バケツに海水を集めるよりも宇宙の真理を知る方がむつかしい? 全ては瞬間瞬間変わっていくなだから認識できるはずもない。 ルービックキューブの一面を揃えて慢心していては全面を知ることはできない。 ありが自力で太陽に向かうようなもの、近づけば熱くて焼けるかも 人と人の信仰は勿論、神と人の信仰も深い洞察が必要 巷の人はそうそう考えているものでもない 似たり寄ったりの考えで 信仰を知るには話せる人ととことん話すのがいいだろうと こういう訳ですね。 そうですねえ もし進行に価するものがあれば教えて頂きたかたのですが なかなかそれを知るのは難しいということですね 分かりました どうも大変ありがとうございます。お疲れ様でした^^
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
信仰の道とは、自らの大道を行くことだ。 誰か他人から、教えだと言い含められたことに烏合する事ではない。 自分だけの信仰心に生きることだ。
お礼
お話はよくわかります。しかし教えて貰わなければ分からないこともあります。 烏合するのはいけないのでしょうけど、融和するのはいいのでしょう。 最近の日本の宗教は烏合という感じが多いですねえ 日本人が郷里に関心を持たないような気がします。 選挙をやっても投票率は低いし。 自分だけの考えで信じる信じないを決めるのがいいのでしょう どうもありがとうございます。
- 田場 隆司(@taba4316)
- ベストアンサー率40% (23/57)
回答 キリスト者とはキリストの愛に報いて生きる人のことです。 何を信じるか? キリストが「自分自身の罪の身代わりに父なる神様の前で罰を受けてくださった事を」受け入れ、認めることです。 「私の罪の身代りに十字架で罰を受けて死んでくださってありがとう御座います。」と心からの祈りを全知、全能なる神様に捧げることによってあなたは救われ神様のルールが少しづつ理解できるようになります。 その素晴らしいキリストの愛にお答えする生き方を始めた方々を新生したキリスト者というのです。 そのようなキリスト者は希です。 神の存在、愛、ルール、などを認め信じても、生まれ変わったキリスト者とは言えないのです。 「本当のキリスト者とはキリストの十字架の愛に報いて生きている人をいうのです。」
お礼
その キリストの十字架の愛に報いて生きるというのは 分かり易く言うと どういうことでしょうか? 私の質問はキリスト教の信仰に限らず 現代・現在、何を信じて生きることが出来るのかではありますが。 まずその報いる為にはどうすれば良いのか教えて貰いたいです。 どうもありがとうございます。
- ootemon
- ベストアンサー率13% (558/4273)
結局信じられるのは自分だけです。 信仰っていっても想像上の生物とかわらないものを崇拝してもなんにも 自分の得にならないといつも思ってます。
お礼
それは本当かもしれませんねえ 親でも子でも 自分のことを何処まで分かってくれるか? 疑問ですねえ。親友でも長く付き合うには自分は自分と思っていないと 距離が近くなり過ぎると意見の相違で悩まされますよねえ 仰ること 分かりますよ どうも大変ありがとうございます。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
"世界には数億のいや十数億のクリスチャンがいるでしょうけど その人たちはこれを信じているのでしょうか?" ↑ 信仰には濃淡があります。 本当に信仰している人は、未だに進化論さえ 信じようとはしません。 多くのひとは、適当に折り合いをつけて 信仰しているのだと思います。 ”果たしてこの様な信仰 クリスチャンに限らず 神頼みの信仰は何のためにあるのか?” ↑ ・人間に倫理を教えるため。 ・食物連鎖の頂点に立つ人間を謙虚のさせるため。 ”それは己の心を強く持ついために在るのではないでしょうか?” ↑ 信仰する、ということは特定の価値観を構築する ということでもあります。 その意味で己の心を強く持つ、ということは いえるでしょう。 ”それはクリスチャンが投票してるとはとても思えないような軍事力と資本主義 格差社会と大国のエゴ そして権利の主張と裁判の数です。” ↑ オウムだってイスラムだって社会主義だって、それは同じです。 教えの内容は素晴らしいモノがありますが、 人間が実践すると、そうなってくるのです。 教えが悪いのではなく、人間が悪いのです。 ”一体現代、現在に生きる我々は 何を信じるべきでしょうか?” ↑ ワタシは次のように考えています。 一番大切なモノは何か。それを自分で決めること。 決めたら信じること。 死を想定しましょう。 明日、俺は死ぬ。 その時何が残るでしょうか。 最後に残ったモノが、自分にとって一番大切な モノです。
お礼
成る程 今日のはよく分かりました その解説スタイルも伊達じゃないですねえ 最後に残ったもの と言うのは死んだ後に残ったものでしょうか? それとも生きているうちに残ったものでしょうか? 見事な解説だと思います どうも大変ありがとうございます。
こんにちは。時間ができたので、私見をばひとつ、のたもうてみたいと奮起しましたことをお許しください。 わたくしにとって信仰とは、かつて愛されていたころの記憶ではないかと顧みております。だからまた同じ行動をすれば、また愛されるのではないかと、同じ行動をしてしまう。 そこまでは許せる範囲ですが、それを体系づけて、これはこうだとか、あれはああだとか、物語を作ってしまうと、それは現実を何もわかっていないが故の間違いだと思うのです。 現実において、何かをわかるということは、新たな疑問がわくということでもあります。 それを物語で完成させるということは、何もわかっていないということではないでしょうか。 そうすると、何も信じられなくなるだろうか? いや、かつて自分は愛されていたことを信じることができるのではないでしょうか。今はどうか知れませんけれども。 たとえ、かつて愛してくれた人が、自分のもとを去るとしても、その朝を快く送ることが、信じるということではないでしょうか。そしてかつての愛にむくいることではないでしょうか。
お礼
愛されるということ 愛するということは、キリスト教でも最大のテーマですね。 神を愛せ。 隣人を愛せ。 かつて一年だけカトリック幼稚園に通いました。その頃の愛された記憶が私の信仰のイメージです。 愛された記憶から また同じ行動をして愛されたいと願う それが信仰の一面だと思います。愛 という言葉で目が覚めました。 どうも大変ありがとうございます。
お礼
何と言うか 正論だと思います。信仰とは本来そうあるのが良いのでしょう。 よく分からないまま 薬師如来に手を合わせ 念仏を唱えるというのもありますが 心を澄まして知り得たことに信を置き 自分が主役の人生に力を得る事の出来る信仰を持つのが 信仰のあらまほしき姿であると僕も思いました。 成る程流石ですね どうも大変ありがとうございます。