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大乗
こんばんは。 「大乗」って。 結局の所、「Mr.Xが救って下さる」のを待つしかない(他力)、って、 そういうことで、いいですか。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
★(No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ 単に、「悉皆成仏」だから「大乗」、なのでは? (Xとは「関所の番人」でも、居なくてもよいわけです?) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最初の大乗は そうでした。 《悉皆成仏》と《一切衆生 悉有仏性》とは げんみつに言えば 異なっています。《悉有仏性》では――《成仏》を目指していることに間違いありませんが―― まだ《成仏できる》とまでは言っていないからです。 ですから 《悉皆成仏》までを言うとすれば そのときには 《関所の番人としての X 》もほとんど要らなくなっているはずなのです。 そのように思潮が 展開されて行ったと言える小さくない側面があると思います。 となれば 《すくう・すくわれる》つまり成仏するかどうか・また成仏したかどうかにかかわりなく 言わば修行中のボディサトワとして――しかも 必然的に極楽浄土や死後のことなどは放ったらかしにして―― いま・ここなる世界における生活を ともによくして行こうという思想に変わって来たと見ます。 さらに理屈を添えるなら 《すくい》の問題は 他力です。絶対他力です。すべてをゆだねています。 だとすると 一見 自分自身の修行をおこなう小乗の行き方に成ってくると見られるかも知れませんが それは違います。 この世のことに集中してそれぞれがみづからの努力を寄せ合って共に生きるというとき それは 自分のための修行という行き方ではないかと一見 見られるかも知れません。違いは 大乗ではすでに《修行》は終えているというところです。 あるいは修行は どうでもよいと見なしているところです。なぜって すでに《悉皆成仏》とまで言っているのですから。 こんなふうに見ています。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
私も、そもそも菩薩以前に、仏だ凡夫だと分ける意味がわからなかった。しかしながら、仏教、仏道においては、衆生と仏は歴然として異なるのです。 同じように、あくまで大乗の立場に立つならば、菩薩というのは存在しており、仏になれるのは菩薩(偉大なる衆生)だけなのです。大乗の外から見て、そのような別け隔てはおかしいと思ってみても、大乗の立場からはやはり、あらゆる徳を為す清廉な衆生と、ただ苦悩しているだけの衆生には違いがあるのでしょう。 質問が大乗の立場からの回答をお求めであったようなので、そう述べたのです。そういう前提を破棄したならば、どのような答でも出せることになってしまい、質疑応答にならないと思う次第です。
お礼
a_hona様、ありがとうございます。 菩薩だ凡夫だ、というのも。 人権侵害にならない限りは、信教の自由です、か。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
自力だと、精進ということになるのでは? 別に大乗は他力を謳っているわけではないでしょう。何処をどう読めばそうなるのでしょうか。 また、菩薩道の何が可笑しかったのか述べてください。私にはkurinalさんが笑う理由がわかりません。
お礼
a_hona様、ありがとうございます。 >「別に大乗は他力を謳っているわけではないでしょう。」 「絶対他力」を謳う、ところもあるので。 >「また、菩薩道の何が可笑しかったのか述べてください。私にはkurinalさんが笑う理由がわかりません。」 (仮に)釈迦が、「ヒント」を述べた。と、しましょう。 ・・・「菩薩」だ「凡夫」だと、分け隔てる意味が、判らないのです。
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
何か可笑しかったでしょうか。
お礼
はい。 >「結局の所、「Mr.Xが救って下さる」のを待つしかない(他力)」 仮に、「自力」では、どうなるのですか?
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 自未得度 先度他という行き方があります。 《すくう・すくわれる》をすでに超えて いま・ここなる生活とその共同について思いを馳せ 互いによくして行きましょう。という思想が マハーヤーナ―・ブディズムです。 人と人との関係性 あるいは 社会的共生 こういったことがらが主題となります。 すくわれるかどうかという・往復の内の《往き》のほうには もう注目しません。 往復の《復》すなわち この娑婆世界に戻って来て生活しているということを重んじます。それも あなたとともに かれ・かのじょとともにという思想です。 その背後に《 X 》なるナゾがあっても無くてもよいわけです。 無くても 無いと信じている信仰なわけです。 これが ですから《大きな乗り物》という所以です。
お礼
B様、ご回答ありがとうございます。 >「自未得度 先度他という行き方があります。 《すくう・すくわれる》をすでに超えて いま・ここなる生活とその共同について思いを馳せ 互いによくして行きましょう。という思想が マハーヤーナ―・ブディズムです。」 凄いですね。先進的と思います。 >「人と人との関係性 あるいは 社会的共生 こういったことがらが主題となります。 すくわれるかどうかという・往復の内の《往き》のほうには もう注目しません。 往復の《復》すなわち この娑婆世界に戻って来て生活しているということを重んじます。それも あなたとともに かれ・かのじょとともにという思想です。」 あれれ、「往復」が出て来ましたか。 ・・・B様も、復活されたクチですか >「その背後に《 X 》なるナゾがあっても無くてもよいわけです。 無くても 無いと信じている信仰なわけです。 これが ですから《大きな乗り物》という所以です。」 そうなのかなあ。 単に、「悉皆成仏」だから「大乗」、なのでは? (Xとは「関所の番人」でも、居なくてもよいわけです?)
- a_hona
- ベストアンサー率21% (95/444)
大乗経典には無量の菩薩達が登場します。おそらくは大乗というのは菩薩道の奨励であり、菩薩となって修行を完成させる道を説いたものではないかと私は思います。
お礼
a_hona様、ご回答ありがとうございます。 >「大乗というのは菩薩道の奨励」 「菩薩道」笑
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
いや、「Xが救ってくださる」というのは小乗(上部座 仏教)です。 修行した一部の人だけが解脱し、庶民はその人に寄進し 功徳を積む事で救われる、という。 大乗は、マントラ(真言)を唱え信心さえすれば、庶民 でも救われる、というものです。 (ま、「X」を神に置き換えるだけの話ですが)
お礼
psytex様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 ヒネリが、利き過ぎているのかな。 「小乗(上座部)は、Xなど必要としない」と解しております。 >「修行した一部の人だけが解脱し、庶民はその人に寄進し 功徳を積む事で救われる、という。」 いえいえ、それは誤解です。 (真に、小乗は、「自分」だけを救う、と理解されれば、誤解は解けるでしょう)
補足
>「修行した一部の人だけが解脱し、庶民はその人に寄進し 功徳を積む事で救われる、という。」 そんな、「宇宙ロケット」のような話では、ありません。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
「大乗」って。結局の所、「Mr.Xが救って下さる」のを待つしかない(他力)、って、 そういうことで、いいですか。 半分いいです。 1。待たなくてもいい(だから「待つ」は間違い) 2。自力によらないで、他力による。(ここは正しい) ご参考までに http://www.good-stone.com/hp/top/qa/qa-80.htm
お礼
SPS700様、ご回答ありがとうございます。 >「半分いいです。」 そう? >「1。待たなくてもいい(だから「待つ」は間違い) 2。自力によらないで、他力による。(ここは正しい)」 そうなの。 「有るって言ったら、有るんだよ」ということですか。
お礼
B様、ありがとうございます。 小生の「ご回答」については、「言いっ放し」となってしまうこともありますが、、、 ご質問をしたところについては、出来る限り、対応して参ります。 >「いま・ここなる世界における生活を ともによくして行こうという思想に変わって来たと見ます。」 (仏教)過激派については。 「即身成仏」しちゃうようなのを、「仏教過激派」と、位置付けてきました。 >「さらに理屈を添えるなら 《すくい》の問題は 他力です。絶対他力です。すべてをゆだねています。」 ・・・多分、そのように「定義」だから、ですね。 >「だとすると 一見 自分自身の修行をおこなう小乗の行き方に成ってくると見られるかも知れませんが それは違います。 この世のことに集中してそれぞれがみづからの努力を寄せ合って共に生きるというとき それは 自分のための修行という行き方ではないかと一見 見られるかも知れません。違いは 大乗ではすでに《修行》は終えているというところです。 あるいは修行は どうでもよいと見なしているところです。なぜって すでに《悉皆成仏》とまで言っているのですから。」 なるほど。 「救って下さる」が示された瞬間、モラル・ハザードが起きたのですね。