ウィキから・・・
アルケーは「はじめ・原初・根源」等の事。哲学用語としては「万物の根源」また「根元的原理」を指す。宇宙の神的、神話的な起源である。・・・とあります。
また、新約、福音書においてイエズスは「わたしはアルパ(A)でありオメガ(Ω)である」と述べたと記されている。・・・ともありました。アルパであり、オメガである、とは総てという事ですよね。
ならば、釈尊はアルケーの世界を実体験した人、と言えると思います。
大乗も小乗(部派仏教?)も“万物の根源”を明らかにしているわけではなく、そこまでの過程の姿勢の違いを云っているにすぎません。
完全なる“教え”は“完全なる人”でなければ出来ないのではないでしょうか。
その完全なる人“釈尊”はたぶん、大乗とか小乗とかについての良し悪しを云ってはいないと思います。
釈尊の残された業績は、その到達した心境、萬物の根源の真理、を「般若心経」で顕わされ、人の心を「四諦八正道」で明らかにし、それに依って衆生を導いたことです。
釈尊こそは、その身、“体(からだ)”を持ちながらアルケーの世界に心を住まわせることが出来た人、と云いたい。
言い換えれば“悟りの世界”に住んだ人、と云えると思うのです。
もちろん、命あるうちは最小限の肉体の生理的欲求はあったはず。
でなければ、生きていられません。