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大乗仏教と鎌倉仏教
大乗仏教の精神は、利他行だと思います。しかし南無阿弥陀仏、南無妙法連華経などは、自分自身が、浄土とか天国へ行く手段だと思います。自己中心的な行動だと思います。 鎌倉仏教は大乗仏教の精神に相反するのでは?
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- moto_koukousei
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「利他行」の精神 (1)自分自身の成仏を求めるにあたって、 (2)苦の中にある(一切衆生)をまず救いたいという心を起こすことを条件とする 他者の救済活動(利他行)で、自分の解脱を完成させることができると考えている。 損して得取れ、win-winとやや似ているが、歴史的には、発想が異なる。 釈迦の教えを忠実に実行することで涅槃に到ることを旨とした仏教を忠実にやっていると、布教には早く限界が来る。 修行に耐えられない人の方が多いし、日常生活の維持が喫緊のことであって瞑想や修行などやっていられない多くの人にとっては無縁/高邁なものになる。 さらに自己の修行で涅槃が確実に得られるかに不安を持ち、釈迦の事跡を再検証したとき、釈迦の菩提心にならって善根を積むことも修行に併せて行うことで、より確実に自分が涅槃に近づくと考え、その実行を始めた。これが出家者の行動。 利他行を行ったとき、対象者(世俗者)から感謝されるだけでなく、自分たちは涅槃はできないのかという問と涅槃に至る自分たちにできる手法に関する問が出され、「あなたは修行しないから無理です。ダメ」という回答ではなく、可能性は十分にあるというアサーション(アサーティブな対応)が「俗世間にいて、出家しなくとも、この利他行を続けてさえいけば、誰でも未来世で成仏できる」となった。 その後には、「利他行の継続で未来世で成仏」をさらに変えて、「真言加持」「観相念仏を否定し称名念仏のみを認める」「他力本願」「名号称名ではなく信心正因を説く」「唱題」などの思想も生まれる。 鎌倉期は、平安期よりも一層生産力が増加し、民衆の生活も隷属民状態から少しずつゆとりが出てきた。貴族だけでなく武士にも経済力を持つものがでて、生活にゆとりがある人数が増える。商業活動・商人も増える。農耕民にも明日や人生を考えるものが増える。その層に対して救いの信仰を与える面が鎌倉仏教にもあった。(土着の民俗信仰・アミニズムは継続) 鎌倉期には天台は最強の宗派だが、それ以外に浄土系では他力易行が喧伝された。そのほか多くの宗教が盛んになる。一概には特徴を言えない。 世の中全体の宗教活動では、修行僧の行を重視する割合が減り、利他行を重視する割合も減り、称名唱題信仰心を重視する割合が増加した。 『「他者の救済活動(利他行)を、自己の解脱のための学習や修行に優先させることで、自己の涅槃成仏が可能になる」とか、「自己の涅槃成仏には、他者の救済活動(利他行)は必須の重要なものである」とかの要素をもっていない場合は、大乗仏教ではない』と考えれば、鎌倉仏教ではなくても、多くの仏教諸派は大乗仏教ではないことになる。 しかし、南無阿弥陀仏、南無妙法連華経(称名、唱題)を重視していても、宗派の開祖やその後継者、あるいは一般信者にも、人々の苦しみを救わねばならないという強い気持ちを持ち、他者の救済活動(利他行)を強く行っている人も多く、あるいは、利他の心が強いから活動をし布教に努めているのですから、こうした宗派を大乗仏教でないとはいえない。 鎌倉仏教(浄土系)などを大乗仏教でないと断じるのも、一面的に過ぎる。 生活や老、病、死などの不安でいる人に、安心と平穏を獲得させるのも、利他行といえる。 その側面では、信仰による安心を与えることは利他そのものであり、今日明日の生活を支えるベースを強化するものでもあり、一心念仏の勧めも、大乗仏教の具体的形態の一つと考えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 今なら、医師、介護士、カウンセラー、アドバイザーは、利他の仕事をしています。 中国や日本で仏教が導入されたのは、政治や建築、土木、治水、工芸、医療などの面で役立ったという要素が大きいです。仏教は最先端の技術知識を伴うものでした。 精神面では不安をなだめ抑える教えを説いたのです。 ( 不安を抱える人が、仕事に手がつかなくなり、思考も後退し、健康からもどんどん遠のき、生活が破綻していく恐れがあるのは、現代でも同じです ) 平安時代も、鎌倉時代も、僧や修行者の地方での活動が、地方の治水や保健衛生を向上させたことも忘れてはならないでしょう。
鎌倉仏教を詳しくは知らないので、それが大乗の精神と相反するとまではいえないのですが、質問者さんの言わんとするところはわかる気がします。 鎌倉時代、貧しさなどから、武士や庶民の間では、自己の救済を特に望む傾向があったのかもしれませんね。
- gadovoa
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解釈を狭めていると思います。 法然や日蓮がそんなケツの穴の小さい人物でしょうか? 大乗仏教は形骸化した仏教を批判してでき、 広く人を救うという目的です。 鎌倉仏教は正直仏教を壊しましたが、 法然親鸞日蓮達はやはり病んだ日本で人々を救おうと考え、 布教にまわったのです。 その目的を忘れ、小さな解釈の詮索により、 「あの宗教は自己中心的だ」などと他宗教を批判するから 戦争がいつまで経っても終わらないのではないでしょうか? 鎌倉にしても大乗にしても人を救うという目的は一緒です。 親鸞の時代にもその解釈によって争いが起き、 「本当の所はどうなんだ?」と農民が駆け寄った所、 親鸞は「南無阿弥陀仏」としか言わなかったそうです。 その一言につきる。ということです。他はないのです。 まぁそんなことを言ったら議論にならないのですけどね。 失礼しました~。
お礼
反対意見を、排除する集団は、暴走し堕落するという事をお忘れなく。 早速のご回答ありがとうございました。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>大乗仏教の精神は、利他行だと思います。しかし南無阿弥陀仏、南無妙法連華経などは、自分自身が、浄土とか天国へ行く手段だと思います。自己中心的な行動だと思います。 自分は「利他行」ができると思っている人と自分は「自己中心的」だと思っている人がいたとして、質問者さんとしては、どちらが「大乗仏教の精神」により合致していると思われますか? 「南無阿弥陀仏」にしろ、「南無妙法連華経」にしろ、長い歴史の中で、より多くの人々をしてときには命を賭してでも守らなければと思わしめた信仰や教義というのは、私を含めた現代人の思量や論理なんかではとても歯が立つとは思われませんが。
お礼
「南無阿弥陀仏」にしろ、「南無妙法連華経」にしろ、大切なお言葉です。私も朝夕、南無妙法連経を唱えております。 しかし、執着し過ぎで、大乗仏教の精神は、利他行だということを、忘れている。教祖が利他行を忘れているのだ。大切なのは、経典ではない。 又、利他行を続けて居れば、自己中心性も小さくなると思います。 早速のご回答ありがとうございました
みんな題目さえ唱えれば、救われる。 如来の名前さえ唱えればみんな救われる。 大乗じゃないですか。 反対に聞きたいのですが、どういう利他行がみんなを救うのですか? 救われる法を広める行為が大乗。
お礼
まず 「反対に聞きたいのですが、どういう利他行がみんなを救うのですか?」ですが、 一隅を照らすとは今自分がいる場所や置かれている立場で 精一杯努力し明るく輝くことのできる人になるということです。 そのような人が何ものにも代えがたい国の宝になるということですね 最澄の言葉です。 これが利他の精神だと思います。 「救われる法を広める行為が大乗。」ですが、人それぞれ悩みが違うのに薬は1つ。 解決する道理がない。 早速のご回答ありがとうございました。
お礼
あなたは、平安時代、鎌倉時代、僧や修行者、開祖達を過大評価しすぎだ。アメリカの海軍も自衛隊も警察も役所の人々も立派に国難に立ち向かい日本を守護している。 混乱期には、誰かが英雄になるだけです。それが法然、日蓮、親鸞であっただけです。 人々の苦しみを救わねばならないという強い気持ちを持てば、アメリカの海軍も自衛隊も警察も役所の人々も、大乗仏教徒ですよね。彼らは来世に、涅槃に入ることなど考えてないですよ。 早速のご回答ありがとうございました。