簡単に書きます。
経典の言葉を借りて一言で言えば、それは「煩悩のせい」ということになります。
「如来性品」という章には、「衆生は無量の煩悩に覆われているために仏性を見ることができない」、また「常に善知識と接していないために仏性を見られない」などとして色々な譬えを挙げています。
また「獅子吼菩薩品」という章では、「三毒の煩悩を滅すると仏性を見ることができる」、「八正道を歩んで煩悩を除くと必ず仏性を見ることができる」などと書かれています。
涅槃経は、確かに「一切衆生 悉有仏性」つまり生きるもの全てに仏性がある、という思想を繰り返し説いています。
ただ、注意して欲しいのは、涅槃経の言わんとするところは、みんなに仏性があるからもうそれでいいのだというわけではないことです。仏性があるからといって既に悟りを得ていることにはならないし、そう主張することは大きな過ちだ、とも書かれています。涅槃経が意図しているのは、仏性があることを説いたうえでそれを磨きだす努力を誘発させることなのです。この点を、涅槃経ではいろいろな譬えを用いて重点的に説いています。
それからもうひとつ注意すべきは、実体としての仏性を説いているのではない、ということです。仏性は常住であり不滅であると説く一方で、五蘊を離れては存在しないものである、ともされています。あくまでも、修行というそれを開発するプロセスの中にこそ仏性は体得され得るものとして説明されているのです。
上にも挙げた「獅子吼菩薩品」では、「十二縁起を見る者は法を見る。法を見る者は仏を見る。仏とは仏性である。一切の諸仏はこれを本性としているからである」とも書かれています。要するに、縁起を正しく見ることは仏性を見ることに等しいのであって、修行をよそにおいて実体としての仏性を求めることが本末転倒であることがはっきりと示されています。
ざっと書きましたので、わかりにくいところがあれば補足要求してください。
お礼
丁寧に書いていただいてありがとうございました。 勉強させてもらいます。