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哲学者の頭の中から神が消えたのはいつ頃ですか?
西洋哲学においてかつては神の存在が前提とされていたと思います。スコラ哲学や形而上学など神の存在抜きに考えることはできないと思います。しかし、現代においては哲学ももはや神の存在を前提にしていないと思います。西洋哲学において哲学者の頭の中から神が消えたのは歴史的にはいつ頃でしょうか? 1)年代的にはいつ頃でしょうか? 2)神など存在しないと言い出した哲学者は誰でしょうか?ニーチェでしょうか? 3)神がもはや存在しないと考えられるようになった背景(原因?)は何でしょうか? 4)もし、現代において神の存在を前提とする哲学論文を専門誌に投稿した場合に査読を通って掲載される可能性はありますか?
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(1)年代的に言うと17世紀の「科学革命」と18世紀の「啓蒙主義」だと思います。 「科学革命」は古代ギリシャ以来のアリストテレス・プトレマイオスの天体観と、アリストテレスの「自然学」の運動論を、ガリレオが「偽金鑑識官」でいうように「神が作った自然という書物は数学の言語で書かれている」と言ったように、数学によってひっくり返したものでした。 そしてデカルトが心と身体を、精神と物質を二元的に分離してより、自然を量的なものとして考える解析幾何学を創始し、自然を科学的・合理的に考える機械論的世界観が台頭し、それによって神を自然から追放してゆきました。 (2)神の存在証明というのは中世のアンセルムスから、アベラール、トマス・アクィナス、ドン・スコトゥス、ウィリアム・オッカム、そしてデカルトと西欧の神学者・哲学者によって遂行されてきましたが、それを18世紀末のカントは「純粋理性批判」の弁証論の「神の存在論的証明の不可能のゆえんについて」で、徹底的に論駁してより、中世以来の神の存在証明の歴史に終止符を打ちましたので、以後、誰も神の存在を証明しようという試みは無くなりました。 神の存在証明には以下の3つがあります、 a、神の自然神学的証明(一名、目的論的証明)・・・・自然の合目的性に基づいた証 明。 b、神の宇宙論的証明…・・・世界の存在の第1原因に基づく証明。 c、神の存在論的証明(一名、本体論的証明)・・・・完全性の概念に基づく、あるいは必然性に基づく証明。 カントはこの3つの神の存在証明をことごとく論駁しました。 残ったのは神の道徳的証明だけでした。 そして、この道徳的証明だけは現在でも残っています。 19世紀末にニイチェは「神が死んだ」と宣言しましたが、ニイチェはキリスト教の神が死んだと言ったばかりでなく、そのキリスト教の神学の背景にあったプラトン以来の「形而上学」の終焉を宣言したものでした。 キリスト教神学というのはプラトンの「イデア論」によって作られたものです。 一般に西欧の哲学の歴史はプラトンの「形而上学」の歴史であり、そしてそれを受け継いだ神学の歴史です。 ニイチェはプラトン以来の「形而上学」をひっくり返し、その結果としてキリスト教の神学を葬ったのです。 (4)すでに申し上げたように現代で、神が存在するとしたら道徳的な意味においてだけです。 実際、カントも「純粋理性批判」では、神の存在を否定しましたが、次の「実践理性批判」では、道徳を論じるのに神の存在を必要としました。 でも、キリスト教に対する信仰は残っていて、神学も「否定神学」というのもありますから、キリスト教関連の大学とか、そういうところだったら、論文を提出して査読を通るということはあるんではないですか?
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- momochan_0110
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全部の哲学者の頭の中から神は消えていない(現在も)と思います。有名な故大塚久雄教授は敬虔なプロテスタント信者です。哲学者ではなく経済史家ですが社会学に分類されるマックス ウェーバーの翻訳者として有名です。また、マックス ウェーバーも所謂「プロ倫」でプロテスタントの教義である「予定説」が「資本主義の精神」を導いたという「学説」を展開しております。少なくとも彼らの後継者で神を信じている人は確実にいます。 4)ですが個人名は出せないのですが東京の国立大学(東京大学・一橋大学・御茶ノ水女子大学・東京工業大学・東京医科歯科大学のいずれか)の名誉教授は査読を通す可能性は高いと思います。(社会学)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 《神が消えた》〔とあとからでも分かる〕のは 何と言っても ナザレの人間でイエスという男が 自分は神の子であり その父なる神と同等であると言い出したときからです。 イエスというふつうの人間がキリストという神の子でありみづからも神であるという大いなる虚構を語った。このときから 神は――実質的に言えば その言葉をいちいち知ったり表現に使ったりすることが――要らなくなった。 (神を知れと言っておしえることがなくなるというのは へブル書8章に 旧約のエレミヤ書31:31以降のくだりを引いて述べられています。契約があたらしくされるというところです)。 非経験の場として想定されうる神が――それは とうぜん相対的な経験世界や人間とは絶対的に隔たりを持つというにもかかわらず―― 経験事象としての人間という存在でもあると とにかく虚構としてでもそして遺された弟子たちの語る物語としてでも 自己表現された。ここから 神は要らなくなりました。 当然のごとく その《神が消えた》ということは 時間差をもって歴史の中で現実において 実現して行きます。 (たぶん このことを分かっているのは現在でも 何人もいないと思われます)。 2) ニーチェが死んだと言ってころした神は 人間が思考や想像によってこしらえた観念の神です。人間の願いのような心情としての神であり せいぜいが信念として――これは実際に働くことはあり得ますから――持たれた観念や理念としての神です。 いかんせん人間の思考は 移ろいゆかざるを得ません。つまり観念の神は 人間がこしらえた時から模造品であり わざわざ人がころさなくてもすでに死んでいます。 3) ★ 神がもはや存在しないと考えられるようになった ☆ という命題は 誤解です。 神が存在するということの証明は人間に出来ないのと同じように 存在しないということも証明できません。 《非経験の場》は 誰にでも――その想定のかぎり――現実です。逃れられません。非経験の場が 神のことです。有るか無いかは 分かりません。分かるか分からないかが人間には分からないナゾです。人間があるかぎり宇宙が存続するかぎり 変わらざる命題です。 むろんその曲解として《神はいないと考えられるようになる》ことはあり得ます。まぼろしです。 4) は 知りません。推測としても分かりません。 ただ 一般的に言えば 表現の自由はとうとばれるべきだとは考えます。 中身で勝負のはずだという意味です。
- 雪中庵(@psytex)
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白人相手に、「僕は無神論者だ」と言うと、すごく 軽蔑されるので、海外コンサルとして付き合う時は、 「ブディストだ」とごまかしていました。 もちろん現代において正面から神を扱うと神学になっ てしまいますが、少なくとも存在の起源や生の本質を 扱っていない限り、潜在的に第一原因としての神を 前提としている。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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まだ神は消えていないのではないかな。 哲学者が自己の論理の前提条件を説明する時には、否定的だろうと何だろうと、神に対する自己の見解が何らかの形で説明される。 その上で、 出来るだけ神様に頼らないで、自分自身の考えを説明します。 こういう形で主張があるんじゃないかな。 哲学者がしきたりを無視しても前提は所詮そんな形だ。
どう伝えたら良いのでしょうね・・・ 人間始祖・・アダムとエバの堕落以降 神と人間は会話が出来ない状態になり その為 供え物でしか 神が人間に近づく事は出来なかった・・なので この年代から と言うのなら 人間始祖の堕落以降から・・としか言えないし そして それが 人間の意思で無く サタンの意思に依るものだ・・と言う事まで あなたに判るだろーか!?
お礼
回答ありがとうございました。お礼が遅くなってすみませんでした。